EX. 魔の差す瞬間
両手に持った分厚いマグの中に、温めたミルク。こぼさないように気をつけながら、おれは宿の階段を上った。みしみしと音を立てる床板を踏みしめ、部屋の前にたどり着く。両手は塞がっているが、問題はない。扉はひとりでに――もちろん、魔術を使って、だが――開いた。
「フレデリカ、ミルクもらってきたぞ」
小柄な背中が勢い良く振り返る。長いブロンドがくるりと跳ねた。
「蜂蜜は?」
「いれた。ティースプーン二杯だろ」
「よし」
満足げに微笑む旅の連れは、フレデリカ・メルノーという。まだ二十歳にはならないだろう。正確な歳は、何故か教えてくれなかった。おれなんか百だか千だかの単位を生きているのだから、彼女の年齢が二十歳だろうと三十路だろうと、大した違いではないのだが。一度そう言ったらたいそう怒られたので、それ以来尋ねてはいない。
彼女の部屋は隣で、ここはおれの部屋である。ではなぜ、彼女はこの部屋のベッドに我が物顔で座り込んでいるのかというと――別に色っぽい話があるわけではない。彼女はベッドの上に大きな地図を広げ、おれが近付くのを待っている。
湯気の立つマグを両手で受け取り、彼女は小首を傾げた。
「どこまで話したっけ」
「この国の伝説がどうとかって話だろ」
おれは自分のマグに口をつけた。おれのものには蜂蜜は入っていない。以前試してはみたが、甘過ぎた。
フレデリカは軽く頷き、話を再開した。
「そうそう、このルプカバ国には有名な伝説があるの。そこの湖がルプカバ湖っていって、一大名所なんだけど」
大陸の南端に位置することもあって、観光立国だというこの国について、彼女は事細かに説明してくれる。
おれのためだ。
世界を知らない、おれのため。
今ここで紡がれる物語は、おれだけのもの。
蜂蜜入りのホットミルクのような甘ったるい優越感が、おれを満たす。
「ありがちな伝承なんだけどね。お姫様と敵国の王子様の悲恋ってやつ。間は端折るけど、二人は揃って湖に身を投げたの」
「え、そこ端折るのか」
フレデリカは肩をすくめる。
「出会って恋に落ちて引き裂かれたってだけだもの」
「……ざっくりだな」
「そういうわけで、あの湖の畔は恋人たちの聖地になったってわけ。気候もいいし食べ物も美味しいから、この国はハネムーンにも人気なのよ」
「え、結局死んだのに?」
心中したカップルにあやかりたいとは、どういう心情だ。目を白黒させるおれに、フレデリカは笑う。
「いーのいーの、細かいことは。今までもそうだったでしょ? ラワガス国の学問の神殿は、実際は冤罪で左遷されて病死した悲運の天才を祀る神殿だったし」
「そういえば……」
「伝承ってのは、得てしてそーいうもんなのよ」
まあ、そう言うおれもいわゆる伝説の魔王、というやつなのだが。
ベッドの上に広げられた大陸の地図には、赤いインクで線が引いてある。おれたちが旅をしてきた道のりだ。毎晩一日の終わりにはこうやって、フレデリカが地図に今日移動した分の線を引き、その地域にまつわる逸話を話してくれる。それは歴史だったり、伝説だったり、観光名所だったり、政治だったり、名産品だったりと多岐にわたった。
おれはこの時間が好きだ。ふたりで並んで地図を見下ろし、あれこれと他愛もない会話をする。そうしておれは思うのだ――城を出て良かった、と。
「明日はどうしよっか」
フレデリカはううん、と唸った。
「その、岬には行かないのか?」
「行ってもいいけど、多分カップルで激混みよ?」
気乗りしない様子の彼女に、おれは言う。
「そういうもんだろ、観光名所なんて」
「んー、まあねえ」
マグをすする彼女を横目に見て、おれは内心ため息をついた。
フレデリカは賢い少女だ。頭の回転は早いし、博識だし、人間にしては魔術の腕にも長けている。体術だって、腕力がないのを技量でうまくカバーしている。しかし、だ。彼女はどうしようもなく、致命的に、にぶい。普通、気付くだろう。おれがどんなに、お前を……。
「まあいっか。またこの国に来ることがあるかどうか、わかんないもんね。ジゼルがせっかく行きたいって言ってるんだから、行っておきましょうか」
屈託なく笑うその笑顔が、時々ひどく眩しい。
「おう」
心中したやつらが本当に恋人たちの守護神になっているというのなら、おれはそいつらに心から願いたい。――フレデリカを、こいつの鈍さを、どうにかしてくれ。
もういっぱいホットミルクが欲しい、という彼女に頼まれて、おれは再度宿の食堂に降りた。ティースプーン二杯の蜂蜜を入れて、かき混ぜる。
