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魔王様とわたし。3

 昨夜見た夢の内容はまるで覚えていないのに、ただ悪い夢だったということだけがはっきりと印象に残っている、そういう朝は誰にでもあると思う。そしてまさに、わたしにとっては今朝がそうだった。
 どこの宿も同じ、変わり映えのしない天井を眺めてひと息。体がやけに重くて、起き上がる気がしなかった。さっさと着替えて階下に降りないと。たしか、この宿の朝食の時間は決まっていたはずだ。隣の部屋に眠っている旅の連れは朝に弱いから、叩き起こしてやらないと食いはぐれてしまうだろう。
「低血圧な魔王ってどうなのよ……」
 つぶやいて、けほ、と咳き込んだ。喉がひりついて、痛い。寝起きのせいと片付けてしまうには、少し度が過ぎている。そういえば体全体が熱っぽいような――途端にぶるりと悪寒が全身を襲って、わたしは毛布をすっぽりとかぶった。これは、もしかすると……。
「風邪、引いた?」
 呻くと同時、喉に痛みが走って、わたしは再び盛大に咳き込んだ。
 わたしは元来体の強い方ではないけれど、ここまでひどい風邪を引いたのは久しぶりだ。妙な魔王と旅をし始めてからは、初めてのこと。
 いくら彼が朝に弱いと言っても、今日のわたしには彼の朝食の心配はしていられない。ふらふらと食堂に降りてあたたかいスープを飲み、再び部屋に戻った。風邪を引いた時はとにかく寝るに限る。ベッドに倒れ込むように横になると、わたしは毛布を体に巻き付けて眠りに落ちた。

「……リカ。フレデリカ」
 誰かに呼ばれたような気がして、わたしはふっと目を覚ました。途端に眼前に迫る、黒と金の瞳。
「きゃあああああああっげっぐっごっごほっ」
「お、おい」
 思わず叫んだ声も途中から咳に変わる。目の前の男は慌てた様子でわたしの背中に手をあてた。
「ど、どうした? 大丈夫か?」
「な……」
 わたしは痛む喉に手をあてがいながら男を見上げる。
「な、なんでジゼルがこの部屋に……?」
 そう。この男は元伝説の魔王で、今はわたしの旅の連れ。目つきも口も悪いけれど、女性の部屋に勝手に入ってくるような真似をする男ではない。
 わたしの言葉に、彼は目を瞬かせた。
「や、だって今日起こしてくれなかっただろ。朝メシには何とか間に合ったけど、何かあったのかと思って」
「何で起こされるのを当たり前だと思ってるのよ。自分で起きなさいよ」
 かすれた声で抗議すると、ジゼルは軽く頭を掻いた。
「いや悪い。どうも朝って苦手でな。……それはそうと」
 彼の大きな手が、不意にわたしの方へと伸びてきた。避ける間もなく、その掌がぴたりとわたしの頬に触れる。
「顔が赤いが、どうかしたのか? それに声も変だ」
「……風邪よ」
「かぜ?」
「そう」
「…………」
 彼は突然立ち上がり、部屋の窓の側に歩み寄った。
「窓、閉まってるぞ」
「……開けてないもの」
 ジゼルは眉を寄せ、壁や天井をじろじろと眺め回す。
「この宿、建てつけが悪いのかな」
「……何を言ってるの?」
 一体彼が何を言っているのかさっぱりわからない。ジゼルはベッドの側に戻ってきて、じっとわたしを見下ろした。
「だって、かぜのせいなんだろ?」
「え、ええ」
「窓が閉まってるんだから、どこかから隙間風が入ってきてるんじゃないのか?」
「…………」
 三秒ほど沈黙した後、わたしはおそるおそる口を開く。
「まさかとは思うんだけど」
「うん?」
「あなた、風邪を知らないの……?」
「知らないわけないだろ、風くらい外に出たらいくらでも吹いてるじゃないか」
「その風じゃなくって……熱が出たり咳が出たりする……」
「ネツ? セキ?」
 きょとんと首を傾げるジゼルに向かい、わたしは枕を振り上げた。
「この非常識魔王ー!!」
 ぶん、と腕を振ると同時に頭がぐらぐらと揺れて――。
「何だよいきなり……ってフレデリカ?!」
 わたしはベッドに倒れ込み、そのまま意識を手放したのだった……。

「おっさん、本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫、眠ってるだけだ。あんたら旅の人だろ? 疲れが出たんじゃないか?」
「だったらいいんだが……」
 誰かが喋っていた。知らない声と、知っている声。知らない気配と、知っている気配。わたしは目を閉じたまま、声に耳を傾ける。
