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魔王様とわたし。11

「どうか、私と結婚を前提とした交際をしてください」
「…………」
 満天の星空の下。涼しい風の吹くバルコニーに、ふたりきり。わたしと彼の間には、あまい香りの発泡果実酒が満たされた細いシルエットのグラスがふたつ。
 わたしはまじまじと相手の顔を眺めた。もちろん、眺めていたからといって彼の顔つきが急に変化するわけではない。真剣そのもので瞬きすら忘れた様子の深緑の瞳には、間抜けなわたしの顔が映り込んでいる。
 その、見慣れた顔が、言葉を発した。
「――はあ?」

  × × ×

 話は数日ほど前にさかのぼる。
 わたしは連れとふたりでふらふらと流れ旅をしている魔術師だ。わたしの方はまあ、流れ者にしてはやや年若い女性であるといったこと以外に特にこれといった特徴はないが、連れはというとまず目を引くのが右目を隠す眼帯だろう。遠くからでも目を引く長身で、長い黒髪。皮肉っぽい口元ときつめの目つきのせいで美青年とはいえない顔立ちだが、それでもパーツは整っているのだと思う。実際、旅の途中で彼は何度も女性に声を掛けられていた。ただし、誘いに乗ったのは見たことがない。以前、もしかして男が好きなのか、と聞いたら頭をはたかれたので、違うらしい。
 わたしたちが歩いているのは、最近物騒になったとかいう噂のある街道だ。盗賊だか魔物だかは知らないが、わたしたち――いや、わたしの連れにとっては敵ではない。わたしもまあまあ腕は立つ方だし、特に何も危惧はしていなかった。
 夕暮れ時だった。さすがにまだ街までは距離がある。仕方がない、今日は野宿か――。
「おい」
 連れが不意に、わたしの肩を叩いた。
「何」
 足を止めると、連れがその長い腕を伸ばして前方を指差した。
「煙だ」
「え?」
「おれの見るところ」
 連れは露わな左目を薄くすがめた。この男、片目であっても妙に目がいいのである。
「馬車が夜盗に襲われている」
「なっ」
 わたしは息を呑んだ。
「ちょっと! そういうことは早く言いなさいよ」
「助けるか?」
「あったりまえでしょ!」
 わたしは連れを――ジゼルを引っ張って駆け出しながら、魔術を編んだ。
「あの馬車の人たちが明日化けて出て来たら、祟られるのはわたしたちよ!」
 ジゼルがぼそりと「素直じゃないなあ、おひとよし」なんてつぶやくのを無視して、わたしたちは馬車に群がる夜盗の群れの中に飛び込んだ。
 ――そこから先の展開は、記すまでもないだろう。数十秒後、その場に立っているのはわたしとジゼルだけだった。馬車の幌には火がつけられたらしく煙があがっていたが、それも消し止められている。ジゼルだろうか。多分、わたしが相手をした夜盗の数倍は倒していたと思うのだけれど。
 ジゼルは強い。当たり前だ、彼は伝説の「魔王」なのだから。冗談ではない。彼の右目――黄金の瞳が、その証である。
 わたしは抜身だった剣をおさめ、馬車の中を覗き込んだ。立派な馬車である。これはちょっとした小国の王侯貴族レベルじゃないかしら、とわたしは思った。意地汚い話で恐縮だが、礼金にも期待がのぞめるというものである。
「あのー、大丈夫ですか? 盗賊はもういませんよ?」
「き、君が?」
 馬車の中で小さくなっていた数名の人間のうち、ひとりがばっと顔を上げた。それと同時に、ひとりを奥へと追いやり、他の人間で守るように覆い隠す。その人間がきっと彼らの主君なのだろう。まあ、妥当な警戒だとわたしは思う。
「わたしと、もうひとりよ。連れがいるの」
「……助けてくれたのか」
 奥の方から、声がした。
「名を聞かせてほしい」
「……わたしはフレデリカ・メルノー。連れはジゼル。通りすがりの旅人よ」
「助かった。礼を言う」
 馬車の奥から従者らをかき分けて姿を見せたのは――。
「私はシヴィルア国の第二王子。サルファ・ノエ・シヴィルアだ」
 アンバー色の巻き毛をゆるく結わえた、若い男だった。見た目はジゼルと同い年くらいに見える。まあ、実際のところジゼルの年齢など私にはわからないのだが。
「……お、おうじ?」
 わたしは呆気にとられて目を瞬く。王子の割に護衛が少ないんじゃないだろうか、とも思ったが、お忍びの旅か何かだったのかもしれない。そもそもこの街道はシヴィルアに続く道である。シヴィルアは小国だが平和で栄えており、滞在を楽しみにしていたのだけれど……。
「礼をしたい。連れの方も一緒に、どうぞ乗ってくれ!」
 その王子様は差し出してもいないわたしの手を握りしめ、澄んだ瞳でわたしを見つめてにっこりと笑った。何となく、こちらが気後れがしそうになるくらいにきらきらした笑みだった。――育ちがいいひとって、こういうものなのかしら。わたしはそう思いながらも、彼の申し出を断ることもできずに曖昧に頷いて見せていた。

