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おまえの血は不味すぎる・7

 その事件が起こったのは、わたしが休憩から戻ってすぐのことだった。
 わたしがバイトしているカフェチェーンは基本的にセルフサービスなのだが、ここは立地が総合病院内ということもあって、客の状況によっては注文されたものを店員が席まで運ぶこともよくある。わたしがコーヒーふたつを座席まで運び、空になったトレイとともに戻ろうとした、その時。
 わたしの足元に誰かが倒れ込み、わたしは小さく悲鳴を上げた。パジャマ姿ではなく、スーツの男性である。見舞客だろうか。慌てて助け起こそうとして、様子がおかしいのに気付く。白目を剥いて、唇は半開きで真っ青――もしかして、意識がない……? 呼吸は? 脈は?
 震える手で探ろうとしていた時、背後から声を掛けられた。
「代わる。緊急コールの連絡を」
 振り返るとそこにはこのカフェ常連の医師、三原先生がいた。険しい顔で倒れた人を見つめ、てきぱきと頚部で脈をとり、呼吸を確認する。そして、すぐに言った。
「CPAだ」
 CPA――いわゆる心肺停止というやつだ。そうと気付いたわたしはバックヤードに貼ってある手順書を思い出し、心臓マッサージを始めた三原先生を置いて駆け出した。今までこんな事態に遭遇したことはなかったけれど、こういうときのためのマニュアルは店でちゃんと策定されている。特にここは病院内だから、対処も他の店舗とは違うのだ。
 不穏にざわめく客をかき分け、わたしはカウンター内の内線電話を手に取った。病院の交換手に繋がるナンバーを押し、相手が出たのを確認して口早に告げた。
「院内カフェで緊急コール。お願いします」
『……畏まりました』
 相手の声にもぴりっと緊張が走る。
 それから間もなく、院内に放送が響き渡った――『院内二階、カフェテラス内で緊急コール』。繰り返されるそれの残響が消えるより先に、何人もの医療者がばたばたと駆けつけてくる。「緊急コール」とは、そこで心肺停止状態の人がいる、あるいはそれに近い状態の緊急の処置を要するひとがいるという非常連絡なのだ。AEDや救急カートも運ばれてきて、あたりは騒然とした。倒れたひとをその場から動かすわけにはいかないから、他の客には店外に出てもらうことになる。他の店員と一緒に誘導を終えたわたしは、邪魔にならないよう離れた場所から固唾を呑んで見守った。大勢の白衣の人たちで、何がどうなっているのかは全く見えないし、見たところで理解できるわけでも、役に立つわけでもないのだが、それでもわたしはその光景から目を離せなかった。
 倒れたひとに何があったのか、それはわからない。だが、目の前でひとが死に掛けているということ――それはひどく恐ろしくて、それでいて妙に現実感がなくて。
 やがてストレッチャーに載せられて運ばれていったそのひとを見送りながら、とにかく助かって欲しい、とわたしは強く願った。

 遅番のわたしは、店の片付けを終えてからの退勤だ。今日はあの一件でなんだか疲れてしまったので、寄り道(ファミレスやカフェでの資格勉強のことだ)はせずに帰ろう――そう思っていた。
「小嶋さん……だったよね」
 病院の建物から出て、敷地内を少し歩き始めたところで不意に声を掛けられた。立ち止まって振り返ると、そこにはひとりの男性が立っている。誰だろう、と思ったところではたと気付いた。白衣でない私服だったから一瞬ぴんと来なかったけれど、三原先生だ。どうせ院内では着替えるからだろう、カジュアルなジャケットにTシャツ、ジーンズといった服装で、院内で見かける時よりもずっと若く見える。
「ごめん、急に。驚かせたかな」
「あ、いえ……」
 わたしは口ごもる。
「三原先生、ですよね」
「うん」
 軽く頷いて、彼は微笑んだ。
「小嶋さんは、今帰り?」
「あ、はい」
 いつの間に名前を覚えられていたのだろう、と不思議に思う。確かにバイト中はずっと名札を付けてはいるのだけど、わざわざそんなものを見るひとなんていないと思っていた。
「おれも。今日は割と早く仕事が終わったんだよね」
