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XVII

 ――誰かの泣き声が聞こえる。
 おれの意識は茫洋とした眠りの淵からゆっくりと浮上し、やがて覚醒した。
「……っほ、えほ!」
 咳き込むと同時、激痛が脇腹に走る。
「いってえ!!」
「こ、こらエマ、離れなさい」
 涙目で辺りを見回すと、そこはおれの部屋だった――そりゃそうだ、意識を失う前おれはここにいたのだから。目の前には涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をしたエマと、焦った様子で彼女をおれから離そうとするノーラ。どうやらさっきの衝撃はエマがおれに飛びついてきたことによるものらしい。
「そこ、傷があるから! 気持ちはわかるけど、抱きついちゃだめよ!」
「い、いいよ」
 おれは何とか上半身を起こし、そして泣きじゃくるエマを抱き寄せた。ゆっくりと抱きしめたからか、先ほどよりは痛くない。こっそりと片手で先ほどの痛みのあたりを探ると、何やら液体の沁み込ませてある分厚いガーゼがしっかりと貼り付けられていた。――この処置をしたのは、いったい……。
「びっくりしたんだよなあ、きっと」
「そりゃあ、あんたが死んだかと思ったからね」
 ノーラが潤んだ目でおれを睨む。
「あたしだってびっくりしたわよ、エマが妙にあんたに会いたがるからここに来たら、血だまりの中であんたがぶっ倒れてるんだもの」
「…………」
 おれは意識を失う前のことを思い出す――「じゃあね、ヒイロ」。
「ねえ、ヒイロ」
 ノーラが静かな口調でおれの名を呼ぶ。
「そろそろ、ちゃんと話してくれてもいいんじゃない?」
「…………」
 小窓からちらりと外を見遣ると、既に都市は夜のモードだった。あれからきっと数時間以上は経過しているし、あいつらの行方を追おうにもその術はない。
「わかった――だが、おれにもうまく話せる自信はない。だが、嘘はつかない。信じるかどうかは、聞いたお前が判断してくれ」
 そう言って、おれはセントロメアでのこと、シック・スカルドのこと、そしてインクの語ったことをノーラに聞かせたのだった。

