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おまえの血は不味すぎる・8

 わたしがバイトしている総合病院内のカフェ、そこの常連の三原英爾先生。気さくな人だからこれまで何度か話したことはあったけれど、正直どうしてわざわざ冴えないフリーターであるわたしを食事に誘ってくれたのか、わたし自身にもさっぱりわからなかった。わたしが他人と違っているところというと……正直、家に吸血鬼がいる、ということくらいしか思い浮かばないし、しかもそれは決して長所ではないし。
 うちにいる吸血鬼、レヴィは最近機嫌が良くない。この前急に腹が減ったとわめいてわたしの血を吸ったのだが、美味かったとも不味かったとも言わなかった。せめて感想くらい聞かせて欲しい、と思ったが、自分の味の感想を知りたがる家畜というのも奇妙なものだなと思い直すと同時に、なんとなく自嘲的な気分になってしまった。
 ――わたしはどうかしているのかもしれない……。

 三原先生がわたしを連れて行ってくれたのは、駅前にあるイタリアンバルだった。さっとメニューに目を通したけれど、値段も思ったよりリーズナブルである。もしかしたら先生は奢ってくれるつもりなのかもしれないが、当然最初からそれを当てにするのはどうかと思うし、そんなつもりで来たわけでもない。
 そういえば、お酒を呑むのも久しぶりだった。わたしはそれほどアルコールに強いわけではないから、フルーツたっぷりのサングリアをちみちみと呑む。お酒を呑むと、血も酒くさくなるのだろうか。レヴィに聞いたら教えてくれるかもしれないな、などとぼんやりと思う。
 三原先生は赤ワインをオーダーしていた。彼の語る院内での話はいろいろと刺激的で――無論、守秘義務があるからそんなに込み入った話はしないしわたしも聞かないけれど――とても面白かった。そして何より、
「先生は本当にお仕事がお好きなんですね」
 と、わたしは心から感心して言った。わたしは前の仕事が合わなくて辞めてしまったし、今までも点々とフリーターで食いつないでいる。わたしもちゃんと仕事を見つけたいなあ、見つけなきゃなあと思わずにはいられないような、そんな三原先生の口ぶりだったのだ。
「たまたま合っていたんだよ。それだけ」
「忙しいのも苦じゃないんですか?」
 生ハムのピザにひときれ手を伸ばす。……美味しいけど、ちょっと塩辛いかな、と思った。どうやらわたしはレヴィの健康的な味付けにすっかり慣れさせられてしまっているらしい。
「そりゃあ、しんどいなと思うこともあるけどね」
 三原先生は澄ました顔で魚介のアヒージョをつついている。
「でも……うん。やりがいの方が上回っているかな。今のところ」
「すごいですね」
 わたしは心からそう言った。それを聞いて、三原先生は苦笑する。
「小嶋さんも、仕事頑張ってるでしょ」
「仕事……」
 バイトですけど、と言いかけて辞める。わたしが口ごもっていると、三原先生は続けて言った。
「いつもてきぱき働いているし、お客さんにも親切だしさ。あそこ、病院の中だから他のところと比べてちょっと特殊でしょう? ああいうセルフのカフェに慣れていないひとや高齢者も多いし……結構大変だと思うんだよね」
「まあ……確かにそれは……」
「でも、小嶋さんがシフトにいるときはレジの回転もいいし。いい働きぶりだなって、前から思っていたんだ」
「…………」
 わたしは驚いて三原先生を見つめた。
 まさか、この先生がそんな風にわたしのことを見ていてくれた――評価してくれていたなんて。確かに、三原先生は常連といっていいほど良くカフェに来る先生だけど。全然、知らなかった。
「当直や長い手術で疲れた後も、小嶋さんが笑顔でコーヒーを渡してくれると、ちょっと癒されるんだよ」
 三原先生は少し照れたように言って、そしてワインを煽った。
「……あ」
 わたしは小声でつぶやく。
「ありがとうございます……」
 うれしい。誰かに評価されること、必要とされること、それがこんなにうれしいことだったなんて。
 うちにいる吸血鬼は、ひとの血が美味いだの不味いだのって話しかしない。こんな風に言ってもらえて、わたしは本当にうれしかったのだ……。

