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おまえの血は不味すぎる・1

 ――どうも尾けられているような気がする。
 わたしはできる限り足を速めて家路を急ぎながら、背中にじっとりと冷や汗をかいていた。だから駅近の物件が良かったのよ、ああでも予算が、などととりとめのないことが頭をめぐる。今日に限って仕事が長引いてしまったのも良くなかった。このあたりは夜十時を超えると人通りも車通りも極端に減ってしまう。
 耳をそばだてても聞こえるのはわたしの足音だけ。でも、確実に誰かがいる。ぴったりと、つかず離れずわたしの背後に……いや、ふっと生暖かい吐息が、
「ひっ」
 わたしは思わず立ち止まった。足が動かない。膝が震えて――立っていられない。と、何者かの大きな手がわたしの両肩をがしりと掴んだ。叫ばなきゃ、バッグの中には防犯ブザーも入ってるのに、焦るばかりで何もできないわたしの耳元で、低い声が囁いた。
「悪く思うなよ……」
 思うに決まってるでしょうが!!
 心の中で絶叫すると同時、首筋に鋭い痛みを感じて――わたしはふっと意識を失った。

 ……全体的にあんまりぱっとしない人生だったけど、最期の最期にこんなのって。

「ひどい……」
「そりゃこっちの台詞だ」
 うんざりしたような声に、わたしははっと飛び起きた。見慣れたベッドの上。
「あれ、わたし死んでない……?」
 布団をめくり、おそるおそる着衣を確認する――うん、少なくとも明らかな乱れはないし、体に痛みもない。少し頭がぼうっとするけど、多分それは寝不足のせいで……。
「えっ?」
 わたしははたと気が付いた。……「うんざりしたような声」って、誰?
「目が覚めたか」
 その声の持ち主は、ベッドのすぐ側にいた。白髪――とは違う銀色の髪、まるで海外モデルのような外見のその男は、なぜかわたしを恨みがましい目で見つめていたのだった。
「あ、あんた誰?!」
 警察呼ぶよ、と口走ったものの、スマートフォンは手元にない。男はわたしのパニックをよそに、深々とため息をついた。そして、一言。
「おまえの血は、不味過ぎる」
「……は?」
 ぽかんと聞き返すと、男はもう一度繰り返した。
「おまえの血が不味過ぎるって言ってるんだよ……まったく、こっちがせっかく覚悟を決めて人間の生き血を吸ってみたっていうのに、こんなに不味いんじゃあがっかりだ」
「は……?」
 わたしは眉を寄せた。脳内で、恐怖よりも困惑が上回ってしまったようだ。
「何言ってるの……? あんた、頭大丈夫?」
「大丈夫じゃないのはおまえの血の方だぞ」
 貧血気味で栄養不足としか思えない味だった、おまえはまともなもの食べているのか、などと続けざまに言われてわたしはむっとした。
「ちょっと待ってよ、そもそもあんた誰? なんでわたしの家にいるの?」
 男はふっと笑った。細めた目は不思議な――紫がかった色をしている。
「吸血鬼、って知ってるか? ヴァンパイア、ドラキュラと呼ばれることもあるな」
「……はあ」
「それが、おれだ」
「ええっと」
 わたしは頭を抱えた。どうやらちょっと変な人に家に上がり込まれてしまったようだ。丁重にお帰り頂くか、もしくはどうにかして警察を呼んでお引き取り願わなくては。とりあえず話を合わせよう、とわたしは思った。スマートフォンはバッグの中なのだが、それは男の背後のテーブルの上にある。ここからではどうやったって取れはしない。
「その、吸血鬼さんがわたしに何の用?」
「吸血鬼が人間に用があるっていえばひとつしかないだろう」
 男はその妙に鋭い犬歯を指さして見せた。
「血を吸うんだよ」
 じゃあ、とわたしは尋ねる。
「わたしはあんたに血を吸われたってこと?」
「そうだよ。だから不味いってわかるんだろう」
「吸血鬼に血を吸われたひとって、吸血鬼になっちゃうんじゃなかったっけ……」
 ぶつぶつとつぶやいていると、男に鼻で笑われた。
「そんなわけないだろう。おれたちが血を吸ったものがすべて吸血鬼になるんだったら、ネズミ算式に増えてどうしようもなくなるだろうが」
「そういうものなの……?」
「そういうものだ」
 男は自信たっぷりに頷いてみせ、そして、そうだ、と声を上げた。
「どうせおまえ、信じていないんだろう? だったら証拠を見せよう」
 テーブルに立ててあった鏡を取り、わたしに見えるようにして自分をその前に写り込ませる――
「あれ?」
 わたしは目を瞬いた。男の姿は、鏡に映っていない。そしてそれともうひとつ。
 おそるおそるわたしは自分の首筋に手を遣った。指先に触れる、ふたつの小さな傷痕。鏡で見ると、それはまるで噛み跡のようで……。
「少しは信じる気になったか」
 夢だ。こんなのは悪夢だ。そうに決まっている。
 全てを放棄し布団にくるまって寝ようとしたわたしの上から、容赦なく布団がはぎとられる。
「ひどい!」
 覗き込んでくる男は意外に真剣な顔をしていた。
「悪いこと言わないからちゃんとしたもの食べろ。貧血も、続くようなら一度医者に行った方がいいぞ。産婦人科とか」
「余計なお世話!!」
 わたしは跳ね起きて叫んだ。吸血鬼だか何だか知らないが、デリカシーがなさすぎる。
「いいからさっさと出て行って。あんたが吸血鬼だか何だか知らないけど、わたしの血が不味いっていうんならもう用はないでしょ」
「まあ、それもそうなんだが」
 男は全く動じる様子もなく軽く顎を撫でた。
「あまり安易に吸血することは慎むようにというのが我が一族の教えでな」
「何それ」
「あまり目立つ行動をして吸血鬼の実在が明らかになり、人間を敵に回して吸血鬼狩りの機運が高まりでもしたら厄介だろうが。吸血鬼など世界中探してもせいぜい数百名だ。数十億を相手にできるわけがない」
「あ、そう……」
 非現実的な存在が、妙に現実的なことを言う。わたしはだんだん疲れてきた。明日も朝から仕事なのだ、そろそろ寝かせて欲しい。
「というわけで」
 思わず欠伸を噛み殺すわたしに、男はあっさりと言い放った。
「しばらくおれをここに居させろ――おまえの血が美味くなるように力を貸してやる」
「そんな力は要りません!!」
 わたしはベッドの上に立ち上がり叫んだ。
「いいからさっさと出て行って!!」
「何もただで居座ろうというのではないぞ」
 男は懐からごそごそと何かを取り出した――テレビでしか見たことがないような、分厚い札束。
「おまえ、金に困っているんだろう? 冷蔵庫の中身も貧弱だったしな」
「うっ」
「家賃は十分に払ってやる」
 ぺちぺちと札束でわたしの頬を叩きながら、男は――吸血鬼はにんまりと笑う。
「さあ、どうだ?」
「…………」
 ――前職を辞めて半年。何とかアルバイトで食いつないではいるものの、ひとり暮らしを維持するために貯金を切り崩しているのは事実だ。だって、実家には帰れない……仕事を辞めただなんて、言えない。お金は欲しい、すごく。
「……こんな狭い部屋、ふたりで暮らせないよ」
 それでも苦し紛れに反論するわたしに、男はそんなことかと言った。
「さっき不味いながらに食事を摂ったからな――この程度の力は、使える」
 男の姿が忽然と掻き消え、漆黒の毛並みを持つ獣が一匹――黒猫が、座椅子の上にちんまりと円くなった。
『この姿なら、邪魔にはなるまい?』
「…………」
 さっきから、わたしの理解が全く追いつかない。誰か丁寧に説明して欲しい。
 だが、残念ながらこの場にいるのはわたしとこの猫――吸血鬼だけだ。
 わたしは膝の上に置かれた札束を丁重に受け取りながら、猫を見下ろした。
「それで、あんたの名前は?」
『レヴィと呼べ。小嶋(こじま)智紗(ちさ)
「な、なんで」
 わたしの名前を知ってるの。顔を引きつらせるわたしに、猫は自分の手を舐めながらあっさりと言った。
『財布の中を見た』
 気を失ったおまえを連れ帰るにも、住所がわからなければどうにもできないだろうが。
 ――だから、非現実的な存在のくせに時々現実的なことを言うのは本当にやめて欲しい。

