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番外編 – 星の砂

 砂漠の夜は冷える。眠れずにナオの部屋から抜け出したシエは、足元から伝わる冷気に体を震わせた。靴も履かずに出てきてしまったから、足の裏が冷たくて痛い。取りに戻ろうかとも思ったが、結局やめてしまった。
 ふらふらと歩き回る。赤い砂。黒い建物。全てを覆う、厚い灰色の雲。荒れ果てたこの集落は、まるで手入れのされていない箱庭のようだ。
「何をしている」
「あなたを探していたの」
 シエはぴたりと立ち止まり、振り返った。視線の先に佇むのは、背の高い男だった。片手にランタンを提げている。黒いマントを被ってはいるが、誰だかはすぐにわかった。ヨルだ。シエをこの集落に連れてきた男。過去のない彼女にとって、唯一の存在。
 ヨルはじろじろと彼女を見て、眉を寄せた。
「そんな格好で、何をしていた」
 シエは自分の格好を見下ろす。昼に着ていたのと同じ、袖のない生成りのワンピースに、素足。首をかしげた。
「だから……、あなたを探していたんだけれど」
「…………」
 ヨルは不機嫌そうに顔を顰めると、シエに近付いた。避けない彼女を、ひょいと肩の上に抱え上げる。
「ヨル?」
 シエは彼の肩にしがみついたが、抵抗はしなかった。ヨルは彼女を抱え上げたまま、無言で砂の上を歩いた。彼が歩みを進めるたびに、シエの長い銀髪がゆらゆらと揺れる。ゆらゆら、ゆらゆら。
 ヨルはぽつりと言った。
「よく、おれが今夜外に出るとわかったな」
「たまたまだよ」
 シエはつぶやく。本当に、たまたまだ。
「どこに行くの?」
 いつもの見慣れた衛星基地。だが、彼はいつもは通ることのない階段を上っていった。シエは彼にかつがれたまま、辺りを見回す。どこも荒れてはいるけれど、この辺りは一層ひどかった。禿げた塗装には錆が浮き、壁には大きなひび割れがいくつも走っている。
 ヨルは、階段の突き当たりにあった扉を開けた。ギイ、と耳障りな音と共に、風が通り抜ける。屋上だ、とシエは気付いた。衛星基地の、屋上。彼女が初めて足を踏み入れる場所だった。
 ヨルはある一角まで歩みを進めると、マントを床に広げ、シエをとん、とその上に下ろした。少し離れた場所に、ランタンも置く。
 わたしが裸足なのを気にしてくれたのかな、とシエは思った。だとしたら、うれしい。
「ヨル、寒くない?」
「おまえはどうなんだ」
 聞き返され、シエは口ごもった。少しは寒い。だが、そう答えれば、彼女は追い返されてしまうのではないか。それなら、痩せ我慢をしていたほうがいいのかもしれない。
「寒いのなら、それにくるまっていろ」
 ヨルは短くそう言うと、屋上の端に備え付けられている、筒状の機械をいじりはじめた。長さは彼の身長ほどもあり、空に向かって斜め上に突き出されたような形をしている。
 シエはヨルのマントを拡げ、体をすっぽりとそれで包んだ。ヨルの匂いに皮膚の上を包まれ、ぞわりとした快感が彼女を包んだ。
 シエはヨルの手元を覗いた。
「それ、何?」
 ヨルは答えなかった。シエは仕方なく、じっと彼を見上げる。ヨルはその筒の片方の端に目を押し当てているようだった。何かが見えるのだろうか。筒のもう片方の端は――何もない。宙に浮いて、からっぽだった。
「ヨル」
 もう一度名を呼ぶと、ヨルは筒から目を離し、ちらとシエを見た。冷ややかな暗い眼差し――それを見たシエの表情に、うっすらと笑みが浮かぶ。
「何か見えるの?」
 ヨルは無言でジェスチャーを返した。掌を上に向けて軽く握り、人差し指だけを何度か曲げ伸ばしする。呼ばれていると気付き、シエは立ち上がった。マントを引きずりながら近付くと、ヨルは先ほどまで覗いていた筒を指さした。
「……届かない」
 背伸びをしても、自分には覗けない。恨めしげに見上げる彼女を、ヨルはその華奢な腰を両腕で掴み持ち上げた。
「ありがと」
 シエは筒を覗き込む。
 ――何も見えないじゃない。言おうとしたその時、瞬きと同時に煌めくものに気付いた。
 灰色の雲の切れ間。光が、夜空に点々と不規則に広がっている。
「なに……あれ」
 声が、かすれた。
「きらきら……して、」