「…………」
 早く――とはいえ、既に二十一時は過ぎている。
「いつも遅くまで大変ですね」
 笑顔を浮かべてそう言うと、三原先生は肩をすくめた。
「別に、好きでやってることだから。……ところで」
 彼はジャケットのポケットからスマートホンを取り出した。
「もしよかったらなんだけど、今度一緒に食事に行かない?」
「……へっ?」
 わたしは思わず間の抜けた声を上げた。
「わ……わたし、ですか?」
「ここには君しかいないと思うけど」
 と、三原先生は苦笑を浮かべる。
「良かったら、連絡先交換させてもらえないかな」
「は、はい、それは、別に、構わない……です」
 しどろもどろになりながらも、わたしはバッグの中から自分のスマートホンを取り出した。アプリを起動して、連絡先を交換する。バイブの振動ひとつと共に、わたしのスマートホンの中には三原先生の――三原英爾先生の連絡先が登録された。バイトの連絡グループではなく個人的に連絡先を交換するなんて、一体どれくらいぶりだろう。わたしは密かに感動していた。
 三原先生は自分のスマートホンの画面を見て、満足げに頷く。
「ありがとう」
「こ、こちらこそ!」
 勢いよく頭を下げたわたしを見て、三原先生は小さく噴き出した。
「小嶋さんて、面白いよね」
 えっ、と思わず声が出る。顔に血が集まってくるのを感じた。
「そうですか……?」
「うん。ああ、もちろんいい意味でだけど。今日のあれも驚いただろう、お疲れ様」
「いえ……」
 あれ、とは例の一件のことだろう。すうっと浮かれた気持ちが遠のいていき、わたしは思わず俯く。倒れたひとは、あの後いったいどうなったのだろうか。三原先生は知っているのかもしれないが、当然そんな個人情報を教えてもらうわけにはいかない。わたしはあくまでカフェのバイトで、医療関係者ではないのだから。
 三原先生は、ああいう状況にも慣れているのだろう。仕事なのだから当然だ。助けられるものを全力で助ける。中には助けられないひともいるだろうけれど、それはどうしようもないことだ。素人のわたしにだってそんなことは理解できるのだが、それでも実際に目の前で生きるか死ぬかの瀬戸際の状況を見てしまうと……。
 また都合を連絡させてもらうね、と三原先生は終始笑顔で言うと、立ち尽くすわたしを置いて院内の自転車駐輪場へと歩いて行った。三原先生は自転車通勤なんだ、とその時初めて知った。無論、これまでに知る機会なんてあるはずもなかったのだけれど。きっと、忙しいから職場近くに家を借りているのだろう。深夜や休日の呼び出しなんかもあるんだろうし。
「…………」
 ぼんやりと三原先生の背中を見送っていたわたしだが、やがてはたと気を取り直した。こんなところでぼうっとしていても仕方がない。帰らなければ。
 夜風に顔を冷やしてほしくて、わたしはいつもより大股に、風を切って歩く。
 三原先生が何のつもりでわたしを食事に誘ったのかはわからなかったけれど、まさか嫌いな相手にわざわざ声を掛けることもないだろう。もしかすると――もしかするのかも……。
「…………」
 自分でも気が早いと思うし現金なものだと思うけれど、ひとから好意めいたものを寄せられているかもしれない、と知って、まったくの平静を装えるほどわたしは人間ができていない。ほんの少しの間だけ存分ににやけて、それから人通りの多い駅前では何でもない様子を装って……。
 ――そういえば。
「今日の夕飯、何だろうな……」
 そう思った瞬間、先ほどまでのほろ酔いにも似た心地に、冷や水を浴びせられたような気がした。代わりに、何となく後ろめたいような感情が湧いてくる。別に、何も後ろめたく思うようなことなんてないはずのに。
 レヴィが――例の吸血鬼がわたしの夕飯を作ってくれているのは、わたしの血を美味しいものにして、自分が美味しく味わうため。それだけのことだ。自分で言うのも癪だけれど、いずれ出荷するための家畜に餌付けしているのと何の代わりもない行動だ。
 だから、わたしがレヴィに悪いと思う必要なんてまったく、ひとかけらも、ない。ないはずなのに。
「…………」
