instagram

IV

 酒場にはおれたちのほかには誰もいなかった。まだ時間が早いからかもしれない。
「ここにもアルコール類があるとはねー」
 インクが肩をそびやかして言った。おれは鼻で嗤う。
「当然、密造だがな」
「なるほど」
 ミトがいつも通りに落ち着き払って頷いた。薄暗い穴倉のような酒場には、ここ特有の妙な匂いが立ち込めている。鼻腔に深々吸い込むと、それだけで脳の一部が背徳的にとろけてゆくような。きっと、揮発したアルコールと香料の入り混じった匂いだろう。
「ここにも?」
 と、ノーラが聞き咎めるように言った。
「あっちにはなかったでしょ。セントロメアには」
「…………」
 インクは微笑んで誤魔化そうとする。――まったく、余計なことを言うやつだ。まあ、別におれが心配してやる義理もないのだが。
「ちょっとした言い間違いだよ、気にしないで」
「気になるわよ」
 ノーラは苦笑しながらコインを数枚、掌の上で弄んだ。彼女が――彼が――いや、彼女でいいか――放り寄越してきたそれをおれは受け止め、サーバーマシンに次々と突っ込む。辺りに置かれた薄汚れたグラスにまず二杯。さらに二杯継ごうとしたところで、ミトがおれを止めた。
「わたしたちは水を」
「付き合い悪いわね」
 ノーラは笑っておれの隣に立ち、グラスに水を注いだ。
「せっかくなんだし、試せばいいのに」
「まあ、それもそうなんだけどー」
 インクが間延びした口調で呟く。
「次の機会にでも、ぜひ」
 ミトが穏やかに後を引き取った。――多分、彼女にはそのつもりはないだろう。何となくわかる。
 カウンターに並ぶ四つのスツールに腰を下ろし、おれたちは思い思いのペースでグラスを傾けた。アルコールがおれの顔を火照らせ、全身を心地よいけだるさが満たす。
「ちょっとペース速いんじゃないの?」
 ノーラがおれの肩を叩いて笑った。彼女は酒に強い。いつだってそうだ、おれが先に酔い潰れて、彼女はおれを背負って連れ帰ってくれる。何しろ、彼女はおれよりもずっと力持ちなのだ。
「別にいいだろ……明日に何があるわけでもない」
 おれは呟く。
「夕方まで寝てたって、誰も困らないさ」
 ――勿論、おれも。
「明日目覚める保証があれば、ね」
 ノーラが嫌なことを言って、おれの顔を顰めさせる。
「なんだ、寝てるうちに死ぬかもしれないって?」
「腐るまでには見つけてあげるわ」
「ふん、どうだか」
 おれは鼻を鳴らした。
「まあ、見つけたら燃やしてくれ。シック・スカルドに回収されて再利用されるくらいならその方がマシだ」
「あんたは本当に奴らが嫌いなのねえ」
 ノーラがあきれたように言った。
「そりゃ、あたしもいけ好かないとは思ってるんだけどさ」
「再利用?」
 と、聞き返したのはミトだった。
「そうよ――ねえヒイロ、この人たち記憶喪失か何かなの?」
 ノーラは真顔で言って、自分の思い付きが気に入ったかのようにくすくすと笑った。そりゃそうだ、まさか奴らがこの月面以外のところから現れたのだなどと、ノーラは思いもしないに違いない。おれも未だに半信半疑だ。
「知らねえよ」
 おれは冷たくそう言って――その方がいいと判断してのことだが、半分くらいは本心だ――またぐいと酒を飲み下した。はじめは飲み干すたびに焼け付くようにひりついた食道も、今はもう何も感じない。アルコールで麻痺しているせいだ。
 ノーラは仕方ないわね、というように肩を揺すった。
「あたりまえだけど、月面(ここ)じゃ資源が枯渇してるの――いつだってね。ぎりぎりのところでシティは維持されているのよ。癪だけど、きっとシック・スカルドのおかげね。そこのやりくりはやつらが上手くやってる。そのやつらが言うには――あたしたちも資源の一部なのよ。死体は回収されて、あらゆる用途に使用される。具体的には聞かないで。あたしもあんまり考えたくないから」
「……あらゆる用途に、ですか」
 ミトは興味深げに目を細める。インクがあっけらかんと言った。
「リミット・ミールとか?」
「だからやめてって言ったでしょこのぼっちゃんは!!」
 悲鳴を上げたノーラが、インクの頬をぐいぐいと引き延ばした。痛い痛い、と彼は笑っている。別に本気で痛そうでもない。
 おれはそんなふたりを横目で見ながら、ただひたすら酒を呑み続ける――。
「体に良くないですよ」
 と、横からミトの腕が伸びてきておれのグラスを取り上げ、カウンターの上に置いた。おれは声を潜めて彼女に尋ねる。
地球(そっち)に酒は?」
「ありますよ。酒に溺れて身を持ち崩すひともたくさんいる」
「おれはそういう人間になりたいんだ」
「……ないものねだりね」
 ミトはぽつりとそう言った。その顔には、珍しく表情が浮かんでいるように見える。だが、おれにはそれに名前を付けるだけの語彙がない。笑っているでもなく、泣いているでもなく、怒っているでもない。だったら何だと言えばいい?
 結果、おれはただの意味のない声を出した。
「あ?」
「わたしたちはきっと、どちらもないものねだりをしているだけ……」
「ミト、おまえ何言ってんだ?」
 聞き返したところで、ぐらりと頭が揺れた。
「ほうら言わんこっちゃない!」
 ノーラの声が耳元にがんがんと響く。
「もう――」
「何だったらおれたちが送っていこうか?」
「いいの、慣れてる」
「じゃあ、せめてお手伝いだけでも」
「ありがと、ふたりとも。でもいいわ」
 ノーラがふたりの申し出をやんわりと断る。
「あたし、ひとを見る目は確かなの――つまり、」