 翌朝。全部夢でありますようにと願いながら起きたのだが、残念なことに座椅子の上で黒猫は悠々と眠っていた。そういえばこのアパートはペット禁止なのだけど、構わないのだろうか。
 ばたばたと支度をするわたしを悠然と眺めながら、猫は――レヴィは言う。
『仕事か』
「そうよ!」
『何の仕事だ?』
「あんたには関係ないと思うけど……まあいいわ。カフェの店員」
『カフェの?』
「そ。最近流行ってるでしょ、病院内にカフェを作るやつ。それの、オープニングスタッフなの」
『病院……』
 ――それで昨夜うっすらとおまえから血の匂いがしたのか、などとレヴィは物騒なことを呟いている。
 わたしは買い置きのパンとインスタントコーヒーを流し込みながら、レヴィを見下ろす。
「あ、そうだ、病院スタッフの誰かに取り憑いてさ、廃棄になりそうな輸血パックとかもらえばいいんじゃないの? 病院の場所紹介しようか」
『輸血パック!』
 レヴィは腹立たしそうに言ってがりがりと座椅子で爪を研いだ。いや、それはやめて欲しい。
『あんなもの、食えた代物ではない。おまえの血の方がましだ』
「あ、そう……」
 随分な言い草である。
『あんな放射線のたっぷり当たった濃厚赤血球など、食えるわけないだろう。白血球を死滅させ抗体を取り除くだけでは飽き足らず、血小板だの血漿だの、全血を小分けにしよって日本赤十字社め』
「ええとちょっと何言っているかわからないけど、わたし急ぐから」
『おい!』
「気が変わったらいつでも出て行っていいからね!」
 わたしはレヴィに言い残し、慌ただしく家を飛び出したのだった。