 とにかく、早く帰ろう。わたしはもやもやと湧き上がる不穏なものを力づくで圧し込めるようにして、足早に駅へと向かったのだった。

 何となくそわそわしながら帰宅したわたしだったが、レヴィはわたしの内心の動揺になど全く気付いていない様子だった。安心したような、少し腹立たしいような、妙な心地でわたしは食卓代わりのローテーブルの前に座る。
 今日の夕飯は豚の生姜焼きにキャベツの千切りとフルーツトマトのサラダ、もやしと卵の味噌汁、小松菜の胡麻和え。レヴィがいつも土鍋で炊いているご飯はいつもながらふっくらとして、本当に美味しい。吸血鬼は人間の食事に味覚を感じないと言っていたが、彼はどうしてこんなに料理上手なのだろうか。しかもうちは一口コンロなのに、どれだけ手際がいいのだろう。わたしは他人事のように感心してしまう。
「いただきます」
 手を合わせて食べ始めたところで、スマートホンが振動した。わたしは思わず箸を止め、画面を凝視する――三原先生だ。数日後の夜の都合はどうか、と尋ねる簡潔な文面だった。わたしはシフトを確認し、その日が遅番でないことを確かめた。まあ、向こうは忙しいから予定が流れる可能性も十分考えておかなければならないだろうけど、とりあえず自分の方は問題ないことを送信する。へんに浮ついた文面にならないようにと考えながら打っていたら、少し素っ気ない文面になってしまった。変にハイテンションで痛々しく思われるよりはいいと思いたい。
「……飯食ってからにしろよ」
 レヴィにやや不機嫌そうに言われ、わたしは慌てて、ごめんなさい、と謝った。確かにその通りだ。行儀も良くないし、何より作ってくれたひとに失礼だった。
 レヴィはわたしのベッドに足を組んで腰掛けながら、眉を寄せてわたしを見下ろす。
「そんなに急ぎの用事だったのか?」
「そういうわけじゃない……けど」
「……ふうん?」
 レヴィは目を細め、ゆっくりと顎を撫でる。
「なんだ、デートの約束か何かか?」
「で、デートなんかじゃないって!」
 ふわふわとした卵でとじられた味噌汁を噴き出しそうになるのをこらえ、わたしは言い返した。
「へんな詮索はやめてくれる……?」
 それを聞いたレヴィは、小さく鼻で笑った。なんか、感じ悪い。
「そりゃあ、おまえが誰とデートしようが何しようがおまえの勝手だからな」
「その通りよ。あんたには関係ない」
 力を込めて同意するわたしを、レヴィは軽く睨む。
「おい」
「……何」
「さっさと食べ終われよ。腹が減った」
「はあ?」
 わたしは思わず聞き返す。腹が減った? 吸血鬼が? じゃあ、それの意味するところはひとつじゃないか。わたしは生姜焼きを頬張ったまま顔を引きつらせた。
「何、今からわたしの血を吸うっていうの? いきなり?」
 そんな、急に言われても困る。明日は早番だから、寝坊できないのに。
 不満を口にするわたしを無視してレヴィは立ち上がると、わたしとわたしの座る座椅子の背もたれとの隙間に、体をねじ込むようにして座り込んできた。
「ちょっ……」
 わたしの背中と彼の胸がぴたりと密着して、わたしは焦る。だが、レヴィは左腕でもがくわたしを抑え込んだ。
「いいから早く食えって」
 右側のうなじが剥き出しになるように、レヴィは指先でわたしの髪を肩から退けていく。――その感触に、肌がぞわぞわとした。気持ち悪いわけではない。ただ、落ち着かない。心臓が、奇妙なくらいの速度で脈打っている。
 レヴィの熱い吐息が、わたしの首元に触れた。
「早くしないと吸い始めちまうぞ?」
「ちょ、ちょっと待ってよ……もう食べ終わるから……」
 かろうじてごちそうさまを言い終えたわたしから箸を奪ってそのまま右手を掴み、左腕でがっしりと腰を押さえた状態で、レヴィはわたしの首元に口を近付ける。
「……なあんか」
 血を吸われる直前、レヴィのつぶやきが耳に届いた。
「気に入らねえな――」
 何が気に入らないのか。どうしてレヴィは苛立っているのか……何に機嫌を損ねているのか。
 ――レヴィにとって、わたしはいったい何なのか。
 わたしは何も尋ねられないまま、レヴィの腕の中で彼の犬歯をうなじに突き立てられ、鈍い痛みとともに意識を失ったのだった。