 サルファのたっての望みで、わたしとジゼルはシヴィルア国の王宮に滞在することになった。王子の命の恩人、というわけで、最大級のもてなしを受けている。わたしはどうもこういう扱いは落ち着かないのだが、ジゼルは「いいんじゃねえの?」とばかりに悠々としていた。こんな時に王者の風格を漂わせてどうする。
「まあ、いつまでいるかが問題だけどな……」
「そうねえ」
 毎食毎食これでもかというほどのご馳走責めである。太ったかもしれない。茶化したわたしに、不意にジゼルの手が伸びた。
「ふぁっ?!」
「? そうでもないんじゃないか」
 腹や腰回りをぺたぺたと触り、ジゼルは平然と言う。背の低いわたしのために彼は身をかがめていて、まるで彼の腕の中にすっぽりと包みこまれたような姿勢だった。顔も、近い。
「…………!!」
 こいつのこういうデリカシーのなさは、ほんとうにどうにかした方がいい。わたしは辺りにあった分厚い本の角で思い切り彼の頭を殴りつけた。
「……ったく」
 うずくまるジゼルを放置して、わたしは部屋から出る。サルファは王宮の離れ、ワンフロアをまるまるわたしたちに使わせてくれていて、わたしは中庭の見えるテラスへと足を進めた。
 まあ、平和な国の余裕、といったところなのかもしれない。わたしは意地悪くそう思う。サルファは考えもしていないのだ――たとえば夜盗とわたしたちがグルで、王宮内部に入り込むためにこういう作戦をとったんじゃないか、とか。そこまでではないとしても、礼金目当てじゃないだろうか、とか。王宮のものを持ち出されるんじゃないか、とか。スパイじゃないか、とか。疑い始めればきりがないのに、誰も何も疑っていない。もしくは一見、そう見える。後者であればなかなかのものだが、前者だとすれば――少々おバカである。
「フレデリカさん!」
 背後からの声に、わたしは振り向いた。サルファだ。ここのところ毎日現れる。どうやら、あの日は他国に使節団として行った帰りだったらしい。当然護衛もつけていたのだが夜盗の大集団にあっけなく散らされ、あわや間一髪――というところでわたしたちが現れたのだとか。
 サルファは護衛も連れずにわたしのところにやってきて、にこにこしている。
「また、旅の話を聞かせてください!」
 シヴィルア国は大陸の北東に位置する国である。彼は特に西方に興味があるようで、いろいろとわたしの話を聞きたがった。
 サルファは王家の人間にふさわしく博識で、物腰やわらかく優しく、しかも誰もが認める美形である。人間、不公平よね、などとわたしはぼんやり思うのだった。
「あの、一度言っておきたかったんですけれど、サルファ殿下」
「サルファで良いよ。それに、敬語も必要ない」
 良かったら、フレデリカって呼ばせて。そう言う彼に、わたしは苦笑した。
「……じゃあ、サルファ。よそもののところに、ひとりで来ない方がいい。危ないわよ」
「危ない? きみが?」
「わたしの素性なんて良く知らないでしょ? 敵国のスパイかもしれないじゃない」
「私の心配をしてくれるんだ? ありがとう」
「や、そうじゃなくって――……」
 わたしは参って頭を掻いた。