  〇

 できるだけ手短にまとめて話したつもりではあったが、それでも長くなった。エマは途中でおれの膝の上で泣き疲れて眠ってしまったので、自分の寝床に押し込んでおいた。ノーラは短い相槌を打つ以外はほとんど黙って聞いている――彼女がおれを信じるのか、それとも与太話だと笑い飛ばすのか、それはおれにもわからなかった。反対におれがこの話を他の誰かから聞かされたとして、いきなり信じることができるかどうか……正直自信はない。
「――それで、インクはおれを撃った。だがまあ、どうやら処置をして去ったみたいだからはなから殺す気はなかったんだろうさ」
「処置……ああ、それね」
 ノーラがちらとおれの脇腹を見て頷いた。
「確かに、あたしたちがここに来たときは既にそれが当ててあった」
「ミトの意志か、インクの意志かは知らんがな」
「…………」
 ノーラは黙り込んだ。おれは壁にもたれて座り込んだまま、顎をもたげ薄汚れた天井を見る。別にそこに何が書かれているわけでもない。おれに何かを教えてくれる人はいない。今も昔も、ずっとそうだ。
「それで?」
 ノーラが重たげに口を開いた。
「どうするの? これから」
「……どうするかな」
 おれは髪を掻いた。
「正直、状況は詰んでる。もし地球への移住が実現しなければ――つまり、地球との断絶を選べば、この”月面都市”は遠からず限界を迎える。そのことはシック・スカルドも認めていた」
「ええ」
「じゃあ、もし地球に移住すればどうなるか――インクが言うには、アンドロイドはそいつらにも例のプリオンを感染させて、サイボーグに作り替えてしまうつもりらしい。そうすればアンドロイドは必要とされ続け、生産され続ける。……これはどこまで本気かわからんが、月面を人類の生殖細胞の保管場所兼生産工場にして、育てたやつを地球に送ってサイボーグ化したらどうか、みたいなことも言ってたな」
「あの、ミトって人もそれは知ってたのかしら」
「……さあ」
 おれは曖昧に首を振った。
「わからん。はっきりとは何も言わなかった――けど、知ってたって様子ではなかったな。多分、地球人側の目的はプリオンを排除した状態で月面人類を移住させ、やがて地球上での繁殖を可能にすることだったんだと思う」
「つまり」
 ノーラは考え込むように目を細める。
「地球側には地球人のプランと、アンドロイドのプランが存在してるってことね」
「多分。で、アンドロイド側のプランは恐らく地球人は把握していない」
「…………」
 どうして、とノーラは呟いた。
「どうして、アンドロイドはそんなこと……」
「あいつらはあいつらで、今のままの地球を望んでいるんだろうよ」
 おれはぽつりと言った。
「『人間』のように振る舞えるようになって、『人間』のように生きるようになって……それが、人間が本来の姿を取り戻したら自分たちは不要になるかもしれない。そのことに恐怖したんだろ」
 初めて会った時からインクはひどく表情豊かで、感情表現に富んでいて、人間味溢れた男だった――彼がアンドロイドだと聞いてもすぐには信じられないほどに。あれは彼の演技だったのか、それともアンドロイドがああいった人格を持つに至ったのか、おれにはよくわからない。インクに搭載されているのは人工知能で、それはシック・スカルドを構築しているものと同じもののはずなのだけれど、それにしては随分両者は異なっているように感じられる。シック・スカルドはインクみたいに笑わないし、拗ねない。それは彼らの作られた目的が違うからなのか、それとも他に理由があるのか。
「だからって……」
「ああ」
 おれは頷く。
「だからって、あいつらの思惑通りになろうとは思わない」
「じゃあ、どうするの?」
「…………」
 おれはちらりとエマを見遣った。ふっくらとした頬に涙の跡が痛々しいが、それでも今は安心したように寝息を立てている。
「どうにかする……しかないだろ」
 おれは呟く。
「どうやってよ」
 ノーラはため息混じりに吐き出す。
「そんな怪我までして……今度こそ殺されるかもしれないじゃない……」
「…………」
 おれは考えた。どうすればおれたちは生きていけるのか。アンドロイドの餌になることなく、”月面都市”と心中することなく、どうやって生き延びられるか。どうすればいいのか。
 だが、そう簡単にいい考えが浮かぶはずもない。おれの知恵なんて、あの人工知能たちとは比べものになるはずもない。それでも、諦めるわけにはいかないのだ。
「……ねえ」
 ノーラが軽くおれの肩に手を置いた。
「あんたひとりでどうこうしようなんて、無理よ」
 その声音には諦めが滲んでいた。おれは彼女を見上げる。
「おまえ、エマを幸せにするんだって言ったろ」
「言ったわよ! 言ったけど……」
「じゃあおまえも考えろ。そう簡単に諦めるんじゃねえ」
「…………」
 そう言いながらも、おれにだってノーラの言うことはもっともだとわかっていた。この月面に人間が何人いるのか正確な値は知らないが、まあざっと数百人レベルか。そのうちのひとり、しかもリンビックに追いやられたアウト・スカートに過ぎないおれがどうのこうの足掻いたところで……。
「…………」
 ――ひとりでどうこうしようなんて、無理よ。
「それだ」
 おれは思わず立ち上がる。
「え、何?」
 驚くノーラに構わず、おれは部屋を飛び出そうとした――が、がっちりと彼女に腕をとられてそれは敵わない。こういうときの腕力はさすがである。
「ちょっと、まだ怪我もまともに治ってないでしょ。どこに行くの」
「おれひとりで考えるから煮詰まるんだ」
 ガーゼの当てられた脇腹に軽く手を当ててみる。もうあまり痛くない――以前も思ったが、地球製のメディ・ナノは本当に優秀だ。
「え?」
「巻き込むんだよ」
 目をぱちくりとさせるノーラに、おれは勢い込んで言った。
「この街中を巻き込む――まずはアウト・スカートから、可能ならフィラーだって」
「ど、どうやって」
「何だっていい、とにかく噂を広めるんだ。地球人は何か企んでる、百年も放置していたおれたちに急に何の用だ、移住させた後の保証はどうなる、そのあたりの疑問をついて、不信煽ってやろう。アンドロイドだサイボーグだって話はややこしいから抜きだ。とにかく、おれたちは団結しないといけない」
「団結……」
「そうだ」
 そもそも、地球人たちは「シック・スカルドと交渉したい」と言っていた。まったく、馬鹿にしている。確かにこの街はシック・スカルドが統治しているかもしれない。だが、奴らの街ではない。おれたちの街だ。そのことを、おれたち自身も忘れていた。どうしてそんな当たり前のことに気付かなかったんだろう。
「おまえはエマの側にいてやってくれ」
 ノーラの手を腕から離させ、おれは言う。彼女の目を真っ直ぐに見つめて――。
「やることやったら、すぐに帰ってくるから。エマにもそう伝えてくれ」
「……でも」
「あんなに泣かれちゃ、もう勝手なことできねえよ」
 おれは苦笑する。それを見て、ノーラも少し体から力を抜いたようだった。
「わかったわ……明日から、あたしもちょっと話を振り撒いてみる」
「ああ。おれは女にはあんまり伝手はないからな……」
 そもそも、アウト・スカートに女は少ない。フィラーでは番を作る関係上ほぼ一対一になっているはずなのだが、アウト・スカートではほぼ八割が男だと思う。男の方がアウト・スカートになりやすい、と当然のようにシック・スカルドが計算して人口を調整しているのだろう。
 おれはエマの寝顔を見下ろし、呟いた。
「また、あとでな」
 もう、この子をあんな風に泣かせるようなことはしない。おれは心の中でそう誓った。