 食事を終えると、やはり三原先生はひとりで支払いを終えてしまった。自分の分は払うと主張してみたものの、笑って必要ないと言われたので、お礼だけは繰り返し丁寧に言っておく。
「律儀だね、小嶋さんは」
「そうですか? 普通だと思いますけど……」
 そういうわたしを見遣って、三島先生は言った。
「遅くなったし、タクシーで送るよ」
「えっ」
 わたしは驚いて首を横に振る。
「いいですよ……まだ電車もありますし!」
 そう、終電までには十分な時間がある。だが、三原先生は頑として譲らなかった。
「そういうわけにはいかないよ。あ、家の前まで送るとは言わないから」
「……別にそういうことを心配してるわけじゃないんですけど」
 困って呟くわたしの何が可笑しいのか、三原先生はくすくすと笑った。
「とりあえず、君の家の近くまでは送るから。どのへん?」
「ええっと……それじゃあ」
 わたしがざっとした地名を言うと、三原先生はすぐに頷いた。
「わかった。じゃあその辺まで行こう」
 有無を言わせずタクシーを止め、わたしを乗り込ませる。
 行き先を告げる三原先生の隣でわたしは小さくなった。
「本当にすみません……」
「別に謝るようなことはないって」
 ――あんまり恐縮されると、次が誘いにくくなるよ。
「…………」
 そう言われたわたしの顔は、きっと真っ赤だったと思う。それは何も、久しぶりに呑んだお酒のせいというわけではなかった。
 タクシーで十数分ほど走ったところで、わたしは車を停めてもらった。ここから数分歩けばわたしのアパートに着く。三原先生はそのまま乗っているかと思ったけれど、彼は支払いを済ませて下車した。
「…………」
 そのまま帰るわけにもいかず、わたしはぽつんと立ち尽くす。そんなわたしを見て、三原先生は何が可笑しいのかまたくすくすと笑った。
「小嶋さんは本当に面白いよね」
「……え?」
 三原先生はそのままの口調で――意外なことを口にした。

「それに、血の匂いがする」

「血の……?」
 わたしは馬鹿みたいに鸚鵡返しにつぶやいた。血の匂い? なんのことだろう。別に今どこも怪我なんてしていないし、血なんて……血?
「そう――血」
 三原先生は笑っている。さっきまでと同じように――だけど何かが、どこかが違っていた。
「はじめ見掛けたときはそうでもなかったのに、だんだんといい匂いをさせるようになってきて」
「…………」
 わたしは凍り付く。――もしかして、血って……レヴィが吸っている、あの血のことを言っているのだろうか? でも、三原先生が何故? わたしは意味が分からなくて、その場から一歩も動けない。
 わたしがレヴィと最初に出会ったのもこの辺りだが、ここは人通りが少ない。三原先生とふたりきりでいるこの状況が怖い、とわたしは唐突に思った。三原先生が何を考えているのか、まったくわからない。ただただ、怖い……。
 立ち竦むわたしに近付くように、三原先生は一歩踏み出した。
「おれは『混血』だし、生き血なんて吸ったことないけど」
 ――でも、ちょっとは興味あるんだよね。
 ニッと笑った口元に、奇妙に尖った犬歯が見えた。あれ……少しレヴィの牙にも似ているような気がする、とわたしは混乱する。
「ど、どういうことですか……?」
 かろうじて振り絞った声は、ひどく震えていた。
「三原先生……『混血』って、何と何の……」
 三原先生が、わたしの手首をつかむ。その力はとても強くて、到底振り払えそうになかった。わたしは怖くて――がたがたと体が震え始める。
「大丈夫、ひどいことする気はないから」
 三原先生は先ほどまでとたいして変わらない、穏やかな口調でそう言った。だからといって、わたしの恐怖は全く軽減されないのだけれど。
「君のその、血の匂い――それと混じっている、何かの匂い……そう、どこか母の匂いに似てるんだ」
 ぐいと腕を掴み引き寄せられ、わたしは小さな悲鳴を上げる。もっと大声を出さなければ。そう思うのに、体は凍り付いて言うことを聞かない。最初にレヴィに襲われた時と一緒だ、あのときもわたしは何もできなかった。何もできないまま血を吸われて――そのまま家に転がり込まれて――
「『混血』にだって、味見程度はできるからね」
 耳元に湿った吐息が触れて、背筋が粟立つ。次の瞬間、鋭い痛みがわたしの首筋に、

