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VIII

 それからまたしばらく、ミトたちは姿を見せなかった。別にそう頻繁に会いたいやつらというわけではないが、一体どこでどうしているのか、気にならないといえば嘘になる。前に彼ら自身が言っていたように、少なくとも“月面都市(ムーン・シティ)”の中にはいるのだろうか。それとも、その外に――シティの外は人間が生身でうろうろできるような環境ではないはずだが、しかし彼らは人間ではない。いや、正確には「生身の人間」ではない。もしかすると、シティ内のように大気や重力の状態を制御された環境になくても生存が可能なのかもしれない。
「でも、本当にシック・スカルドは彼らの侵入に気付いていないのかしらね」
 ノーラは不意に、そう言った。彼女は闇市に流れる嗜好品を手に入れるのが上手くて、今も部屋にコーヒーのいい香りが漂っていた。最近のおれは毎日のようにそれを飲んでいた――正直に言おう、雑然と汚れた自分の部屋よりも、ノーラの部屋の方が抜群に心地いい。
 エマは床に紙を拡げて、ぐちゃぐちゃと何か絵のようなものをかきなぐっている。それが何なのかは、絵心のないおれにはよくわからなかった。
「さあ」
 答えて、湯気の立つほろ苦い液体を口に含む。
「呑気なものねえ」
 ノーラは苦笑した。
「あんた、協力者とみなされて捕まっちゃうかもしれないってのに」
「まあ、その可能性は高いな」
 おれは肩をすくめる。
「どうなるんだろうな? 処刑でもされるのかな?」
「処刑って……」
 言って口ごもるノーラに、おれは冗談だと告げた。
「あんたの冗談って笑えないのよね」
 ひきつった笑みを見せるノーラから視線を逸らし、寝そべるエマのまるい後頭部を眺める。彼女はおれの存在にもだいぶ慣れたらしく、最近ではノーラの部屋を訪ねて行くとわざわざ駆け寄って出迎えてくれるようになった。相変わらず言葉は発しないが、何となく言いたいことは表情で想像がつくし、筆談もできるからそう困りはしない。本当にいい子なのよねえ、とノーラはことあるごとに言うが、おれもまあ、おおむね同感である。
「……けど、確かに気はなるよな」
 おれはぽつりと言った。
「何が?」
「あいつらの目的だよ……今回は、ただの調査なのかな」
 とりあえず、様子見としてふたりを送り込んできたのだろうか。彼らの言うことがすべて本当だったと仮定してだが、地球側はそもそも“月面都市(ムーン・シティ)”が存続しているかどうかすら疑わしく思っていた、ということだろう。だから、あのふたりを寄越した――。
「今回は、ってことは次回があるってこと?」
「さあ、地球はこっちをどうしたいのかわからないし」
 そういえば、ミトが言っていた――「シック・スカルドと交渉したい」と。いったい何を交渉するつもりなのかは教えてくれなかったが、多分それが彼らの目的に通じることなのだろう。
「セントロメアに突入すれば、やつら速攻とんでくるとは思うけどね」
「うん、まあ……そりゃそうだ」
 おれは苦笑する。――シック・スカルドがフィラーとアウト・スカートを見分ける方法は簡単だ。体内を流れるメディ・ナノからは識別信号が発せられていて、それをやつらは受信しているのだ。セントロメアとリンビックの境界にはそれを感知するシステムがあって、互いの行き来ができないことになっている。唯一往来できるものがあるとすれば、それはシック・スカルド自身だ。何しろやつらはメディ・ナノなど必要としないのだから――。
「あいつらがひと泡吹かせてくれればいいんだけどなあ」
 おれは四肢をだらりと投げ出して、天井を見上げた。
「そう? でも……」
 と、ノーラはふと真顔になった。
「シック・スカルドがここを投げ出したら、あたしたち生きてはいけないわよ」
「…………」
「食糧もエネルギーも、何もかも……やつらがここの人口をコントロールして、資源管理を徹底して、そうやってやっと維持できているんでしょ」
「そう教え込まれたな」
 おれはしぶしぶ頷く。セントロメアで過ごした子供時代、おれたちはみっちりと教育された――地球との交渉の断たれた今、月面での人類の生存がいかに困難なことであるか、いかにシック・スカルドが人類に貢献しているか。全てが嘘だ、とまで言うつもりはない。多分、実際シック・スカルドが支配していたから、月面で人類はこれまで百年以上生き延びて来られたのだろう。そうでもなければきっと早々に絶滅していたはずだ。そのことは頭の悪いおれにでも十分理解できる。十分理解できるのだが、それでもなお、やはりこれは何かが違う、と思わずにはいられないのだ。
 シック・スカルドの手によって調整された数が生産され、彼らによって教育され、そうしてまた彼らが生産した次世代を育てる。おれたちはただ、与えられた環境の中で呼吸し、食べ、眠り、排泄し、繁殖すら自分たちの意志ではままならない。
 これは、地球でいう「家畜」というやつではないのか。
 何がきっかけで疑問を持つようになってしまったのか、今となってはもはや覚えていない。だが、一度芽生えた疑念は膨らむばかりでしぼむことを知らなかった。そんなおれがアウト・スカートの烙印を押されたのは当然だったと思うし、後悔もない。あのままフィラーとしてセントロメアに生き、あてがわれた女と(つがい)になって、あてがわれた子供を養育する、そんな人生はまっぴらだった。そんな人生を送るくらいなら、おれは――。
「あたしも、この生き方に悔いはないけどさ」
 ノーラがかすかに微笑んだ。その視線の先にはエマがいて、そのエマはどうやらノーラの顔を一生懸命描いているようなのだった。
「この子は……今後、どうやったら幸せになれるのかしらね」
「…………」
 おれは口を噤んだ。
 ――エマが幸せそうに見える、と言ったのはインクだったか。あいつは人間ではないはずだが、それでも「幸せ」という概念はちゃんと理解しているようだった。
 では、シック・スカルドは? 彼らは「幸せ」という言葉を知っているのだろうか? 理解しているのだろうか? 現状の月面の人類は「幸せ」だと思っているのだろうか、それともそんなものはどうでもいいと思っているのか……。
「今はまだわからないけど、これからあたし、その答えを考えながら生きていくつもりよ」
 そう微笑むノーラの姿に、おれはもう随分と会っていない「親」の顔をおぼろげに思い浮かべたのだった。

