VII
見知らぬ大人ふたりの姿に、はじめの方こそエマは身を固くしていたが、インクは持ち前の人懐こい笑みですぐに彼女と仲良くなった。器用に指を組み合わせて動物の姿などを形作って見せている。
「本物、見たことあるー?」
インクの問いに、もちろんエマは答えない。代わりに答えたのはノーラだった。
「見たことあるわけないじゃない……ここに動物なんかいないわよ」
おれたちは、それを知識としてのみ知っている――実際にこの目で見たことなどない。おそらく、”月面都市“のどこにも存在しない。じゃあ地球にはいるのかって、さすがにそれをここで問うわけにもいかないが。
「そりゃそうか」
ははっ、と軽薄に笑うインク。――こいつが、こんなに自然に笑うこいつが、人間ではないなんて。
「……この子は、聴力に障害が?」
寄り添って遊ぶふたりを見ていたミトが、不意にぽつりと言った。おれは聞き返す。
「それって、耳が聴こえないってことか?」
「ええ」
尋ねるおれに、ミトは頷く。
「聴こえない……聴こえないなんてことあるのかしら」
ノーラがぶつぶつと言った。
「そんなの、聞いたことないけど」
「そうだなあ」
おれは首を捻る。おれの知る限り、耳の聴こえない人間など……耳の遠いものならいるが、エマのように音に全く反応しない者を、おれは見たことがない。
「でも、耳が聴こえないんだったらおれたちの声に反応しない理由もわかるな」
「それは……、確かにそうね」
ノーラは頷いた。ミトはノーラを見上げ、言う。
「確かめてみましょうか」
「確かめる?」
「ええ。簡易な聴力検査程度は可能です」
「…………」
絶句するおれと、ぽかんとするノーラ。
「……何言ってんの?」
「ミト、お前」
おれたちが口を開いたのは同時で、思わず顔を見合わせる。はあ、とため息をついて、そして先に言葉を継いだのはおれの方だった。
「……いいのか?」
端的に尋ねる。――ようは、ノーラに自分たちの正体を明かすつもりがあるのか、ということである。ミトはあっさりと頷いた。おいおい、いいのかよ、そんな簡単に。
「先日あなたにお話をした時の感触、それにあなたとノーラさんとのご関係、ノーラさんご自身の言動。それらから、問題ないだろうと判断しています」
「ご、ご関係って」
「それに――恐らくですけど」
ミトはそのガラス玉のような目でじっくりとノーラを見つめた。その眼球が人工物なのかどうなのか、結局のところ、おれにはよくわからない。だがそこに宿る意志は――確実に人工のものなんかじゃなくて、きっと彼女という人間自身のものだ。それがただのおれの愚かな夢想だとしても、哀れな願望だとしても、それでもそう信じたかった。
「ノーラさんはこの子供をとても大切に思っておられる。であれば、わたしたちの提示した、この子の置かれた状況を正確に把握できるチャンス、それを逃したくはないと思われるのではないでしょうか」
「……ん、まあ……それもそうか」
ちらりとノーラを見遣る――案の定、彼女は怪訝そうに眉を寄せながら、おれとミトを見比べている。そして、はっとインクと遊んでいるエマの方に駆け寄った。
「エマ、ちょっとこの人と遊ぶのやめな。あんたも離れて」
「ええ、なんで?」
インクは不満そうに頬を膨らせるが、ノーラはただ彼を睨むだけだった。
「インク」
ミトが彼の名を呼ぶ。
「先にお話ししましょう、ノーラさん。わたしたちが何故ここにいるのか。何のためにここに来たのか」
「…………」
ノーラに抱きしめられたエマは、不思議そうに彼女の顔を見上げている。
「…………」
ああ、もう……どうなっても知らんぞ。おれは運を天に任せるような心地で、薄汚れた天井を振り仰いだのだった。
〇
案の定、ノーラは唖然とした顔でミトを見つめていた。見られている側のミトはというと、落ち着き払ったものである。まあ、落ち着いていないミトというものを、おれはほとんど見たことがないが。
「……おい、ノーラ?」