「まあ、いいけど」
「ん?」
 サルファのきらきらとした眼差しが、まぶしい。
「あの、サルファ」
 わたしはそれから目を伏せるようにして口を開いた。
「なんだい?」
「わたしたち、旅の途中だから……その、そろそろ……ね」
 その言葉を口にすると、サルファの顔はみるみる曇った。
「そう……目的地があるの? じゃあ、帰りにまた寄ってくれる?」
「あー……そういうわけじゃないんだけどね」
 また立ち寄れるかどうか、約束はできない。わたしたちの旅には目的も何もないから。言ってみれば、旅をすることそのものが目的のようなものなのだ。
 サルファは目を見開いた。
「どうして旅をし続けなければいけないの?」
「えっと……いや」
「何かから、逃げているの?」
 その質問は、ちょっと――鋭かった。逃げているつもりはない。けれど、もしかすると――。わたしの動揺を、サルファは見逃してくれただろうか。
「あの、君の連れの人のことだけど」
「ジゼル? 彼がどうかした?」
 サルファは珍しく口ごもる。
「君たちってその……恋人とか、その、そういうんじゃないよね?」
「は?」
 わたしはぽかんと口を開けた。
「ち、違うけど?!」
「ふうん」
 サルファは形の良い顎に軽く手を当てた。
「あのひと……少し、普通じゃない感じがするんだけどな」
 サルファのつぶやきに、今度こそわたしの表情は強張った。それは――彼の言うとおり、だ。何しろジゼルは「魔王」なのである。我々の間に伝わっている伝説と、真実とは多少違うものではあるが、それでも彼が人間には到底敵わない存在――絶対的に強大な存在であることは間違いない。彼がどこかひとつの国に、もしくは個人にでも(くだ)れば、その瞬間歴史は大きく形を変えるだろう。そのことがわかっているからこそ、わたしは旅を続けずにはいられないのである。
 誰もわたしたちを追ってはいない。そう思っているのに、わたしはいつも後ろを振り返り振り返り歩いているような気がする。誰かがジゼルを追っているのではないか、いつか捕まってしまうのではないか。事実、別の国でジゼルは捕まえられたこともあったわけだけど、物理的には彼を捕えることなどできはしない。もしあり得るとするならば、それはきっと、精神的な――。
「じゃあ、ふたりは本当にただの旅の連れなんだよね?」
「え、ええ」
 サルファの問いに、わたしは頷いた。良かった、とサルファが顔を綻ばせる。
「今夜、パーティがあるから。来てよ」
「わたし? ジゼルも?」
「きみには来てほしいな。ジゼル――さんだっけ、彼も来てくれるなら、喜んで」
 サルファはジゼルを警戒はしているようだけれど、やはり彼も命の恩人として礼を尽くしたいようだった。
「ドレスや礼服は、サイズ違いをいろいろ用意しておくから、合うものを着るといい」
「別にそこまで――」
「させてほしいな」
 サルファがふ、と微笑んだ。その微笑みに、らしくなく私の顔に血が上る。
 サルファのほっそりとした手がわたしの手をとらえ、唇を手の甲に寄せた。
「――あ」
 一瞬、サルファの視線が指輪をとらえたことに、わたしは気付かなかったふりをした。