「星、というのだそうだ」
 ヨルはシエを床の上に下ろし、そう言った。
「ホシ……?」
「そうだ」
「それ、何? どうして空が光るの?」
「…………」
 ヨルは答えない。彼にもわからないのだろうか。
「今日は空気がよく冷えて澄んでいるから、きっと見えると思った」
 代わりに、ヨルはそんなことをとつとつと口にした。
 シエはもう一度、空を見上げてみる。よくよく目を凝らすと、灰色の切れ目に沿って先程筒を通して見た時よりもごく小さな、砂粒ほどの光がまばらに煌めいているのがわかった。どうやらあの筒は、空を拡大して見るための装置らしい。
「ヨルは、どうしてこれを見に来るの?」
 今日が初めてではないのだろう。今までもきっと、ヨルは時々ここを訪れ、そうして夜空を見上げていたに違いない。「星」という名の小さな光の粒を、暗闇の中に探して。目を凝らして。
「……どうしてだろうな」
 ヨルはつぶやいた。
「理由はわからない。だが」
 そのうすい唇が、わずかに緩んでいた。笑っているのかもしれない、とシエは思った。ヨルは、あまりうまく笑えないけど、それでも時には確かに笑うのだ。その表情が、シエはとても――。
「時々、見に来たくなる」
「…………」
 シエはヨルに寄り添い、空を見上げた。だらりとぶら下がった、ごつごつとした彼の手を握り締める。
 ふと思いついた言葉を、シエは唇に載せた。
「あの光は、誰かが火を灯しているのかな」
「誰か?」
「空の向こうに誰かが居て、それで――」
 馬鹿げた話だ、とシエは自分自身で思った。空に誰かがいて光を作り出しているなんて、そんなわけがない。では何故「星」という名の光が夜空にあるのか、それはわからないけれど。
「雲の上に、か」
 ヨルはぽつりと言った。シエはその顔を振り仰ぐ。ヨルは変わらず、少しだけ緊張を緩めた穏やかな表情をしていた。
「誰かがいるって? そうして、そいつらが光を――」
「ふふ」
 ヨルがどこまで本気で聞いてくれているのかはわからない。だが、その想像はシエを楽しませた。
「あっちから、ここはどんなふうに見えるんだろう。そもそも、わたしたちを見るために光をつけているのかもしれないよね? そう考えると、なんだかたのしい」
「…………」
 ヨルはじっと「星」を見上げていた。その闇色の瞳に映るのは、憧れなどというものよりももっとあからさまな、飢えた渇望。
 ――欲しいの?
 とは、シエは聞けなかった。聞くまでもなかった。ヨルは、あの光を欲しがっている。きっと、この地を満たす赤い砂の代わりに、あの光の砂を。
 ヨル。あなたが望むなら、あの「星」すべてを撃ち落として、かき集めて、あなたにあげたいのに。
 シエは、その夜風に冷えた頬をヨルの手の甲に押し当てた。
 ――でも、墜ちてきた時にはきっと、光は……。
「冷えたな。戻るか」
 ヨルはシエをマントでくるむと、再び抱き上げた。裸足で来て良かった、とシエはこっそり思う。
「ねえ、ヨル」
 シエは彼の肩に頭を置きながら、その名を呼んだ。
「なんだ」
「また、見せて」
「星のことか」
「うん」
 シエはうつらうつらと目を閉じる。ヨルの歩みに合わせて揺られていると、今更眠気を催してきたのだった。
「おまえは、」
 ヨルは小さくつぶやく。
「まるで……」
 よく聞こえない。それでも、その声はひどく優しかったから。
 シエはそのままゆっくりと、眠りの淵に沈み込んでいった。

 ヨルは少女を抱えたまま、夜空を振り仰ぐ。灰色の雲の隙間を、切り裂くように通り過ぎた光――あれは、「流れ星」というのだと、ヨルは何故か知っていた。
 おれは今、それを抱えているのかもしれない。空から墜ちてきた流れ星――おれの元に落ちてきた、光。
 まさか。
 荒唐無稽な夢想に、ヨルは首を横に振った。
 シエは違う、シエは――。
「寒くはない」
 ヨルは不意に言った。それは先ほどシエに聞かれたことだった。
「寒くはない……今は、もう」
 あたたかい。おまえは、おまえの放つ光は、いつでもあたたかい。
 それは、おまえが空からこの地に墜ちてきたからなのか。
 届かぬ星にはないそのぬくもりを抱いたまま、ヨルはひとり、届きもしない星空を見上げていた。