  〇

 おれはその足で酒場に出掛けた。大して人数はいなかったが、別に構わない。グラスに水を注いで、顔見知りのやつのいるテーブルに近付いた。数人でわいわいと話している、その話題はやはりというかなんというか、地球への移住のことだった。
 同じテーブルの空いた座席に座り、おれはまず耳を傾ける。
「いつまでもこんなとこにいられんだろう。せっかく迎えが来たんだ、さっさと帰ろうぜ」
「しかし急過ぎないか。それに、あっちに馴染めるかどうか……」
「そもそも、月面(ここ)にも馴染めなかったからリンビックにいるんだろうが」
「それは違いないが」
「シック・スカルドは知ってるのかな」
「そりゃあ知ってるだろう。奴らがここで知らないことなどあると思うか」
「それもそうだな」
「知ってるなら、何で反応しないんだろうな?」
「フィラーの奴らは知らないんじゃないか。で、変に刺激したくないとか」
「あり得るな……おれたちアウト・スカートが地球に行こうがどうしようが、シック・スカルドにとっちゃあ関係ないってもんか」
 乾いた笑い声がその場に満ちる――おれはそこにするりと言葉を差し込んだ。
「おまえらは、どうしたいんだ?」
「あ?」
 ひとりがおれの顔を見て、なあんだおまえか、という顔をする。
「そう簡単に答えは出せねえよ……なあ?」
「そうよ、ちょっと引っ越すのとは訳が違うぜ……セントロメアからリンビックに移るのとも訳が違うんだ」
「そりゃあそうだよな」
 と、おれは頷く。
「だったら、おれたちの疑問や不安を、ちゃんと地球側にぶつけないといけないんじゃないか?」
「地球側って?」
「噂の発生源だよ、そいつがいるからそういう話になってるんだろ」
「そういえばそうだな……」
 顎を撫でながら、男が頷く。
「正直、地球の話は噂ばかりでわからんことが多い」
「シック・スカルドも当てにならんしな」
 と、すかさずおれは付け加える。それがおれの本心かどうかは別にして、とにかく今はおれたち自身が動き出さなければならないのだ。
「ちゃんと説明してもらわなきゃ」
「そりゃそうだ」
「そもそもここはおれたちの街だぞ!」
 空になったジョッキを振り回して気勢をあげる男たち。
「もし移住するにしたってよ、少しでも有利な条件で行かないと損だぜ」
 おれは煽る。
「確かに、今より悪い暮らしになるんじゃ行く意味がねえよな」
「それどころか、今よりも良くなってくれねえと!」
 おれは彼らと一緒に笑い、そして水を口にした。
「ああ、おれもそう思う。……ちょっとおれ、いろんなやつと話してみるよ。おまえたちも相談してみてくれや」
「おう、そうだな」
「おれたちはアウト・スカート、誰かの言いなりにはならないぜ」
「そうだ」
 色めき立つ面々に向かっておれは頷き、さりげなく席を立つ。他の酒場にも行って、少しずつ種を蒔かねば。芽を出すかもわからない種だが――まあ、そもそもおれは種なんてものを見たこともないわけで、芽を出すということがどういうことかもよくわからない。それでも。
 おれはつぶやく。
「おれたちは、誰の言いなりにもならない」
 おれひとりにできるのはごく小さな働きかけだ、しかし何かを始めなければ、何も変わらない。
 そして、おれは――変えたいのだ。