  × × ×

 そして、話は戻る。
 わたしはできるだけ地味な濃紺のドレスに身を包み、大広間の端の方でちびちびと甘いお酒を飲んでいた。ジゼルは――来なかった。
「おれはいい。気を付けて、楽しんで来いよ」
 そう言った時の彼の表情を、何故かわたしは思い出せない。
「フレデリカ」
 パーティが始まってしばらくしたころ、サルファがわたしの前にあらわれた。少し離れたところに佇み、わたしをじっと見つめる。
「良く似合うね。きれいだ」
「……ど、どうも」
 しどろもどろになるわたしにふ、と柔らかな笑みを投げ、サルファはわたしの腕をとった。
「少し、話をしよう」

 ――その話がまさか、「結婚を前提にしたお付き合い」なんてことになるとは、わたしは思ってもみなかったのだけれど。
 
「え、ちょっと待って」
 わたしはサルファから一歩離れた。彼は――真顔である。冗談を言っているようには見えなかった。
「何言ってるの? 一国の王子がこんな、流れの魔術師ふぜいに」
「そんなこと関係ないよ」
 サルファはあくまで、まっすぐだった。
「最初、君を見た瞬間惹かれた。それは事実だよ。君とこの数日、何度か話をして――どんどん好きになったんだ。きみの強さも、ふとしたときに見せる影のある表情も、とても素敵だ」
 ――だから、ずっと傍にいてほしいと思った。
 顔が熱い。わたしは胸の中で何これ、何なのこれは、とつぶやき続けていた。旅の途中で出会った美青年が実は王子さまで、しかも見初められて結婚を申し込まれるって? 今日び吟遊詩人のネタにもならないようなベタベタな展開である。
 サルファは真剣だ。それが何よりたちが悪い。
「きみは? きみは私を、どう思っているの」
「ど、どうって……」
 わからない。それが正直なところだった。サルファはシヴィルアの王子様。ただそれだけの認識だったのだ。自分の人生とは今この瞬間、一点でしか交わらないものだと、そう思っていたから。それ以上の感情を持つ必要などないと。
「もし、もっと世界を見たいのなら」
 サルファは一歩、わたしに近付いてくる。
「私と一緒に旅をしよう? 私は第二王子だ、王位継承の必要もない。私はきみと一緒にいろんなものが見たい」
「…………」
 わたしは俯いた。――お伽話だったら、絶対にここでハッピーエンドになる場面だ。サルファはいいひとだと思うし、このままあてのない旅を続けるよりもシヴィルア国に落ち着いた方が絶対にしあわせになれる。
 しあわせに?
 わたしのしあわせって、何だろう。わたしは今、しあわせではないとでもいうのだろうか。
 それに――わたしが旅を辞めたら、ジゼルは。彼はどうなる。金勘定もできない、地図も読めないへっぽこ魔王をひとり、わたしはこの世界に放り出すのか。
 彼をこの世界に連れ出したのは、わたしだというのに。
「フレデリカ?」
「……ごめんなさい」
 わたしはぼそぼそと言った。
「わたし――本当に、ごめんなさい」
「あの、ジゼルって人のことを気にしているの?」
 サルファはぽつりと言った。
「それなら心配しなくていいよ――今日、きみとここで話をする前、私は彼と話をしてきたから」
「え……」
 わたしは思わず顔を上げる。サルファは変わらず穏やかで、優しい顔をしていた。
「きみに求婚するつもりだ、と言ったらね。彼はひどく驚いていたけれど、でも決して嫌がってはいなかった。『あんた、いいひとそうだもんな。幸せにしてやってくれ』って。『おれにはそんなことをいう権利も義理もないけど――それでも、あいつには幸せになってほしいって願うくらいの情はあるから』」
「…………」
 わたしは――わたしは、サルファにそう告げた時のジゼルの表情をありありと思い浮かべることができた。説明はできない。ただ、きっとわたしはそういうときの彼の顔を知っている。それだけだ。それだけ、なのに……。
「…………っ」
「フレデリカ?!」
 不意にぽろぽろと涙をこぼし始めたわたしに、サルファは慌てたようだった。
「ごめん……驚かせた? ごめん」
「ち、違うの」
 わたしは馬鹿みたいに泣きながら、首を左右に振った。
「サルファ、は……悪くない。ごめんなさい……で、でも」
 わたしは、やっぱり。
「ここには、いられないわ」
 はっきりとそう答え、わたしはじっとサルファを見つめた。その姿は、涙でゆらゆらと滲んでみえる。
「わたしは……だめ」
 ここじゃ、だめ。あなたじゃー―だめ。
「フレデリカ……」
 サルファは寂しそうに肩を落とした。
「そう。……残念だよ」
「ごめんなさい……」
 わたしはばかだ。王子様を振って。本当にばかだ。
「気が変わったら、いつでも来て」
 サルファはわたしの髪に小さくくちづけた。
「変わらないと思う……」
「はは、そうか」
 身もふたもない返答をするわたしに、サルファは少し困ったような眼差しを向ける。
「それにしても、きみたちって」
 ――きみたち?
「似た者同士だね」
 何のこと? そう尋ねる前に、サルファはわたしの涙をハンカチで拭ってくれ、「そろそろ体が冷えるから」と広間に戻してくれた。
 サルファが離れると、わたしはすぐに広間を抜け出した。――あの、大馬鹿魔王をぶん殴るために。

