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EX.1 おまえの血は美味すぎる・1

「おい」
 不意に肩の上に重いものが乗って、わたしは手にしていたスマートフォンを放り出した。きれいな放物線を描いたそれは、狭い部屋の中で一番の面積を占めているベッドの上に落ちた。良かった、賃貸のフローリングに傷をつけないで済んで。
「どうした?」
「ど、どどどどうしたじゃないわよ」
 重さの原因――わたしの顔のすぐ横にある銀髪紫眼の男の頭をぐいぐいと押しやろうとして、二本の長い腕に阻まれた。絡みついてくるそれらに、わたしはじたばたともがきながら抗議する。
「あのねえ、急に現れるの辞めてよ。慣れないから」
「ずっと背後にいたんだが?」
「へ?」
 振り返るわたしに、彼――レヴィはやれやれと肩をすくめて見せた。
「何度か声を掛けたがスマートフォンに夢中で気付かないようだったから、仕方なくああやったんだ。それなのにひどいな、顔を思い切り押された」
「うっ……」
「痛かったぞ」
「そんなに痛くなかったでしょ……」
 小声で言い返すが、それは逆効果だった。
「加害者が被害者を貶めるのか? ますますひどいな。傷つくな。これは埋め合わせが必要だな」
 言葉とは裏腹に、レヴィはにんまりとした笑みを浮かべてわたしの首筋に顔を埋めた。
――そして、低い艶やかな美声でとんでもないことをつぶやく。
「ああ、美味そうだ……」
 彼はそのとがった犬歯をつぷりとわたしの肌に突き立て、それから間もなくわたしは気を失ったのだった。