  〇

 ――そんな話とは全く関係なく、おれは金を稼がなければならない。
 さすがに以前撃たれたところに行く訳にもいかないから、別の賭場に行くことにする。挨拶を交わすでもなく席に着き、早速配られたカードを手に取った。圧勝を狙わず、ほどほどに勝てればいい。収支がマイナスでなく、プラスでさえあればいい――そのくらいの方が、結局は勝てるものなのだ。
「なあ」
 そんなおれに、ある男がひそひそと話し掛けてきた。
「なんだよ?」
「噂、知ってるか」
「噂?」
 カードを二枚、山から取り換えながら聞き返す。この男、いかさまの仲間(グル)で、おれの手札を覗きに来たのかと思ったのだが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。
「そう、最近持ちきりの噂だよ――何やら、地球人がシティに侵入したらしいって」
「ぶっ」
 おれは勢い良く水を噴き出した。慌ててシャツの袖で汚れたカードを拭う。対戦相手たちは露骨に嫌そうな顔をしたが、手を止めることはなかった。
「何それ、まじで?」
「まじさ」
 男はおれが初耳で、相当驚いたのだと思ったのだろう。気を良くしたようにぺらぺらとしゃべり始めた。――曰く、地球から使者がやってきたらしいこと、シック・スカルドと交渉したがっているということ、そして彼らは人類をここから解放し、地球に連れ帰るつもりらしいということ……。
 なんだ、そんな話は知らないぞ、とおれは思った。人類を解放する? 地球に連れ帰る? あいつらが?
「そいつはすごいな」
 早くなる動悸を気取られないよう、おれはすかした姿勢を崩さない。
「だが、本当なのか? そんな――だって、もう百年も地球は、」
「本当だったらいいよなあ」
 男はどこかうっとりとした口調でそう言った。
「おれ、もうここうんざりだよ……地球に行きたい。いや、帰りたい」
 もちろん、おれたちは地球を知らない世代である。だが、彼が「帰りたい」という言葉を使った理由は、何となくわかる気がした。月面(ここ)はおれたちの生まれ育った場所ではあるが、それでも故郷だとは思えないのだ。
 あたりにいた別の男が、へっ、と馬鹿にしたように笑う。
「地球に行ってどうすんだよ。あっちに行ったって飯は食わなきゃならんし、住むところだっているだろ。ここは一応それなりにものが行き渡るようになっちゃいるが、地球じゃどうかはわからんぞ。かえって苦労するだけかもしれん」
「それはそうだけど……」
「地球で野垂れ死ぬくらいなら、ここでほそぼそとでも生きてる方がましかもなあ」
「…………」
 そいつの言うことも一理ある。多分、アウト・スカートたちの間でも意見は二分されるだろう。フィラーたちは、どうだろうか。彼らはここを離れたがるだろうか。そもそもがシック・スカルドに従うことを選んだ者たち、いやそもそも歯向かうなど考えもしないような者たちの集まりである。地球人が現れて、さあ帰りましょう、といったところで、そう簡単に言うことを聞くかどうか――いや、むしろフィラーだからこそ従うだろうか。彼らにとって、誰に従うかということは実はそう重要ではないのかもしれない。シック・スカルドを選ぶか、それとも同じ人類を選ぶのか。まあ、地球人は地球人で、実はサイボーグ化されているわけなのだが。
 しかし、今のおれがもっとも気になるのは別のことだった。
 その噂は、誰が流したものなのだろうか?
 おれの他にもミトやインクが接触した者がいるってことか? しかも、そいつはぺらぺらとしゃべりまくってるってことなのか? それとも、むしろあいつらがわざと噂を流させている――そういうことだろうか?
 そして、おれのことはいよいよ用済みになったのだろうか。まあ、それならそれで結構な話なのだが、あれこれ体を検査させてやって、血まで提供してやった身としてはちょっと納得がいかない。せめて礼のひとつでも――いや――。
「何にしても、面白いことになりそうじゃねえか」
 おれはそう言ってせせらわらった――多分周りにはばれなかっただろうが、その言葉には多分に強がりが混じっていた。誰を騙せても、おれはおれだけは騙せない。
 ――ひどい胸騒ぎがした。それは、あいつらに初めて出会ったときなんかよりもずっと強い、波乱の予感だった。