横からおれが声を掛けると、彼女は大きく目を見開いたままの状態でおれに視線を向けた。
「……まじ?」
「さあな」
おれは肩をすくめる。
「おれにそんなこと判断できるわけねえだろ……ただ、」
ちらりとミトを見遣る。
「こいつはまじで言ってるんだろうな。そこは間違いなさそうだ」
ミトの話の内容が「真実」かどうか、それはおれには判別できない。当たり前のことだ。ただ、ミトが「本気」かどうかくらいはわかる――少なくとも、わかるつもりでいる。
「信じてくれないの?」
きょとんとした顔で無邪気に言うインクに、ノーラはしかめっ面を向けた。
「そんな荒唐無稽な話、どうやったら信じられるって言うのよ……」
「えー、ヒイロは信じてくれたよね?」
おれはぶるぶると首を横に振る。
「いいや?」
「あ、そうなの?」
「インク、無茶を言ってはいけない」
ミトは冷静に口を挟んだ。
「ふたりとも、話を聞いてくれただけでも上々の結果――事前のシミュレートでもそうだったでしょう?」
「うん、まあね」
インクはしぶしぶといった様子で頷く。おれとノーラは思わず顔を見合わせた。
「えっと……正直よくわかんないんだけど、とりあえず」
ノーラは恐る恐るといった様子で口を開いた。エマはおとなしく彼女の腕に抱かれている。
「この子の耳を、あんたたちは調べられるってこと? 危険はないのね?」
「はい」
ミトはあっさりと答えた。ノーラは腕の中のエマをじっと見つめた後、低く唸った。
「さっきも言ったけど――この子に何かあったら、ただじゃおかないから」
――どこから来た人間だろうが、いや、そもそも人間じゃなくたって、そんなことは関係ない。
ミトは真っ直ぐにノーラを見つめて頷いた。
「わかりました。この子には何も危害は加えませんし、痛い思いもさせません」
「エマよ」
ノーラが言った。
「この子の名前は、エマ」
「エマ、」
ミトは繰り返し、そしてかすかにその口元に微笑みを浮かべた。
「……良い名です」
「…………」
ノーラは抱きしめていたエマから腕を放し、そうしてそっとふたりの方に押しやった。
エマは少しきょとんとしていたが、手招かれるままにインクの方へと歩み寄る。その表情に、怯えの色はない。
「じゃあインク、準備を」
「はいはい」
軽い調子で答え、インクはバッグの中から見慣れない機械をいくつか取り出した。あれらは、おれを検査するときにも使っていたものだろうか……記憶にない。
「痛そうなそぶりを見せたり、怖がったりしたらすぐに中止させるわよ」
「ええ、すぐに終わらせます」
ミトは手早くエマにカチューシャのようなものを被らせて――ああ、そういえばあれはおれも被らされた記憶がある。どうやら大きさは被験者の頭に合わせて調節できるらしい――そうして耳に何か、小さなカップのようなものをかぶせる。インクがにこにこしながらエマの両手を取ると、彼女は怯える様子もなく真っ直ぐに彼を見上げた。確かに、インクの笑顔には何となくひとを安心させてしまう力があるような気がする。そんな彼らをよそにミトは素早く手元の機械を指で操って、そうして数分後、終わりました、と告げたのだった。
「もう?」
「はい」
エマの頭からカチューシャを外し、その小さな耳も自由にしてやりながら、インクは「えらかったねえ」とその髪を撫でている。
「で? 結果はどうなの」
逸るノーラに、ミトはゆっくりと告げた。
「やはり、エマの聴覚には障害があります――詳細な診断は、今ここにある簡易検査キットでは不可能ですが、それは間違いありません。エマには、音が聴こえない」
「何だって……」
おれは茫然と呟き、ノーラは息を呑む。そんなおれたちに、ミトは質問を投げ掛けた。
「”月面都市“には目の見えない方、耳の聴こえない方、そういった方はおられないのですか」
「少なくとも、おれは知らないな」
おれは答えながら、隣でノーラが頷くのを横目で見る。
「それでは、ここに病院のようなものはありますか?」