「勝手なことしてんじゃねえぞ」

 触れなかった。そのかわりのように、三原先生の体が数メートル吹っ飛んで、地面に叩きつけられる。
「えっ? ……えっ?」
「えっ? じゃないだろう全く……」
 聞き覚えのある声に振り返ると、わたしの背後にはいつの間にかレヴィが――うちにいるはずの居候吸血鬼が立っていたのだった。
「……えっ? レヴィ?」
 なんでここに、と言うより先にレヴィはわたしの声を遮った。
「おまえ、『混血』だな?」
 その台詞は、どうやら倒れている三原先生に向けられたものらしい。三原先生はお腹をさすりながら、よろよろと身を起こした。どうやら腹部をレヴィにしたたか蹴っ飛ばされたらしい。苦笑を浮かべながら、レヴィを見上げる。
「容赦ないなあ、曲がりなりにも義理の弟にあたる人間に向かって」
「……えっ?」
「ああ、なるほど。おれの母親が人間と結婚めいたことをしたらしいという話は聞いていたが、おまえがそこで生まれた子供か」
 話についていけないわたしを置いてきぼりに、レヴィと三原先生は何やらお互い合点しあったらしい。
「母親はおれが幼い頃に姿を消した。自分に吸血鬼とやらの血が流れているなんて、十五になる頃まで知らなかったよ」
 ――突然現れた母にそんなことを言われて、おれも随分混乱したものだったけどね。
 レヴィはちらとわたしの方を見遣った。
「おまえ、この間おれに尋ねていたな――人間と吸血鬼の『混血』について」
「へっ、う、うん……そうだっけ」
 曖昧に頷くわたしに、レヴィは薄い笑みを浮かべて言った。
「それが『あれ』だ。たいていの場合、人間としての要素が強く出る。生き血を吸わなくても生きていけるし、食事も普通のものをとる。その代わり純血の吸血鬼のように姿かたちを変えることはできない。血を啜りたいという本能がないわけではないから、そこはうまく折り合いをつける必要があるらしいがな」
「外科医って立場は便利なんだよ」
 立ち上がった三原先生は、服についた土を払いながら言った。
「好奇心を満たす程度に、ほんのちょっと血を頂くにはね」
 さすがに直接牙を突き立てるわけにはいかないけれど、と三原先生は苦笑する。
「その程度でも十分満足していたのに、ねえ?」
 小嶋さん、と三原先生はわたしの名を呼んだ。
「きみが妙にいい匂いをさせていて、しかもそこに母に似た吸血鬼の残り香が混じっていた。興味も掻き立てられようというものだろう?」
「智紗がいい匂いになったのは、おれが美味いものを食わせたからだ」
 ……いや、そこで勝ち誇られても。
「で? 自分の匂いをつけてマーキングしていたってわけかい」
「それも別に意図的にやったわけじゃない。おれの匂いに気付くのなんて、吸血鬼界隈のものだけだろう」
「あ、そう……。で?」
 三原先生は口の端を吊り上げて、レヴィを見上げる。
義兄(にい)さんは、おれに少し獲物を味見させてくれはしないの?」
 獲物――考えるまでもなくわたしのことである。わたしはぞっとして後退った。その背中に、レヴィが触れる。
「嫌だね」
「けちだなあ」
「けちで結構」
 レヴィはきっぱりと言う。
「こいつの血は全部おれのもので、それを誰かと共有する気はない。こいつの肌に誰か他の奴の歯が触れるなんて、まっぴらごめんだね」
「…………」
 なんか無茶苦茶なことを言われている気がするのだが……とりあえず、レヴィがわたしを三原先生に差し出すつもりがないようでほっとした。
 三原先生はレヴィの台詞を聞いて苦笑を浮かべた。
「もしかして、うちの両親にでも倣う気?」
「おまえの両親のことは知らんが」
 レヴィは言葉を切り、そして真顔になってじっと三原先生を――どうやら異父兄弟であるらしい彼の顔を、じっと見つめた。
「おまえはうまく『人間』としてやっていけよ。今までだって、そうやって来たんだろ」
「…………」
 三原先生は黙り込む。
 レヴィは繰り返した。
「おまえは、『人間』なんだから」
 その言葉には、なんだか深い意味が込められているような気がした。レヴィは「人間」ではない。「人間」にはなれない……。
「…………」
 三原先生は、はあっ、と大きなため息をつくとくるりと踵を返した。
「残念だなあ。せっかく小嶋さんと仲良くなれたのに」
「こいつはだめだ」
 頑として繰り返すレヴィを無視して、三原先生はわたしにひらひらと手を振る。
「コーヒー、また買いに行くね」
「……は、はい!」
 わたしはこくこくと頷いた。襲われそうになったときは本当に怖かったけれど、でもだからといって三原先生を嫌いになったというわけではない。レヴィのお陰で、実際には何もされなかったわけだし……。
「コーヒーなら、いくらでも」
 わたしの血は上げられないけれど、コーヒーなら。
「いつでもお待ちしてますから」
「…………」
 無言で一瞬振り返った三原先生はいつものように笑って、夜の街へと姿を消したのだった。