  × × ×

 ジゼルの部屋をノックすると、「入れよ」とのんびりした声が返ってきた。わたしはドレスの裾を持ち上げ、かつかつと部屋の中に入っていく。
「おお、すごい格好だなフレデ……あ?」
 酒の飲めないこの魔王は、どうやらソファに座ってフルーツジュースを飲んでいたらしい。わたしの顔を見上げた彼は、慌てたように腰を浮かせた。
「どうした? なんかあったか? 目が……」
 目が腫れている、とでも言いたいのだろうか。わたしはかっとしてジゼルに手を伸ばした。右目の眼帯をむしりとり、床に放り投げる。現れた右目はいつも通り黄金の輝きを放っていて、そうして茫然とわたしを見上げていた。
「あン……ったねえ!」
 膝で彼の上に乗りあげ、襟首をつかみあげる。
「勝手なこと言ってんじゃないわよ?! なあにが『幸せにしてやってくれ』よ! そんなこと頼んだ覚えないでしょ!!」
「あ、ああ」
 ジゼルはわたしに締め上げられながらも慌てた様子を見せなかった。
「あれね。けどさ、物好きもいたもんだよなあおまえと結婚したいなんて」
「今そんなことはどうでもいいのよ!」
 がくがくとジゼルを揺らす。舌でも噛んでしまえ、と思った。
「なあ」
 ジゼルはわたしに揺すぶられながら、ゆっくりと尋ねる。
「おまえ、何で怒ってるんだ?」
「なっ……!」
「何で、っていうか、何に、か?」
 思わずわたしの手は緩む。ジゼルは自分の膝に乗り掛かっているわたしを静かに見上げた。
「王子様が気に食わなきゃ、断ればいいじゃねえか。気に入ったなら、めでたしめでたしだ。なあ? 別に何にも怒ることなんてないだろうが」
 それとも王子に何かされたか? その問いには、わたしは慌てて首を左右に振った。
「なら、怒ることないだろう」
「……でも」
 勢いをくじかれたはしたが、それでも胸には怒りが燻っている。
「あんたは、どうするのよ」
「おれ?」
「そうよ。わたしがもしここにいることになったら、あんたはどうするの?」
「あー……ああ、おれね」
 ジゼルは曖昧な笑みを浮かべた。
「おれの心配をして、断ってきたのか?」
「ち、違うわよ。そういうわけじゃない。けど……」
 ――あんたを連れ出したのは、わたしなのに。あんたを放り出すなんて、そんなの……。
「同情は要らない」
 ジゼルはきっぱりと言い、わたしははじかれたように顔を上げた。ジゼルの金色の右目が、冷ややかで、それでいて熱いような、不思議な光を放っている。
「おまえはおれの飼い主じゃない。そうだろう? おまえはおまえの人生を考えろ。おれもおれで考えるから」
「……で、でも」
「おまえは優しいからなあ」
 ジゼルは困ったように笑って、わたしの頭を撫でた。
「だいじょうぶだよ。おれは、ひとりでだって生きていける。そのために必要なものは、ちゃんとおまえからもらったから」
「…………」
 わたし、何もあげてなんてない。そういうわたしに、ジゼルは違う、と言った。
「おまえが教えてくれたんだよ。この世界のきれいなところ――きたないところ――ひっくるめて、それでも、やっぱりこの世界は、いとおしいものだって」
「…………」
「だから、おれは」
 止まっていた涙が、また溢れ出す。ジゼルは指先で拭ってくれたが、それでも涙は止めどなく零れていく。
「泣くなよ」
「……だ、誰のせいだと」
「おれか?」
 ジゼルはふ、と笑って、そしてわたしの腰に腕を回した。彼の膝の上に乗りあげていたわたしは、そのまま彼にぴたりと密着する。ジゼルは少しだけ背を伸ばすようにして、わたしのぐちゃぐちゃになった顔の、その涙の筋をそうっとその唇で追った。
「おまえはばかだなあ、フレデリカ」
「だ、だれが」
 馬鹿魔王に言われたくない。彼の肩を掴んでそう抗議するが、ジゼルは笑ってわたしを抱く力を強めただけだった。
「そう、何度も機会があると思うなよ?」
「え……」
「忘れるな。おれは魔王だ」
 至近距離で見つめた、黒と金の一対の眼差し。
「おれが本当は、どれだけ……」
 そこまで言って、彼は口をつぐむ。
「ど、どれだけ? 何なの?」
 今になって果実酒が廻ってきたのか。わたしはぼうっと彼を見つめる。ジゼルはいや、と首を振った。
「まだ、旅をしたいんだろう? おれと」
 わたしはためらいがちに、小さくうなずく。ジゼルは目を細めた。
「それがお前の望みなら」
 まるで誓いのように――祈りのように――宣告のように。
「フレデリカ」
 からだが熱い。
「ジゼル」
 もう、自分が何故泣いているのかもわからない。ジゼルはわたしをあやすように揺らしながら、目元に、頬に、まるで幼子にするようなキスをくれた。
「おまえは、ほんとうに――」
 唐突な睡魔が、わたしを襲う。それと同時に、唇に触れたやわらかいもの。
 わたしはその心地よい何かに身を任せ、深い眠りに落ちていった。