「おれたちはシック・スカルドの元で生み出されて、そのあとすぐ血管内にメディ・ナノ、医療用ナノマシンを投与される。医療行為は、基本的にそれがすべてだ――セントロメアにいればメディ・ナノの定期的なメンテナンスとアップデートが行われる。リンビックにそれは存在しないから、まあ既存のメディ・ナノで対応できないようなことが起きた場合は諦めるしかないな」
「……わたしたちが出会ったときのあなたのように?」
ミトは、おれが銃で撃たれて死にかけていた時のことを指しているのだろう。おれは苦笑して、そうだ、と言った。
「あんた、何してたの……?」
「まあそれはそれとして、だ」
ノーラを遮り、おれはミトに問う。
「他に、エマに何か問題はあるのか?」
「あなたにしたような血液を採るような検査はしていないので、あまり詳しいことはわかりませんが……」
と、ミトは言った。
「血液を採るには針を刺さなければなりませんからね。少し、痛みます」
「元気そうだし、無理にやんなくてもいいんじゃないの?」
「わたしもそう思う」
インクとミトは交互に言う。
「他に何か気になることがあればご連絡ください、ノーラさん」
「え、ええ……わかった」
ノーラは気圧されたように頷いた。
「それにしても、何故エマがリンビックに? 子供はセントロメアにしかいないはずでは」
ミトが首を傾げる。
「そう……そうなんだよな」
おれは同意した。
「もしかして、だけどさ」
インクが、珍しく真顔で言う。
「エマの、耳が聴こえないから……っていうのが理由、だったりしないかな」
「それは……」
言いかけて、おれは口を噤む。――わからない。だが、可能性はある。
「エマが聴力を失ったのが、リンビックに来る前か後かはわからない。よって、その件に関して判定することは不可能」
ミトは首を横に振る。
「ただ、ひとつの可能性ではある」
「そんなことで?」
怒りの滲む声を上げたのは――ノーラだった。
「そんなことくらいで、エマはアウト・スカートにされたっていうの?!」
「おい、ノーラ」
「こんなにかわいいのに……」
ノーラはつぶやく。
「こんなに、いい子なのに」
エマが何かを察したのか、ノーラに駆け寄ってその首筋に抱きついた。彼女はとんとんとその小さな背中を撫でてやる。
「…………」
おれは考える――ノーラがアウト・スカートになった理由だって、よくよく考えればくだらないことだ。ノーラの肉体は男のかたちをしていた、だがノーラの精神は女性だった。ただ、それだけのことなのだ。おれみたいに、事あるごとにシック・スカルドに盾ついていたわけでもないし、秩序を乱すような犯罪に手を染めたわけでもない。ノーラは彼らの決めた番を受け入れられなかった、それだけの理由で、彼女はセントロメアに生きる権利を失った。――シック・スカルドが、奪った。
「まあ、おれにはよくわかんないけど」
インクがのんびりとした口調で言った。
「ここにいるのもさ、エマにとってはそう悪くないことなんじゃないの?」
「で、でも、ここは」
ノーラが言いかけて、ぐっと唇を噛む。――そう、ここはリンビック。外れものの街。なんだかんだ言葉を飾ったって、所詮は見捨てられたものの集まりなのだ。おれのようにわざとらしく自由を謳歌してみせたところで、それは結局負け惜しみに過ぎない。そのことは、ここに住むおれたちが一番良く知っている。
おれたちは”月面都市”を出られない以上、シック・スカルドの支配から根源的に逃れることはできないのだから……。
しかし、インクはあっさりと言う。
「エマ、おれには幸せそうに見えるけどなー」
「…………」
ノーラがはっと息を呑み、エマを見つめる。エマはノーラをじっと見つめ返した――たしかな信頼と信愛の色が、そこにはあった。
人間ではないインクが、人間であるエマの幸せを語る――そんなのは馬鹿げているかもしれない。それでも多分、ノーラは彼の言葉に救われていた。それだけはきっと、間違いのないことだった。