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魔王様とわたし。9

 ――真夜中。なぜだかは分からないが、突然ふっと目が覚めて、わたしはベッドから体を起こした。一瞬、今自分がどこにいるのかわからなくなる。洗いざらしのシーツを掌の下に感じて、わたしはほっと息をついた。そうだ、ここは街道沿いの宿の一室。旅の途中でいつも通りに宿をとった、それだけのこと。毎日毎日違う風景の中で眠るから、少し混乱してしまったのだ。
「……ゆめ?」
 ――たぶん、わたしは夢を見たのだろう。昔の夢かもしれないし、もしかするとそうでもないかもしれない。一人で旅をしていたころの夢、のような気もする。悪夢だったのかどうかも、目が覚めた今となってははっきりしなかった。ただ……。
 わたしは体を丸め、ぎゅっと膝を抱えた。
 以前はこんな夢、見なかったような気がする。目が覚めた後、どうしようもなく体が震えて止まらないような、こんな夢なんて知らなかった。だって、わたしはいつでもひとりだったのだから。早く朝が来てほしいなんて、願うことに意味などなかったのだから。
「…………」
 隣の部屋に眠る、旅の連れを思う。明日になれば、また彼と顔を合わせる。向かいに座って食事をとって、隣に並んで道を歩く。もう少し、もう少しだけ我慢すれば、明日が来る――それなのに。
 わたしはベッドから降りた。ブーツに足を捻じ込み、そっと部屋を抜け出す。――ありとあらゆる言い訳を考えながら、隣の部屋の扉の前に立った。
 小さくノック。返事がなければ、諦めて自分の部屋に戻ること。そう言い聞かせながら、少しだけ、待つ。
「なんだ?」
 あまりにもあっけなく、彼の声がした。
「フレデリカだろ?」
 立ち尽くすわたしの目の前で、部屋の扉が開く。彼は――ジゼルは少しも眠そうな顔をせず、穏やかにわたしを見下ろしていた。
「入れよ。寒いだろ」
「う……うん」
 そうか、寒いからわたしは震えていたんだ。言い聞かせながら、部屋に入る。前もって考えていた言い訳なんて、全部忘れ去ってしまっていた。
 部屋の壁にかかった燭台には一本だけ蝋燭が灯されていて、彼の長い影がゆらゆらと床の上に揺らめいている。
「眠れなかったのか? そうだよな――今夜は風が強いしな」
 ――そうだっけ? わたしは混乱した頭のまま、彼の後に続いた。安宿の狭い部屋には、座る場所などベッドくらいしかない。彼はベッドに座り、その隣にわたしは腰を下ろす。ぎしり、とスプリングが軋んだ。
 突然、彼は立ち上がった。
「厨房、まだ空いてるかな? ホットミルク、もらってこようか」
「え?」
「ちょっと待ってろ」
 大きな手が、わたしの髪を掻き回し――離れていく。
「ま、」
 わたしは慌てててその袖をつかんだ。待って。
「ミルクは、要らないわ」
 わたしは小さく言った。彼はぴたりと足を止める。
「そ、そうか」
 困ったように立ち尽くす彼と目を合わせないように、わたしは俯いた。――何しにきたんだろう、わたし。どうして彼のところにきてしまったんだろう。
「…………」
 気まずい沈黙。それがしばらく続いて――そろそろ自分の部屋に、戻ろう。わたしがそう思った時だった。
 彼は私の背後に回り込んだ。ベッドが揺れて、どうやら彼はわたしの背中側に座ったらしい。
「…………」
 わたしは少しだけ考えて――やがてふ、と力を抜いた。背中側に、倒れこむ。
「うおっ?!」
 とん、とわたしの頭と肩は彼の背中にぶつかって、そこで止まった。壁のようでいて、壁よりもやわらかい。もしかすると、少しあたたかいかもしれない。
「…………」
 また、沈黙。だけど、さっきよりは不思議と気にならなかった。
 ぽつり、とジゼルが口を開いた。
「おれの、昔の話……してもいいか」
「……うん」
 わたしはうなずいた。彼が昔の話をしようとするなんて、はじめてのことだった。出会うまで彼がどんなふうにして過ごしていたのか、わたしは全然知らない。話そうとしないものを、聞くつもりはなかったから。
 ――昔の話。ジゼルにとっての昔って、どれくらい昔なんだろう。想像もつかなかった。