  × × ×

 目が覚めて、わたしは戸惑った。――ここ、どこ?
「……う」
 しかも頭が割れそうに痛い。
「おはよ」
 不意に覗き込まれ、わたしは小さく悲鳴を上げた。
「お前ね、ひとの部屋でぐーすか寝ておいて……」
「え?」
 わたしは体を起こしたが、ひどい頭痛とめまいに襲われてもう一度ベッドに倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か?」
 見下ろしてくるのは――。
「じ、ジゼル」
「ん?」
「わたし、昨日ここで寝ちゃったの?」
「飲み過ぎたんだろう」
 平然とした返事。わたしは眉をひそめた。
「……あんたは、どこで寝たの?」
 ジゼルはにやり、と嫌な笑い方をした。吐息が触れるほど、顔を近づけてくる。
「知りたい?」
「……い、いい」
「遠慮するなよ」
「いえ、結構です」
 そもそもジゼルは今わたしの隣に腰を下ろしているのである。このベッドは広いし、ジゼルが遠慮して狭いソファで寝てくれたとも考えにくい。この男には前科もある。いくらわたしが小娘だからといって、隣で寝るのは正直勘弁してほしい。
 体調さえ良ければジゼルをふっとばすところなのだが――いや、いくらなんでも王宮でそれはまずいか。ぐるぐると考えるわたしをよそに、ジゼルはくすくすと笑った。
「大丈夫だ、何もしてない」
「当たり前でしょ?! 何かしたら殺すわよ?!」
「みすみす殺されはしねえよ?」
 ジゼルの指先が、わたしの腫れた瞼を撫でる。
 ジゼルはわたしの髪のひと房を手に取り、口元に押し当てた。
「――あの野郎」
「な、何?」
「なあ、いつ出発する?」
 髪を離し、ジゼルはゆっくりとわたしを起こしてくれた。
「今日は、無理……」
「そうだな」
 肩に腕を回し、ジゼルはわたしの顔を覗き込む。
「今日はゆっくりして、明日にするか?」
「……そうね」
「わかった。じゃあ、サルファにはそう伝えておいてやる」
「……うん」
 昨日の今日では顔を合わせづらいし。ぼんやりとそう考えるわたしの髪をくしゃりと撫で、ジゼルは先にベッドから降りた。
「もう少し寝ていてもいいぞ」
「うん……」
 もそもそとベッドにもぐりこむ。懐かしくて、あたたかな匂いがした。
「おやすみ、フレデリカ」
 額に触れたやさしい感触。わたしは安心して、ふっと目を閉じた。
 
 
  × × ×
 
 
 テラスに、風が吹き抜ける。
「最初からあなたは、彼女が断ると思っていたのでは?」
「そんなことはない」
 そこに、二人の男が相対していた。ひとりはアンバー色の髪に深緑の瞳。ひとりは長い黒髪で、右目は眼帯で覆われている。
「もし、私の申し出に彼女が頷いていたら、貴方はどうするつもりだったのですか」
 その問いに、もうひとりの黒い男は静かに笑った。
「さあな」
「…………」
「おまえは、あいつのために国を滅ぼせるか」
 ぽつり、と男は言う。
「おれは――あいつのためなら世界も滅ぼせる。……そういうことだ」
「…………」
 黒い男が立ち去るその後ろ姿を、彼は――サルファは額に汗を浮かべ、ただじっと見送っていた。

 サルファ・ノエ・シヴィルア。
 後に兄の病死によってシヴィルア国王となるその男は、己が魔王と邂逅した等とは知らぬままであった。