EX. 切なる願い
街は荒れていた。それもそのはず、ついひと月ほど前までここは戦場だったのだから。大規模な戦争というわけではないのだけれど……ちょっとした小競り合い、というか。
それでも戦争は戦争。砲弾で崩れたような壁があったり、焼けた家の跡があったり。まともに開いている店なんてほとんどない。きっと、見えないところで闇市が横行しているのだろう。
だから、あまりこの街には来たくなかったのだ。こんな状況で旅のものがふらっと泊まれるところがあるわけでもないし、わたしたちはただ通過するだけなのだが、それでも街に入った直後から視線をちくちくと感じる。よそ者に対して警戒するのも、この街の境遇を思えばやむなし、だ。
その辺りの事情をどれくらい理解しているのかはわからないが、わたしの旅の連れ、ジゼルも少し緊張した面持ちである。――実は、ここを通ろうと主張したのは彼だった。
「何にもないわよ?」
昨夜、明日からの行程の打ち合わせのために、彼の部屋に集まった時のことである。地図を広げ、わたしは言った。
「この辺りは昔からずっと国境を巡ってゴタゴタ揉めてるところだから、あまり発展しないのよねえ」
国境を越えるにも、少し離れたところにある警備所を通らなければならない。昨日までいた街からは、ひとつ山越えしさえすれば近道をして国境を抜けられるのだ。しかし、彼は珍しく渋った。
「そうやって人が避けるから、発展しないんじゃないのかよ」
「わたしたちがふたり通ったからってどうにかなる問題じゃないでしょ」
「それはそうなんだが」
彼はじっとわたしを見つめた。部屋の中でだけは右目の眼帯を外しているから、黄金のその光彩が今はあらわになっている。
「お前、わざと避けてないか?」
「わざと?」
わたしはすっとぼけてみせた。
「何のこと?」
「治安の悪いところとか、ガラの悪い街とか、荒れた場所とか、いわくつきのところ、とことん避けてるだろ」
「普通避けるでしょ、旅人の基本よ?」
笑い飛ばそうとするわたしに、彼は真顔で迫った。
「そうじゃなくて――そもそもおまえ、盗賊のアジトには突っ込んでいって路銀をくすねてるじゃないか」
「それは治安維持に対する正当な報酬!」
「百歩譲ってそうだとしても、金額はお前が決めることじゃ……まあそれはいいか」
彼は鷹揚に手を振った。
「おれが言ってるのは――」
おまえが、おれに見せるものを選んでないかってことなんだよ。
「…………」
思わず言葉に詰まった。これじゃあ、その通りですと自白したようなものだ。
「……やっぱりか」
彼はため息をつく。わたしは目を逸らした。多分、拗ねているように見えただろう。その通りである。
「安全のため、じゃないよな? おれがいるんだから危険な目に遭うわけがない」
これは何も彼が自信過剰なのではない。この世界の人間が束になって掛かったって、彼には勝てない。
――ジゼルは、伝説の「魔王」なのだから。
「世界を見て回りたいんでしょ?」
わたしはのろのろと言った。
「だったら、できるだけいいところ見せたいじゃない」
綺麗な景色、美味しいご飯、面白い遺跡や素晴らしい芸術、そんなものを彼には見せてあげたいのだ。そりゃあ、旅をしているうちに悪党にも出会うし、腹の立つこともいろいろあって、世間の汚い部分を見ることもあるけど。でも、敢えてそんなものに近づく必要があるだろうか。旅の時間は永遠ではない。有限だ。だったら、世界のいいところを知って欲しい。ジゼルを「魔王」に仕立てて迫害したしょうもない人間たちだけど、ちゃんと価値ある世界を作ってるんだよって誇りたい。――ジゼルに、この世界を愛して欲しい。勿論、そんなのは全部わたしのわがままなのだけど。実際、既にいろんなトラブルに巻き込まれたこともあるし……。
ジゼルは困ったように笑った。
「気持ちは嬉しいけど……そりゃ過保護だろ、フレデリカ」
「過保護……?」
わたしはじとっとジゼルを睨んだ。
「無一文でふらふら人のあと追うだけの、地図も読めないへっぽこ魔王がご立派ですこと……!」
「まあ、それはそれ」
ジゼルはわざとらしく目を逸らす。――ったく調子のいい……。
わたしは大げさにため息を着いた。
「わかったわよ、じゃあ寄りましょ? でも宿なんかないから素通りよ」
「飯は?」
「期待しちゃだめ。とにかくさっさと通り過ぎること」
「……わかった」
「言っとくけど」
わたしはジゼルに指を突き付けた。
「行ってから、こんなの聞いてない、なんて言い出したらぶっ飛ばすからね!」
「わかったわかった」
ジゼルは軽く頷く。――本当にわかってるのかなあ……。
彼は不意にわたしの手を取り、その指先に唇を寄せた。恭しく、つぶやく。
「約束する。おまえを、危険な目には遭わせない」
「――――!!」
わたしは慌てて手を引いた。
「じょ、冗談、やめてよね」
「冗談の方がたち悪いだろ、こんなの」
ジゼルは髪を掻きながらぼやく。