 首筋の傷口は、幸いほとんど目立たなくなっていた。バックヤードで着替えながら、ほっとわたしは胸を撫で下ろす。
 今日のわたしのシフトは、開店時間の朝七時から夕方の十四時まで(ちなみに、昨日は遅番で十四時から二十一時までだったのだが、片付けが長引いたのだ)。朝七時にはまだ外来は空いていないのだけど、この時間は主に医者等の職員が買いに来る。明らかに泊まりだったのだろうなあという疲れ切った顔をした人たちから、まだ眠気の覚めきっていない様子の出勤直後の人まで。朝食ついでに一杯テイクアウト、というわけだ。
 九時近くなると、患者さんの姿が増えてくる。外来通院らしいひとだったり、パジャマ姿の入院患者さんだったり。店内でゆっくりとくつろいでいく人もいる。昼過ぎにはお見舞いに来たのだろう人たちが、テイクアウトでケーキやお菓子を買っていくことも多い。
「そういえば、あんまり輸血してる人って見掛けないな……」
 空いたテーブルを拭きながらぽそっとつぶやく。
「そりゃそうだよ」
 頭上から降ってきた声に、わたしはびっくりして顔を上げた。そこにいたのは、白衣姿の医者――この格好は外科系だと思う。このひとの白衣の中に着ているのは手術着というやつだから、多分そう。
 三十前後だろうその医者は、トールサイズの紙コップを手に持ちながらにやにやと笑ってわたしを見ていた。
「輸血も臓器移植だからね?」
「臓器移植……」
「そ。拒絶反応って聞いたことある? 他人のナマの血をそのまま輸血すると、体はそれを異物だと認識して拒絶反応が起こるってわけ。それを防ぐために放射線を当てて白血球を殺すの」
 ――なるほど、レヴィの言っていた放射線というのはそのことか。
「あ、ありがとうございます……?」
「それでもやっぱり拒絶反応が出ることがあってね。輸血中は安静が原則だから、輸血しながらここに来ることはできない」
「はあ」
 ちらとネームプレートを見ると、「三原(みはら)英爾(えいじ)」と書かれていた。やはり外科医だ。
「わかりました」
「ま、輸血用の血液はいつも足りてないからさ。気が向いたら献血でも行ってみてよ」
「献血……ですか」
 昨日のあれも献血に入らないだろうか、とわたしは思う。
「特に血小板や血漿は使用期限が短くてさー」
「そうなんですか」
「まあ、そういうわけでよろしく頼むわ」
「はあ……」
 吸血鬼に血を吸われた人間でも、献血できるのだろうか。わたしはぼんやりとそんなことを考えながら、すたすたと去っていく三原先生を見送ったのだった。
 変わった先生だな……。

 帰宅したわたしを出迎えたのは、ひとの形を取り戻したレヴィだった。
「何、これ」
 テーブルの上に並べられた料理の数々。これをあの狭いシンクと一口コンロで作ったというのか……吸血鬼、恐るべし。
「豚モモの一口とんかつにキャベツの千切り、小松菜の卵炒め、あさりの味噌汁。米も炊いてやったし、食後には柿もあるぞ。どれも貧血に効く食事だ、食え」
「レバニラとかじゃないんだ」
「レバーは好き嫌いがあるだろうが。おまえ、好きか?」
「嫌い」
「ほら」
「……なんであんた人間の好き嫌いに詳しいの」
 ぶつぶつ言いつつも、ありがたくいただくことにする。まずはさっくりと揚がったとんかつを一口。
「美味しい」
 しっかり振られた塩コショウが、豚肉のジューシーな味わいを引き立たせている。うん、こんなにおいしい食事は久しぶりかも。
「そうか、美味いか」
 満足げなレヴィだが、自分の分の食事はない――当たり前か、吸血鬼なんだから。
「まずは一か月しっかり食事を改善したら、少しは血も美味くなっているだろう」
 わたしは思わず箸を取り落とす。
「えっ、また吸うつもり?!」
「当たり前だ、誰がボランティアでこんなことするか」
「で、でも」
「この食材もおれが買ってやったんだぞ。文句あるか?」
「……ありません」
 がくりと肩を落とす。ついでに、わたしはおそるおそる尋ねてみた。
「そういえば、どうしてそんなにお金持ちなわけ?」
「うちの一族は代々投資家でな。資産運用している」
「…………」
 だから、何で時々妙に現実的なの……?
 ずずずと啜ったあさりの味噌汁は、出汁が効いていてとても美味しかった。

 ――こうして、わたしと吸血鬼の奇妙な同居生活が始まったのだった。