 ――あんたたちは、どうも信用できないってことよ。

 意識が呑まれる寸前、おれはノーラのその言葉を聞いた。

  〇

 目を覚ますと、おれは自分の部屋に転がっていた。マットレスの上で、毛布もかぶっている。枕元には飲みかけの水の入ったグラスもある。いつもの酔い潰れた夜の翌日だ。あまりよく覚えてはいないが、これもいつも通り、ノーラがおれを送り届けてくれたのだろう。
 おれはのろのろと毛布をのけて起き上がった。頭痛は軽度、吐き気はない。昨日のおれは上出来だ、と思った。
 時計を見ると、正午を少し過ぎた頃だ。コップに残った水を飲み干し、立ち上がる。ぐらりと世界が揺れた。
「…………」
 壁にもたれかかり、深く息を吐く。酒臭い。そう、これまたいつも通りというやつだ。
「……奴らはどうしたのかな」
 奴ら、とはミトとインクのことである。おれと行動を別にしている間、彼らがどこにいるのかは知らない。地球から来た、と言っているが、いずれは帰るつもりなのだろうか。目的を達成したら……目的とは何だろう?
 おれはぐっと眉間に力を込めて天井を睨んだ。少し、気分が良くなったような気がする。
 彼らは――ミトとインクはただ“月面都市(ムーン・シティ)”を見て回って、観察したがっているように見える。それが何のためなのかはわからない。少なくとも、おれたちに対しての敵対心は感じない。今のところは。
 シック・スカルドに対してどうなのか、それはわからない。いけ好かないあいつらに一泡吹かせてやることができればいいのだが……だが、あいつらが彼らの侵入に気付いていないという保証もない。もし、気付いていて泳がせているのだとしたら……? いずれ、おれのことも罰するのだろうか? リンビック追放よりも重い罰とは何だろう? 死だろうか?
 ――だとしても、構うことはない。
 おれは冷凍庫からリミット・ミールを取り出して温める準備をした。
 ――ただ生きているというだけの日々を、彼らが変えてくれるのなら。
 あたたまったミールを、皿に移す。
 昨夜のインクとノーラの会話――死体の再利用がどうとかいう話だ――を思い出して苦笑しながら、それでも食べる手は止めない。今更だ、これまでさんざんこれを食っている。
 ちょうど食器が空になった頃、ドアをノックする音が響いた。おれはのろのろと向かい、鍵を開ける――予想通り、そこにいたのはミトとインクだった。これまで彼らがどこにいたのかはわからないが、どうやら昨日のことは夢ではなかったらしい。
 ふと、頭痛が増すのを感じて顔を顰める。
「こんにちは」
 相変わらずの無表情でミトが会釈するその隣で、インクが軽薄に笑いながらひらひらと手を振っている。
「……どうも」
 おれは憮然とした顔でそう答えた。
「……今日も調査をしようかと」
 ミトの問いに、おれは思い切り眉を顰める。
「何のだ?」
「あなたの身体の」
 そう答えたミトは、非常に残念なことに真顔だった。

  ○

「勘違いしなくていいよー」
 固まったおれを見て、インクがとりなすように口を開く。
「別にエロい意味じゃないし、危ない意味でもないから」
「じゃあ、どういう意味だよ」
 おれは辛うじて言葉を絞り出す。そういえば、今日のふたりは何やらバッグを提げている。何が入っているかは知らないが、嫌な予感しかしない。
 頭が痛い。
 ミトはおれの警戒に気付いているのかいないのか、淡々と言った。
「ちょっとした検査を幾つかお願いできればと。超音波スキャンと、血液検査と……」
「検査?」
「ええ。シック・スカルドが人間をどう扱っているのか、月面(ここ)で人間がどう変質しているか。それとも全く変質していないのかを知る為です」
「そんなことを知ってどうしようって言うんだよ」
 おれは一歩退く。ふたりはそれを追って進み出るでもなく、ただ黙っておれを見ている。
 頭が痛い。吐き気がする。
「……そもそも、おまえらどうやって地球からここに来たんだ。何のために来た?!」
 口にしたところで、一気に恐怖心が押し寄せてきた。なぜ昨日はあんなに簡単に彼らを受け入れたのか、さっきまでのおれがなぜ簡単にドアを開けたのか、さっぱりわからない。
「ちょっと、落ち着きなって」
 伸びてきたインクの手を払い除け、おれは彼を睨む。
「嫌なら無理にとは言いませんよ」
 ミトが静かにおれに告げたが、今更だった。

 ノーラも言っていたではないか――どうも信用できない、と。

 急に、おれは目の前のふたりがたまらなく怖くなった。彼らは異物だ。おれにとっての、いや、“ムーン・シティ”にとっての。
 異物は取り除かなければならない。速やかに。
 さもないと――。
 おれはジーンズの尻ポケットに手を入れた。
 インクが表情を変える。
「ミト!」

 昨日行った賭場の元締めを思い出す。金があれば銃だって買える、と誇らしげにしていた男。おれを撃った男。
 おれは笑った。
 そんなもの、おれだって持っている。

 ミトを庇うようにインクが飛び出す――その胸に、ぱん、ぱん、と続けざまにふたつの空洞があいた。