 ジゼルは、魔王だ。いや、正確にいえば魔王、と呼ばれる存在だった。かつてこの世界にいた強大な魔力を持つ種族、ゴルダ・アイと人間との混血。それが、彼だ。人間がゴルダ・アイを大陸の外に追った際、彼だけはこの世界に残った――残らざるを得なかった。それ以来、ゴルダ・アイが彼のために築いた「城」に守られ、たったひとり、彼は生きていた。気の遠くなるほど長い時間を、ひとりきりで。
 まあ、いろいろあって今、彼はわたしの旅の連れとしてここにいるのだけれど。
「ゴルダ・アイたちが大陸を離れるときな」
 ――それ、何千年前のことよ。思わず口を挟みそうになったけれど、わたしは我慢した。彼の口調は今までに聞いたことがないくらい静かで、そしてどこか――苦しそうだった。
「おれ、頼んだんだ。一緒に行けないなら、せめておれを殺してくれって」
「…………!!」
 ぞっとした。――なに、それ。口が乾いて、舌が張り付く。殺してくれ、なんて……そんな台詞は、こんなに静かに語られるべきものじゃない。そう思った。
「だってさ、城の外はおれを殺そうとするやつらばっかりなんだぜ? おれの片目が金色だから――ちょっと人間よりも魔力が強いから――おれはもう、城に閉じこもるしかない。ひとりきりで。ずっと、ずっと……そんなの、考えたくもなかった」
 際限のない孤独。終わりの見えない永遠。それは確かに――かなり、きつい。
「こんなところで生きていたって、意味がない……そう訴えたおれに、彼らは言った」
 ジゼルの背中。それは揺れることもなく、押し返すこともなく、ただ、わたしの体をやわらかく支えてくれている。
「『おまえの存在は、希望なんだ』って。――意味わかんねえって思ったよ。希望? 何の? ゴルダ・アイと人間がともに生きていけるかもしれない、そんな夢物語をまだ信じているのか? って。無理だ。おれの片目が金色である限り、無理に決まってる。誰もおれを受け入れてなんてくれない。おれは『魔王』として人々に恐れられながら、身をひそめて生きていくしかない。生きているのか死んでいるのかもわからない、『伝説』なんてものになって――それで」
 ジゼルは笑ったようだった。
「生きながら、朽ちていくんだって。そう思ってた」
「…………」
 わたしは思わず振り返りそうになって――やめた。ジゼルは今、顔を見られたくなんてないのかもしれない。だからこそ、こうやって背中を向けているのかもしれない。わたしは彼にもたれかかったまま、暗い天井を見上げていた。
「おれはずっと眠ってたよ。城の魔術を借りて、ずうっと……来訪者が来たって、起こされるまではな」
 ――来訪者。それは、わたしのことだ。
「最初は、怖かった。おまえがどんなやつかわからなかったし、なんで城がおまえを入れたのかもわからなかった。けど……」
 わずかに、ジゼルはわたしの背中に体重を預けたようだった。少し、重い。
「たぶん、おれは、うれしかったんだ」
 短いつぶやき。
「おまえと会えて――おまえと話せて。おまえに説得されて、おまえと一緒に城から出られて」
 彼のひとことひとことが、わたしの心の奥底に降り積もっていく。
「風が、光が、空が、土が、雨が、街が、人が――全部全部、今でもすごく、うれしいんだ」
 わたしは思わず目をぎゅっとつぶった。この、お人好し魔王が……!
 宿のおばちゃんとうれしそうにしゃべったり、夕焼けに染まる街並みをいつまでも眺めていたり。道に迷っても、雨に降られても、嫌な顔ひとつせずについてくるのは、そういうことなのか。
 彼にとってはすべてが新鮮で、愛しいのだ。たとえそれが彼を疎外した世界であっても、迫害した人間たちであっても、彼はそれを憎めない。ゴルダ・アイにとって彼が「希望」であったように、彼にとってもそれらは「希望」なのだろう。いったんは諦めても――諦めたふりをしても、結局は諦められなかったもの。かすかな光。優しい未来。彼は今でもそれを、信じている。
「フレデリカ」
 彼が、わたしの名前を呼ぶ。
「おれはいま、いきているんだな」
 その声音には、あまりにもいろいろな感情が詰まっているようで――じわり、と目尻に何かが滲んだ。目を閉じていて、本当に良かった。