 わたしが彼、レヴィと出会ったのは約半年前のことだ。夜道でいきなり襲われ――といっても彼は別に変質者だとか強盗だとか、そういうものではない。人間ですらない。
 吸血鬼である。
 本当だ。被害者であるわたしが言うのだから間違いない。
 その吸血鬼、無断でわたしの血を吸った挙げ句に「血が不味い」とほざいてうちに居候を決め込み、せっせとわたしの滋養強壮に勤しむようになったのである。別に慈善事業ではない。家畜を肥え太らせるために上質な餌を与えるようなもので――いや、確かにそうだった、はずなのだが。
「ん……んん」
「目が覚めたか」
 わたしはぼんやりとした視線を声の主に投げた。
 いつもの通り、ベッドに寝かされたわたしの足は高く上げられていて、目を覚ましたわたしの前にはストローの刺さった清涼飲料水のペットボトルが差し出されている。
 吸血した相手の世話をこれほど焼く吸血鬼というのは……数多ある吸血鬼もののフィクションの中でもあまり見ないように思う。そもそも、吸血鬼に血を吸われると吸血鬼になってしまう、というのが定番だ。レヴィに言わせれば「そんなことで吸血鬼が増えたら世の中吸血鬼だらけになるだろう」だそうで、非現実的な存在である吸血鬼にそんな現実的なことを言われても困る。
 わたしはうっすらと汗をかいていたらしい。高級そうなハンカチでわたしの額や首筋を拭いつつ、レヴィはわたしの放り投げたスマートフォンに視線を落としていた。
「何勝手に見てんの」
 弱々しい声で抗議すると、レヴィはちらとわたしを見遣った。
「なんだ。何か後ろめたいことでもあるのか?」
 後ろめたいこと? レヴィは何のことを言っているのだろう。わたしは首を横に振った。
「そんなのないけど」
 それを聞いたレヴィは口の端をつり上げる。
「じゃあ別にいいだろ」
「ええ……」
 面倒くさくなって口をつぐむ。何度血を吸われても、この後の脱力感や倦怠感には慣れない。心地よい疲労感、とは断じて違う。断じて。
 わたしはごろりと寝返りを打ってレヴィの膝に頭を埋めた。彼は無言でわたしの髪を撫でる。彼のひんやりとした指は心地よかった。
 レヴィが苦笑交じりにつぶやいた。
「血液クレンズ……ねえ?」
「あー」
 それはさっきわたしが読んでいたネットニュースだった。何でも、いくつかの美容クリニックでは本人の血を抜いて、オゾンやら何やらで処理し、その血を点滴で体内に戻す、という施術が行われているらしい。それを巡って、インチキだのトンデモだの、そんなことないだの、賛否両論の議論が巻き起こっているらしいのだ。
 ついつい「血」の関わるトピックには目が行くようになってしまった……それもこれもレヴィのせいである。
 わたしは元凶に尋ねてみることにいた。
「どう? オゾン処理した血って美味しそう?」
「さあな、試したことはないが……」
 レヴィはスマートフォンをわたしに返してくれた。――まさかこの吸血鬼、わたしが記事に熱中していて彼の声に気付かなかったことに拗ねて、血を吸ったのだろうか。ひどい拗ね方もあったものである。
「本来の意味での血液浄化療法っていうのはいわゆる人工透析やら血漿交換のことで、そっちは歴とした医療行為だ。オゾンを混ぜたくらいで血が浄化クレンズされるとは思えんがなあ」
「でもさ、オゾンを混ぜると血液がきれいな赤色になるんだって」
「別に血の味は色で決まってるわけじゃないんだが……そもそも」
 レヴィはわたしを怪訝そうな表情で見た。
「おまえ、何故オゾンを混ぜて血が鮮やかな赤色になるかわかっているのか」
「え? オゾンの効果でしょ?」
「…………」
 レヴィは深々とため息をつきながら横になっていたわたしを抱き起こした。
「動脈血と静脈血の違いは?」
「えっ……と」
わたしは頭をフル回転して古い記憶をよみがえらせる。多分、中学校の理科だ。
「動脈血は、酸素が多くて……静脈血は二酸化炭素……あ、あとなんかいろいろ老廃物? みたいなやつ……」
「……まあいいだろう」
 不満そうに頷かれた。
「じゃあ、両者の色は? 違うよな?」
「動脈の方が真っ赤っかで、静脈はちょっと赤黒いんじゃなかったっけ」
「そうだ。おまえたちが病院で採血されるのは静脈血だな」
「レヴィが吸うのは?」
「静脈だ。おまえ、頸動脈に牙で穴なんか開けてみろ、塞がらずにびゅーびゅー血が噴き出して失血死するぞ」
「そうなの?!」
「そうだ。動脈は血管内圧が高いからな。こっちだって勢い良すぎて飲みにくくてかなわん。咽せる」
「咽せ……?」
「たまに、下手くそな吸血鬼が間違って頸動脈に牙を突き立てて、相手を殺してしまう事故がある」
「……それって事故、かなー……?」
 殺人事件じゃん。ぞっとしてつぶやくが、レヴィは無視することにしたようだった。
「とにかく。そういう何ちゃらクレンジングで血を採るのは当然静脈からだろう。元々の血の色がどす黒いのは当たり前だ」
「じゃあ、オゾンを混ぜて赤くなるのはどうして?」
「オゾンの化学式は?」
「かがくしき」
 オウム返しに言うわたしに、レヴィはため息をつきつつ教えてくれた。
「O3だな。酸素は? それくらいわかるか?」
「馬鹿にしないでよ。O2でしょ」
 むっとしたわたしが唇をとがらせて答えると、よしよしとばかりに頭をなでられた。……やっぱり馬鹿にされている気がする。
「ふたつは似てるだろ?」
「……そうね」
「オゾンを血液と混ぜると、酸素を混ぜたときと同じような現象が起こる。つまり、酸化ヘモグロビンの割合が増えるんだ。酸化ヘモグロビンは、血液の赤い色の原因。オゾンを混ぜて血液が赤くなるのは当たり前だ」
「えー……」
 そうなんだ、とわたしはつぶやいた。
「じゃあ意味ないんじゃん……」
「おれはむしろ有害だと思う」
 レヴィはあっさりとそう言った。
「まず、わざわざ必要もないのに針を刺して血管を傷つけるリスク」
「…………」
 あんたがそれを言うか。さっきわたしの頸静脈に傷をつけたあんたが。
「滅菌器具を使うとはいえ、血液を体外に出してそれをまた体内に戻すということは感染のリスクがある。血液に細菌が混入したら菌血症、そいつが増殖したら 敗血症まで一直線だ。場合によっちゃあ死ぬ」
 さらに、とレヴィは付け加えた。
「オゾンは強力な酸化剤だ。それを体内に入れることでどんな作用が起こるか……おれも詳しくはないが、いい影響ばかりとはとても考えられない。リスクの方がずっとでかいだろう」
「じゃ、じゃあ何で」
 そんなヤバいことを病院や医者がやるのだろう。
「そりゃもっともな疑問だが、答えは簡単だ」
 レヴィは苦笑した。
「儲かるからさ。自由診療は言い値だからな」
「…………」
 なるほど。わたしは口をつぐみ、ぽとんと頭を彼の肩の上に落とした。
「……なんか、嫌になるね」
 儲かるからって、そんな……インチキみたいなこと。
「世の中そういうものだろ。だが」
 レヴィはわたしの頭をぽんぽんとたたきながら言った。
「みんながみんなインチキ野郎じゃない。おまえの勤め先の病院のスタッフだってそうだろう? いいひとたちがたくさんいて、みんな一生懸命働いている。おまえはいつもそう言っているじゃないか。だから自分も頑張らないとって」
「……そうね」
 レヴィなりにわたしを慰めようとしているらしい。そのことに気付いて、わたしはくすりと笑った。
「美味しい食事を作るのが趣味の吸血鬼もいることだしね?」
「ああ、そのことなんだが」
 レヴィはわたしをひょいと抱えて膝の上に座らせ、真面目な顔で言い出した。
「おまえ、少し肥っただろ? そろそろ運動が必要じゃないかと」
「は?」
「ジョギングなんてどうだ? コーチしてやるぜ」
 朝でもいいんだが、正直おれ朝は弱くてな……いや、吸血鬼伝説に良くある、日光が駄目ってのとは違うんだが、だの何だのごちゃごちゃ言っているレヴィの顎に、わたしは思い切り頭突きを食らわせた。
「いてっ、何するんだよ?!」
「うるさい! ふ、ふふ、肥った?! 肥ったの?! わたし?!」
 確かに、少しジーンズの腹や腿がきつくなったかなとは思っていたが……しばらく体重計にも乗っていないのに、何故レヴィはわたしの体重を把握しているのだ。
「そりゃおまえ」
 レヴィは、にっ、と笑ってわたしの体に両腕を回す。
「こうすればわかるだろ? 抱き心地が良くなっ――」
「う、うるさいうるさい!! 黙れ!! もうあんたのご飯は食べない!!」
「だめだ」
 レヴィは暴れるわたしを腕の中にしっかり封じ込め、耳元にそっとささやいた。
「おまえの血はいつだって、おれにとっては最高のご馳走なんだから」
「……それ、口説き文句のつもりなら頭おかしいからね?!」
 渾身の捨て台詞も笑って受け流し、レヴィはわたしを強く強く抱きしめるのだった。

 その三日後。わたしたちの深夜ジョギングがスタートした。
 お母さん、わたし吸血鬼のおかげでどんどん健康になっていきます……!