まさか、魔王と呼ばれたおれがホットミルクを作るようになるとはね。苦笑を浮かべながら、部屋に戻った。今度はフレデリカの分だけだから、空いた片手でドアを開ける。
「おい、戻ったぞ――」
部屋に入ったおれは、思わずマグを取り落としそうになった。
――誰か、助けてくれ。
魔王の身で神に祈るのもどうかとは思うが、しかしおれは思わず天を振り仰いだ。
フレデリカは、ベッドの上に丸くなって眠っていた。歩き疲れたのか、ホットミルクで体が温まったのか。理由はともあれ、ここはおれの部屋である。そしてそこは、おれのベッドだ。
「無防備にもほどがあるぞ」
おれはつぶやき、マグをサイドテーブルに置いた。
すぐに揺さぶって起こすべき、なのだろう。もしくは魔術で隣の部屋に転移させるか。人間の魔術師には、物質――特に生命体の転移は難しいらしいが、おれにとってはたいしたことではない。
だがおれはそのどちらもせずに、ただじっと立ち尽くし、フレデリカを見下ろした。
おれが、普通の人間だったなら――もっと、躊躇わずにフレデリカに近付けるのだろうか。魔王でなければ。この身の半分に、ゴルダ・アイの血が流れてさえいなければ。この右目が、金色でさえなかったら。
けれどおれが魔王でなければ、おれは彼女と出会うことすらなかっただろう。出会っていたとしても、こうして一緒に旅をしていたか、どうか。彼女がおれに興味を抱いたのは、おれが魔王だからだ。こんな風に隣を歩いて、地図を作ってくれるのも、おれが魔王だからなのだ。魔王でないおれは、多分フレデリカの興味を引くような存在ではない。
それに――おれは、いつまでもフレデリカにしがみついていていいのだろうか。魔王と行動をともにしているせいで、今までもフレデリカを厄介事に巻き込んできた。これからも、同じような目に遭うかもしれない。おれは彼女を守るつもりではあるけれど、そもそもおれが側にいなければ……。
「でも、無理だ」
彼女を起こさないように、そっとベッドに腰掛ける。身を屈めると、彼女の寝息は甘い、蜂蜜入りのホットミルクの匂いがした。
――引き離されそうになって心中したという、伝説の恋人たちを思い出す。おれだって、フレデリカと離れるなんて耐えられない。でも、それでも、おれは彼女だけは生かすだろう。おれが消えたとしても、フレデリカだけは。おれのことを忘れてでも、幸せに生きられるように。
何度も思い浮かべた、魔術をそっと思い浮かべてみる。この場でフレデリカがおれのことを忘れてしまうような、そんな魔術を。決して放つことのできない、魔術を。
「くそ」
おれは魔術を霧散させ、フレデリカを起こすことにした。肩を揺さぶる。
「おい、起きろ。ここはおれの部屋だぞ」
「んー……」
嫌がって身をよじる彼女の耳元で、ぼそぼそと告げた。
「魔王なめんなよ。いい加減、我慢の限界だぞおれは」
「…………」
すう、すう、と寝息。こいつ、熟睡しすぎだろう。おれはだんだん馬鹿馬鹿しくなってきた。
「頭からばりばり食ってやろうか」
言いながら笑ってしまう。駄目だ、やっぱりおれはへたれだ。へたれで結構、フレデリカを泣かせるよりはいい――言い訳のように、そう自分を納得させる。
ふにふに、とやわらかい頬をつつく。髪をくるくると指先で遊ばせる。起きない。
「…………」
それ以上の言葉は――聞いていないとはわかっていても、口には出せなかった。そんな、甘い言葉は言えない。ああ、そうだ、おれはへたれだよ。
それでも、おまえがいつか別れを口にするまでは、おまえはおれのものだ。じゃあもし、その時が来たら? それでも――それでもきっと、おれは世界を敵に回してでも、おまえを手に入れようとするだろう。おれから離れることなんて、許さない。許せない。耐えられない。
どちらにせよ、おれはおまえを手放すことなんてできないってことなんだな……。
「覚悟しろよ」
いつか絶対、おまえを全部、おれのものにしてやるから。
甘い、蜂蜜味の吐息を吸う。今は、ここまででいい。
おやすみ、フレデリカ。良い夢を。
サイドボードに置いていた彼女のためのホットミルクを飲み干し、おれはベッドに横たわる。小さな体を腕の中に閉じ込めて、おれは甘い甘い眠りにつくのだった。
翌朝、おれが目覚めたフレデリカにふっ飛ばされたのは、言うまでもない。……いやさすがに理不尽じゃねーかな、とは思うんだが、それでもまあいいや、真っ赤になって怒るフレデリカも可愛いし、なんて思ってしまうあたり、おれも相当重症らしい。