 ――だいじょうぶ。わたしがあなたを守ってあげる。
 あの時わたしはそう言った。たいした力もない小娘のくせに、魔王に向かい、胸を張って――でも、あの時わたしは本気でそう思ったのだ。このひとを守りたい、と。城に閉じ込められた彼の姿は、きっといつかの自分にとてもよく似ていたから。
「フレデリカ? 聞いてんのか? 寝たか?」
 ひとが話してるのに寝るわけないでしょ――そう言いかけて、わたしはやめた。ただ、もう少しだけ力を抜いて、ジゼルの背中にもたれかかる。
「……ま、どっちでもいいけど」
 ジゼルは小さくつぶやいた。
「だいじょうぶだ。もう少ししたら、朝が来る」
「…………」
「そうしたら、また歩き出せるさ」
「…………」
 わたしは、答えない。背中から降ってくる彼の声は、ひどく心地よかった。
「なあ、フレデリカ」
 もう何度となく聞いた、わたしの名を呼ぶ彼の声。
「明日が楽しみになったのは、おまえと出会ってからだ」
 でも、こんな風に優しく呼ばれることには、慣れない。
「ありがとうな――」
「…………」
 どういたしまして。うまく声を出せる気がしなくて、わたしは結局黙って彼に背中を預けていた。何となく、この姿勢は安心できる。
「じゃあ、おやすみ。フレデリカ」
 ふ、と意識が遠のいていく。――あれ?
「今度こそ、良い夢を」
 ジゼルのやわらかな低音に引きずられるようにして、わたしは深い眠りに落ちていった……。
 
 
 
 目を覚ますと、部屋の中には日が強く差し込んでいた。もう昼近くだろう。
 えっと、昨夜確かわたしは何か悪い夢を見て……ジゼルの部屋に行って……それで……。
「?!」
 慌てて記憶を掘り返す。――それから、どうしたっけ?
「うう……ん」
 隣で、小さなうめき声。ジゼルの声だろう。……って、隣?
「別に今日の出発は急がねえだろ? もうちょっと寝てようぜ……」
 なだめるようにわたしの頭をぽんぽん、と叩く大きな手――シーツの上に流れる長い黒髪の奥で、ちらりと覗く金色の瞳。
「え……?」
 声がひきつった。
 ジゼルはその薄い唇を穏やかに微笑ませて、枕に頭をうずめている。それは、わたしが今使っているものとは別の枕だ。……わたしの、枕……って、これ、なに? え?
「ひっ……!」
 喉の奥から、ひきつった悲鳴が漏れた。
「なに、してんのよ――!!」
 わたしが叫び声とともに彼をベッドから蹴り落としたのは、無理もないことだと思う。
「なにって、いい夢みられるように」
 おとなしく床に転がりながら、ジゼルはわたしを見上げる。黒色の目と、金色の目が、同時に笑った。赤い舌が、ちろりと覗く。
「人恋しかったんだろ?」
「…………っ!!」
 爆音が轟き、火柱が立ち上った。あっという間にジゼルの悲鳴が遠ざかっていく。
「お、お前、それはやりすぎっ……」
「うるさいわっ!!」
 魔王の攻撃があまりに強烈過ぎたので、わたしは思わず彼ごと宿の壁を吹っ飛ばしてしまったのだった――もちろん、後で弁償したけど。

 ――人恋しかったのは、あんたもでしょうが。
 そう、あれはちょっとした気の迷い。少し寒くて、風の強い夜の気まぐれ。わたしも、彼も、ちょっとだけ心が弱っていたのだ。
 そういうことに、させてほしい。