「それはともかく――だ。おれは、この世界のどんな汚い部分を見たって嫌にはならねえよ」
「なんで言い切れるの?」
「内緒」
左目を閉じてわざとらしくウインクする魔王――結局、わたしは容赦なく彼を蹴飛ばした。
とまあ、そんなやり取りの末にこの地を訪れているのだが――予想通り、いや、予想以上にひどかった。既にスリを数人ばかり返り討ちにしたし、今も戦災孤児だろうか、汚れた身なりの子どもたちがわたしたちの周りをうろうろしている。戸惑うジゼルに、わたしはその耳元に口を寄せて――背が届かないから、手を引っ張って無理やり近付けたのだけど――ぽそりと言った。
「かわいそうだ、なんて言って、足止めちゃだめよ。ひとりに何かあげたら、周りの子とか、場合によっては大人たちが取り上げようとしてその子が大変な目に遭うから」
「そういうものなのか……? けど」
「けど、じゃない」
ぴしゃりと言い放つ。
「そうやって、旅人に集ればお金をくれる、って味をしめてそれをやり続けたら、ますます人が来なくなる。悪循環よ。わかるでしょ?」
「う……」
ジゼルは唸った。
「一時の感情で、どうにかできるものじゃないの」
冷たいようだが、それが真実だ。
「なんで、こんなになるまで戦争をするんだ」
ジゼルは言う。街並みから目をそらして――ほら、だから言わんこっちゃない。
あんたにこういう風景を見せたくなかったのは、きっとあんたがお人好しにも本気で心を痛めると思ったから。世の中にはどうにもならない理不尽なことがあって、わたしたちは多少なりともそれから目を背けて生きている。勿論、是正すべく戦うところは戦わなければならないけど、全ての不条理を正すことなんてできない。
そういうのを、一人の力で何とかしようとした例はある。大抵が聡明で力のある若者で、だが結局彼らは力に溺れた。理想は墜ち、現実の泥に塗れ、彼らを後の歴史は「暴君」だとか「独裁者」だとか、そんなふうに呼ぶようになる。
――ジゼルには、そうなって欲しくない。
彼はあまりにも強大な力を持っていて、その気になれば彼は世界をいくらでも書き換えることができる。でも、そうはなって欲しくない。彼に、真の意味での「魔王」になって欲しくはない――もしそうなってしまったら、わたしには彼を止められない。でも、ついていくこともできない。したくない。だとしたら、その時わたしは……。
「おい、フレデリカ」
ジゼルの声に、わたしははっと我に返って、そしてすぐに気付いた。囲まれている。
いつの間にか、人気のない裏路地に入り込んでしまっていたらしい。しまった、とわたしはほぞを噛む。さんざんジゼルにお説教しておいて、油断していたのはわたしの方だったか。
物陰に潜む複数の殺気。旅人から身ぐるみ剥ぐ気なのだろう。ついでに女は売られるのかもしれない。そうはさせない。
わたしは仁王立ちになり、声を張った。
「怪我したくなきゃ、さっさと立ち去りなさい。さもなければ」
――ひゅ、と風の音が鳴った。ぱん、という破裂音とともにわたしの足元に小石が転がる。
「やる気らしいな」
わたしを狙った投石を、ジゼルが魔術で打ち落としてくれたのだろう。驚くほどの反射速度と動体視力、そして精確さだった。
「ほどほどにね、ジゼル」
わたしはため息をつき、ナイフを鞘から抜いた。
――だから嫌だったのだ。ここを通るのは。
戦闘はあっけないものだった。わたしもほとんど何もしていない。何せジゼルがいるのだ――伝説の魔王、アルケナン・オ・アビシアが。
彼が何か口の中で唱えると、暴漢たちの影が地面からむくりと膨れ上がり、その影の主に向かって襲い掛かった。あがる悲鳴――わたしは目を剥く。こんな魔術、見たことがない。
「その影はお前たちの中にある悪意、殺気だ」
ジゼルは長い黒髪を靡かせ、薄く笑みを浮かべた。決して大声を上げているわけでもないのに、彼の声はその場を完全に威圧している。
「お前たちが戦意を喪失すれば、それは消えるぞ」
あたりをぐるりと見渡して、そして彼らが次々と逃げ出すのを確認してから、ジゼルはわたしを振り返った。いつもの通りの、彼だった。
「な? 約束しただろ?」
――おまえを危険な目には遭わせないって。
変わらない笑顔。だけど、少し無理をしている。わたしにはわかる。だが、そこには触れなかった。
「何なの、あの魔術。わたし、初めて見たんだけど」
「ゴルダ・アイたちが、『英雄』たちに対して使っていた」
ジゼルはぽつりという。わたしははっと息を呑んだ。――ゴルダ・アイ。人が迫害した、かつての大陸の支配者。彼の金色の右目とその魔力の源。彼に流れる、異種族の血。
「影を操る術なんだけどな。影は己を殺すことはない――殺してしまえば影も消えるから。足止めと戦意喪失に向いている」
「……そう」
わたしは短く返事をすると、彼のマントをぎゅっと掴んだ。
「ん?」
「なんでもないわ、行くわよ」