「それにしてもあんた、随分慌ててたな」
「ん……まあ、初めてだったんだよ、こういうの」
「駄目だぜ、お嬢ちゃんに無理させたら。ふだんいくらしっかりしてたって、若い女の子なんだからな。あんたは男なんだから、しっかり守ってやるんだぞ。彼女のこと」
「うん……わかった」
 わたしはこの声の持ち主を良く知っている。それなのに、それは今までに聞いたことがないほど弱々しい声だった。何だか心配になって、目を開けようとしたのだが――体がぐったりと重くて、言うことを聞かない。だいぶ熱っぽさはとれたし、喉の痛みも朝より随分ましになったとは思うのだけれど。そういえば、今は何時ぐらいなのだろう。わたしはどれくらい眠っていたのだろう……。
「なあ、おっさん」
「何だ」
「こいつは、大丈夫なんだよな? もうすぐ目を覚ますよな?」
「大丈夫だ。薬を置いておくから、目が覚めたら飲ませてやれ」
「わかった。ありがとうな、おっさん」
「おっさんじゃない。おれは医者だ」
「イシャ……イシャは、カゼが治せるのか」
「それが仕事だからな。……それにしてもあんた、変わってるなあ。そっちの目はなんだ、怪我でもしてるのか? 何なら診てやろうか?」
 わたしはぎくりとしたけれど、彼は意外にも落ち着き払った声で答えた。
「いや、いい。……ありがとう」
 椅子がぎしりときしむ音。誰かが立ち上がったらしい。たぶん、医者の方だろう。彼が――ジゼルが医者を呼んでくれたのだろうか? 風邪のことも知らない彼が?
「そろそろおれは帰るが……あんたはここでこの子が起きるまで待ってるのか?」
「ああ」
「そうか。あんた、よっぽどこの子が心配なんだな」
「……そうだな」
 彼の低い声。
「こいつがいないと駄目なんだ。おれ」
 ――何を言っているんだろう、この男は。わたしはかっと頬が熱くなるのを感じた。ふたりとも気付きませんように……。
「じゃあなおさら、大事にしてやらんとな。……また何かあったら診療所の方に寄ってくれ。場所はこの宿の女将(おかみ)に聞けば教えてくれるはずだ」
「あ……えっと、お金は?」
「後でいい。女将に言ってつけておくから、宿代と一緒に払ってくれ」
「わかった」
「じゃあな」
 扉が音を立てて開き、閉じる。部屋の中からひとつ、気配が消えた。後に残ったのは――わたしが良く知っている気配。
「…………」
 大きなため息。
「フレデリカ」
 つぶやかれた自分の名前に思わず返事をしそうになったけれど、何故か声が出なかった。いつになく真剣な彼の声の響きに、胸の鼓動が早鐘を打つ。
「お前、疲れてたのか? ……無理、してたのか?」
 そんなことはない。無理などしていない。
「カゼ……引くくらい、つらかったのか?」
 人間、風邪を引く時は引く。きっと彼はそんなことも知らないのだろう。不老不死のままひとりきりで城にいた魔王――もしかして、風邪を大層な病気と思い込んでいるのではないだろうか。だとしたら、さすがに気の毒ではある。
「…………」
 うっすらと目を開けてみると、ジゼルはわたしに背を向けて立っていた。
「ジゼル」
 名を呼ぶと、彼は弾かれたように振り向いた。金色(こんじき)の片目は、以前わたしが買った眼帯で隠されている。もったいないな、と思った。あの金色はとてもきれいなのに……。
「フレデリカ、大丈夫か?!」
 駆け寄ってくる彼に軽く手を振ってみせて、わたしはベッドの上に置き上がった。
「大丈夫よ。……風邪のひとつやふたつ、たいしたことないわ」
 乾いた喉が不快で首に手をあてると、彼はすぐに水を注いだグラスを差し出してくれた。
「でもお前、いきなり倒れて……体もすごく熱かったし、びっくりしたんだぞ」
「いい勉強になったじゃない。風邪と医者、覚えたでしょ?」
「…………」
 軽口をたたくわたしをじっと見つめる、その眼差しはひどく真剣だった――わたしが思わずうろたえて目を伏せてしまうくらいに。
「どうしたのよ、そんなにびっくりしたの?」
「――ああ。びっくりしたよ」
 彼は手をぽん、とわたしの頭に乗せた。
「お前が何もしゃべらなくて、ただじっと目を閉じていて……このまま起きなかったらどうしようかと思った」
 彼の指先が小さく震えている。わたしはびっくりして、ただ彼の言葉に耳を傾けていた。
「魔術でどうにかしようとしたけど、お前に何が起こってるのかわからなくて……おれは何もできなくて」
