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EX. 魔王様とわたし。5 後日談

「んー、美味かった」
 モンスター討伐のお礼に、と村の人たちから頂いた地酒。それをあっという間に空にしたのが、目の前で据わった目をしているこの男――ただの目付きの悪いチンピラに見えなくもない風体だが、これでも実は伝説の魔王である。
 そういえば、彼は今まで一度も――少なくともわたしの前では――酒を飲まなかった。わたしが料理と一緒に少しばかりのお酒を嗜んでいる時でさえ、である。アルコールの匂いで顔をしかめるから、苦手なのだろうと思っていたのだが……まさか、一瓶ほぼ一気に飲み干すとは。
「ジゼル? 大丈夫?」
「…………んむ」
 妙にいかめしくうなずいた彼は、不意にわたしをじっと覗き込んだ。金色の右目が、キラキラと煌めいていて、真新しい金貨よりもずっと、澄んだ輝きを放っている。わたしは息を呑んだ。
「…………」
 ジゼルの手が、ふらふらと空を彷徨いながらわたしの方に伸びてくる。
「なんか、変な気分だ」
「酔ったんじゃないの?」
「よう……?」
「アルコールが体に回ってるんでしょ。明日は二日酔いかもよ?」
「ふつか……よい」
 あんたは芸のないオウムか。そう言いたくなるのをこらえ、わたしは彼の手をとらえてベッドの方へと引いた。
「すごく眠そうよ。もう今日は寝たら?」
「うーん……」
 ジゼルはおとなしくベッドへとうつった。端に座ってわたしを見上げている。手は握りしめられたままだ。
「……なに?」
 わたしは体を引きつつ、尋ねた。――わたしも子供ではないから、一部の人間がアルコールで理性を飛ばしてしまうことがあることくらい知っている。ときに、平静な時なら考えられないような行動を取る者がいることも。だが、ジゼルのそれは――想定外だった。
「…………」
 突然、ジゼルはわたしの手の甲に恭しく口付けたのである。まるで、騎士が姫君にでもするように。
「なっ?!」
 慌てて手を引こうとするが、ジゼルがしっかりと握っているせいでそれもできない。
「ちょ……ちょっと、ジゼル! 寝ぼけんじゃないわよ!!」
「寝ぼけていない」
 意外にしっかりとした返事――だからといって安心するわけにもいかない。わたしは空いた方の手でジゼルの頭をはたいた。
「離しなさいって……!」
「やだ」
「……はあ?!」
「離すわけねえだろ」
 ジゼルは顔を上げ、わたしを見た。目元は少し赤いけれど、表情はいつもとそう変わらない。
「フレデリカ」
「な、何」
「おれは、お前に、何をしてやれる?」
「……何のこと?」
 わたしは眉を寄せる。ジゼルは、至って真剣だった。
「お前はおれを外に連れ出してくれた――城に閉じこもっていたら一生見られなかったはずのものをたくさん見せてくれて、得られなかったはずのものをおれにくれて……今のおれのすべては、お前のおかげだ」
「買いかぶりすぎよ」
 わたしは苦笑した。
「それは、あなたが見たいと思ったから見えたもの。欲しいと思ったから手に入ったのよ。わたしはただ、きっかけを作っただけ」
「そんなことない、だって……」
「そうなのよ、ジゼル」
 わたしはひどく穏やかな気持ちになって、必死にわたしを見上げている彼の、長い艶やかな黒髪を指で梳いた。
「同じものを見ても感じ方は人それぞれ違うわ。あなたが何かを見て心を動かされたのなら、何を見たかよりも誰が見たかの方が大事なの。つまり、あなたの心が――あなたにそれを見せているのよ」
「…………」
「わかる?」
「…………」
 返事をしない彼に念を押すと、少し首をひねって、口を開いた。
「でも……どんなものを見ても、どんなものと出会っても、そこにはお前がいなければだめなんだ。側にいてくれないと、一緒でないと、意味がない。だから、やっぱりお前のおかげだと思う……」
「…………」
 こいつは自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。酔っぱらいの戯言だとしても――いや、だからこそ、わたしは弱った。
「あなたがわたしに感謝してくれてるのはよーくわかったから。今日はとっとと寝てちょうだい」
「まだ」
 ジゼルは首を横に振った。
「話は終わってない」
「じゃあさっさと続けて」
「お前は何が欲しい?」
「ええ?」
「多分、おれはおまえの欲しいものくらいなら何でも手に入れてやれると思う。――お前が望むなら」
 ジゼルの光と闇の一対の眼差しが、わたしを捉えて離さない。
「この世界だってまるごとお前にくれてやる」
「――――!!」
 わたしは息を呑んだ。
 アルケナン・オ・アビシア。伝説の魔王――そうだ、彼は魔王なのだ。人間には決して打ち勝つことなどかなわない、強大な存在。忘れてはいけない。彼は、魔王だ。
「い……要らないわよ、そんなもの」
「だろうな」
 ジゼルはしれっと言ってうなずいた。
「お前がそんなものを欲しがるとは思ってない」
「当たり前でしょ」