言えなかった。ジゼルがどこかに行ってしまうのではないかと――人に愛想を尽かして大陸を渡ったゴルダ・アイたちのように、どこか遠くに去ってしまうのではないかと怖くなった、だなんて。
ジゼルは小さく笑った、ようだった。どんな顔をしているのかは見られなかった。見るのが、怖かった。
「持つなら、こっちにしろ」
「え?」
ジゼルはわたしの手を取り、そして歩き始めた。わたしのグローブ越しに触れる、彼の体温。
――普段なら振り払って殴っていた。それは間違いない。でも、今はいいや、と思った。
多分、それを望んでいたのはわたしもジゼルも同じだったから。
そのまま急いで街を出たわたしたちは、黙って街道を進んだ。しばらく歩いたところでわたしはさりげなく手を離そうとしたのだが、ジゼルはそれを許してくれない。わたしが立ち止まったのに合わせて、彼も立ち止まる。
「どうした?」
優しく尋ねられ、わたしは困惑した。
「いや、別に……どうもしないわよ? わたしはああいうの、慣れてるし」
いつも、もっと手荒な方法で解決してきた。今更あんなことで動揺するような生き方はしていない。なのに――。
「だったら」
ジゼルはあくまで穏やかだった。
「なんで、そんなに辛そうな顔をしているんだ?」
「…………」
わたしは彼から目を逸らす。
――わたしは、ジゼルに辛い思いをさせたな、と思ったのだ。いくら相手が自分に悪意を持って攻撃しようとしていたとしても、彼らが根っからの悪党だとか、盗賊を生業としているとか、そういうわけではない。戦争で家を破壊され、職を失い、どうしようもなくなって、悪事に手を染めているのだろう。彼らは戦争が起こりさえしなければ、ごく普通の市民だったのだ。そのことに思い至らないようなジゼルではない――だからこその、あの魔術だったのだと思う。
「あのなあ、フレデリカ」
ジゼルは繋いでいない方の手でわたしの髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「おまえのせいじゃないんだから、そんな顔するな」
わたしは彼の手を退けさせ、精一杯の強がりを口にした。
「……別に何でも」
「何でもないことないだろ?」
ジゼルは苦笑する。
「おまえはおれを甘やかしすぎだよ」
「…………」
わたしは黙ってジゼルを見上げる。彼はうん、とひとつうなずいて。
「おれは、おまえが思っているよりずっと――この世界が好きだ。好きになった」
「…………」
彼は、笑っていた。真っ直ぐに、なんの迷いもなく。
「そりゃあ、いいやつばっかりじゃないし、いいことばかりでもないよな。もうちょっとどうにかならねえの、ってこともたくさんある。たとえば今日みたいに」
それでも――と、ジゼルは言葉を続ける。
「生きていれば、前には進む。昨日よりは今日、今日よりは明日、少しは良くなっていく。――それに期待しながら、皆生きている。そういうもんだろう?」
「……そう、ね」
「だからおれも、期待してるんだ」
ジゼルは背後をちらと振り返った。
「今度あの街に来る時には、きっといい街になってる。おれはそう、信じてるよ」
「…………」
なんて、切なくて優しい願いだろう。
わたしは思わず、ぎゅっと彼の手を握りしめた。彼は何も言わずに握り返してくれる。
「……ありがと」
わたしはつぶやいた。
ありがとう。あなたを「魔王」にした、人を嫌いにならないでいてくれて。あなたを「魔王」にした、世界を好きでいてくれて。
ジゼルは微笑む。――そのかおは、ずるい。
わたしは少し赤くなっているだろう顔を隠すように、彼から目を逸らした。早口で、話題をかえる。
「まあ、今日のことは魔術師協会に報告しておくわ。あそこ、一応国家とは独立した組織だし、うまくいけば介入してくれるかも」
「そうなのか?」
「そうよ」
わたしは軽く言う。
「あなたは知らないでしょうけど、わたし各地からいろいろ情報送ったり、トラブル解決したりして、それなりに協会からは重宝されてるの。だから、今日のことも少しくらいは聞く耳持ってくれるでしょ」
勿論ジゼルの真実は伏せて、ただの旅の連れ、ということにしている。それでも、わたしが流れの魔術師としてそれなりに一目置かれる状況を作っておいた方が、彼と旅をする上で何かと便利だと思ったのだ。
――それが少しでも、ジゼルを守ることに役立つなら……。
「じゃあ、行くか」
ジゼルはわたしの手を引き、歩き出す。わたしはその勢いに負け、つんのめった。
「ちょ、ちょっと、道わかってんの?」
「いや、知らん」
「堂々と答えるな!!」
わたしは空いた手で彼を一発どつき、そして彼の一歩前に出た。――繋いだ手を離すのは、諦めた。今日だけは見逃すことにしよう。あくまで今日だけ、だ。……多分。
道は続く。わたしたちの前に、どこまでも――それが少しでもよりよい明日に繋がることを願って。わたしたちは、生きていく。