 顔を上げると、ジゼルはやわらかくかなしく、微笑んでいた。いつの間にか夕暮れ時になっていて、窓から差し込む赤い夕日が彼の輪郭をぼうっと浮かび上がらせている。
「すっげえ、怖かった」
「…………」
 わたしは、わたしの頭に触れていない方のジゼルの手をそっと取った。
「心配掛けて、ごめんなさい」
「別に、お前のせいじゃ……」
「それから」
 大きな手を、両手で包み込むように握る。
「ありがとう」
「…………」
 彼はぽかんと口を開けて――そして夕焼けに負けないくらい真っ赤になった。
「べ、別におれは何も」
「医者、呼んでくれたんでしょ?」
 ジゼルが不思議そうに首を傾げた。
「……何でお前がそれを知ってるんだ? 医者が帰ったのはお前が起きる前だぞ?」
「…………」
 しまった。それに気付いた時にはもう遅かった。ジゼルは真っ赤な顔のままわたしに詰め寄って来る。
「お前! 一体いつから目覚ましてた?!」
「や、やー寝起きでぼんやりしてたからわかんないわー。何にも覚えてないし」
 ここはしらをきり通すしかない。わたしはしらじらしく答えて笑った。
「ほ、本当か?! 本当に覚えてないのか?!」
「ええ、本当。……そういえば、どうやって医者を探したの? あなた、医者って言葉も知らなかったんじゃないの?」
「女将に聞いたんだ。連れが倒れた、どうすればいいって」
「……そう」
 きっとその時の彼は相当に慌てていたことだろう。わたしを心配して必死になってくれたのだと思うと悪い気はしない。どこかくすぐったいような心地で、わたしはくすりと笑った。
「あ、そうだ」
 ジゼルは何かを思い出したようにサイドボードの上にあったものを取ってきた。
「これ、医者が置いていった薬。飲んでおけってさ」
「ありがと」
 白い小粒のそれを水で飲み下すわたしを、ジゼルはじっと見つめている。ふたりになって眼帯が外され、金色の瞳があらわになっていた。鋭く、あたたかく、輝く瞳。
「な、何?」
 その視線に落ち着かない気分になって尋ねると、彼はいや、と笑ってみせた。
「倒れた時のお前を見て、人間って何て弱いんだろうって……脆いんだろうって思ったんだ。あっという間にいなくなっちまいそうで、怖いって。――でもほんの数時間眠っただけで、お前はもうこんなに元気になってる」
 そう言う彼は本当に嬉しそうで、まるで子供のように純粋な笑顔を浮かべている。
「人間って、脆いけど、強いんだな」
「……そうね」
 わたしはグラスを手にしたまま微笑んだ。
「弱くて、強いから……だからきっと、ひとりじゃ駄目なのよ」
 弱ったときには誰かに頼り、余った分の強さで誰かを助ける――そういう生き物なのだ、人間は。
「あなたも、ね」
「…………」
 ――こいつがいないと駄目なんだ。おれ。
 魔王の声が耳に蘇る。わたしは口には出さずに応えた――きっと、それはわたしも同じなのよ。ジゼル。

 翌朝、すっかり良くなって階下に降りたわたしはいきなり女将さんに捕まっていた。
「いやあお嬢ちゃん、今日は起きられて良かったねえ。あの兄ちゃん真っ青になって大騒ぎして、本当、大変だったんだから」
「あ……そ、そうですか……」
「お嬢ちゃん、愛されてるねえ。あたしも若い頃を思い出すわ」
「い、いや、そういうんじゃなくてですね……」
 女将さんは頬に手をあててうっとりしていたかと思うと、人の話も聞かずに突然商売人の顔に戻った。
「ところでおふたりさん、今シングルをふたつ取ってるけど、何ならダブルに変えるかい? 今なら空室があるんだよ」
「い、いえ、もう今日には出ますので……」
「そうかい? まだ病みあがりだし、ゆっくりしていった方がいいと思うよ。またお嬢ちゃんが倒れたら兄ちゃんが心配するからねえ」
「だ、大丈夫ですから! ご心配お掛けしました!」
 引きつった笑顔で答え、わたしは逃げるように階段を駆け上った。これはもう、恥ずかしくっていられたもんじゃない。荷物をまとめ、隣の部屋に急ぐ。
「ジゼル、起きろー! 起きなさいってば!!」
 ドアを叩くこと十数回。ジゼルがのそりと顔を覗かせた。金色の瞳も今は眠たげに曇っている。
「あー、おはよ……」
「おはよう、じゃないいいい!! あんたってやつは、あんたってやつはあああああ!!」
 ――寝ぼけまなこの彼を引きずり、わたしがすぐにその宿を出たことは言うまでもない。