「じゃあ」
 低く、甘いささやき声。酔っていないはずのわたしまで、くらくらする。
「何が欲しい……?」
「なに……って」
 わたしは考えた。わたしは、何が欲しいだろう。答えが見つかったとして、ジゼルにそれをねだるかどうかは別だけれど。
「…………」
 ジゼルはわたしの片手を握りしめたまま、おとなしく待っている。わたしは彼の目を見ないようにして――荒唐無稽かもしないけれど、何だか彼の瞳の中に墜落してしまいそうな気がするから――やがてぽつりとつぶやいた。
「そうね、確かに……あなたにしか頼めないものかもしれないわね」
「なんだ? 何でも言え」 
 嬉しそうに促すジゼルの額を、わたしは指でぱちんと弾いた。
「内緒」
「なんで?!」
「なんでも、よ」
 ジゼルは唇を尖らせた。拗ねているのだろうか。わたしはくすくすと笑う。
「いつか――教えてあげるかもしれないけど」
「…………」
 ジゼルはしようがないな、というように表情を緩めて――正直、それはわたしの台詞なのだけど――わたしの手をぐいと引いた。バランスを崩すわたしを自分の胸で受け止めて、ぎゅうぎゅうと腕に力を込める。まるで、子供がお気に入りのぬいぐるみを抱きしめているみたいだ。
 わたしはジゼルの腕の中でジタバタともがいた。
「だ、だからそういうのはやめなさいって……」
「なんで」
「なんでって……」
「フレデリカはちいさいなあ」
「馬鹿にしてんの、あんた」
 そりゃあ、ジゼルに比べればわたしは小さいでしょうよ。
「んー」
 ジゼルは頬をぐりぐりとわたしの額に擦りつける。
「こんなに世界は広いのに、お前はこんなにちいさいんだもんなあ」
 世界の広さとは関係ないでしょ、と言おうとした時。
「おれにとっては、お前が世界の中心だから」
 とろとろとした口調で、ジゼルはとんでもないことを言う。
「絶対に、失くしたくないんだ……」
 ――ああ、もう。やめてよ、そういうこと言うの。私は何だか泣きたくなった。親を刷り込まれた鳥の子じゃないんだから、ジゼルは何もわたしを追って生きる必要などないのだ。もっと自由に、それこそ世界は広いのだから、好きに生きればいいのだ。でないと、わたしは……。
「フレデリカ……」
 耳元で呼ばれた名前が、熱い。ジゼルは甘えるように体を擦り寄せてくる。指先も、眼差しも、唇も、奇妙な甘い熱に侵されている――わたしは彼の温度を体中で感じながら、そっと呪文を唱えた。もう、彼は眠ったほうがいい。これ以上はだめだ。
「おやすみ、ジゼル」
「ん……」
 魔王様はあっけなく、くたりと力を失った。――本当に、わたしの術に掛かったのだろうか? いくらなんでも、魔王と呼ばれるほどの魔力の持ち主にしては簡単に術に掛かり過ぎたような気もする。もしわざと眠ったのだとしたら……? 私はそれ以上考えるのをやめた。
 わたしはそっと彼の体をベッドに横たえる。ジゼルは目を閉じ、なされるがままになっていた。
「――馬鹿で、世間知らずで、俺様で、甘えん坊で、どうしようもない……」
 わたしはジゼルの顔をそうっと撫でる。
「……な魔王様」
 聞かれないように、小さく。わたしは彼に囁いた。
 いつか、ジゼルとさようならする時。みっともないところは見せたくない。いつでも笑って手を振れるように――ジゼルの唇が触れた手の甲に、わたしはとん、と頬を載せた。
 

 そのままわたしは彼の部屋を後にしたのだが――翌朝。
「フレデリカあああああ」
 地獄の底から響いてくるような声を絞り出しながら、ジゼルは宿の食堂にのそのそと現れた。額に手を当てている。
「頭痛え……」
「あ。やっぱり」
 わたしはパンケーキを切り分けながらジゼルをちらりと見上げた。
「二日酔いね」
「二日酔いい? おれ、そんなに呑んだっけ?」
「…………」
 嫌な予感に、ぴたりと手が止まる。
「あなた、昨日の夜のことどこまで覚えてるの……?」
「ん? どこまでって……」
 ジゼルが眉を寄せながら――そして頭痛は自分の魔術で治したらしい、ぶるぶると頭を左右に振って、わたしをじっと見つめた。
「おれ、なんかしたか? 昨日宿に帰ってからの記憶がないんだが……」
「…………」
 がしゃり、とナイフとフォークが皿の上で不快な音を立てた。わたしの顔にかっと血が上る。――こいつは……!!
「なんか、迷惑掛けたか? すまんすまん」
 あっけらかんとした笑顔で、くしゃくしゃとわたしの髪を撫でる。
「すまん、じゃなあああああい!!」
 わたしは席を蹴立てて立ちあがった。
「そこに座りなさい!! ぶっとばしてあげるから!!」
「ええっ?! おれまじで何やったんだ?!」
 驚いたように顔をひきつらせるジゼルを追い掛け、わたしは呪文を唱える――まあ、忘れていてくれて良かったのかもしれないけれど。でも、なんかそれはそれでちょっぴりくやしい。
 乙女心は複雑なのだ。だから……。
「しかし、お前の欲しいものって何なんだろうなあ……?」
 逃げながらジゼルがそうつぶやいたのも、わたしは聞かなかったふりをした。