「帰るぞ、智紗」
 わたしの手を引いて、レヴィは歩き出す。わたしは引き摺られるようにして歩きながら、その背中に疑問をぶつけた。
「ねえ、結局どういうことなの? 三原先生はレヴィの義理の弟ってこと? レヴィはそのこと知ってたの? レヴィたちのお母さんっていったい、」
 わたしの顔面は突然何かにうずもれて、質問の続きは途切れてしまった。
「…………」
 振り向いたレヴィが、わたしを抱きしめている。そのことに気付いて、わたしは慌ててもがいた。
「えっ、何、いきなり血を吸うのはなしよ、今日はお酒も呑んだし、それに」
「吸わない」
 レヴィがぽつりと言う。
「アルコールを飲むとそもそもが脱水気味になるからな。そんな時に血を吸うのはさらに脱水を助長することになって、体に悪い」
「……あ、そう……」
 やっぱり妙なところで常識人だ、この吸血鬼は。
「まあ、酔った人間の血もそれはそれでなかなかに美味いもんなんだが、それはまたおいおい」
「おいおい?!」
 ばっと顔を上げると、思いのほか近いところにレヴィの顔があった。レヴィはじっとわたしを見つめて、そしてふっと笑う。なんだかとても優しい笑顔だった。
「そう――おいおいな」
 そのまま彼はわたしのこめかみに掠めるようなキスを落として、そうして再び手を引いて歩き始めた。
「…………」

 ――こいつの血は全部おれのもので、それを誰かと共有する気はない。
 ――こいつの肌に誰か他の奴の歯が触れるなんて、まっぴらごめんだね。

 不意に、レヴィの言葉が脳裏にこだまする。
 あれってどういう意味だったんだろう。独占欲を丸出しにしたような台詞……あれはただの、自分の食事に対する独占欲なのだろうか。それとも、他に何か意味があるのだろうか。
 前を歩くレヴィを見つめる。彼の後頭部は、当然ながら何も語らない。
「…………」
 わたしの手を引く彼の手を少しだけ、力を込めて握ってみる。間を置かずに握り返されたことに、わたしはひどく安心したのだった。