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おまえの血は不味すぎる・6

 とある資格取得のための――受かる自信がないから、何の資格かは伏せさせておいて欲しい――通信教育テキストを開いて、ノートにメモを取って。こうやって勉強するのはものすごく久しぶりだ。こんなに真面目に取り組むのは、大学入試以来かもしれない。うちにローテーブルと座椅子しかないのが不便だった。まあ、狭いワンルームだから仕方がないのだが……。
「レヴィ」
『ん?』
 わたしが声を上げると、ベッドの上で丸くなっていた黒猫が頭をもたげた。不思議な紫色の双眸が瞬いた次の瞬間、そこには身綺麗な男が座っていて、小首を傾げてわたしを見下ろしている。
 無論、普通の人間であるはずがない。こいつは吸血鬼だ。とある夜、突然わたしに襲い掛かって血を吸った挙句、「おまえの血は不味すぎるから改善してやる」だのなんだのと言ってうちに転がり込んできた居候。……思いのほか料理をはじめとする家事が万能で、しかも十分すぎる家賃も支払われていて、最近ではなんだかどっちが居候だかわからなくなっている……という事実には、固く目をつぶっておきたいところである。――そう言っている時点で、つぶりきれてはいないのだけど。
 わたしはペンをテーブルの上に転がし、大きく伸びをしながら尋ねた。
「あんたって家族いるの?」
 特別な意味があったわけではない。ただ、早々に勉強に飽きてしまった――疲れてしまっただけのことだ。それで、ふと思い浮かんだ疑問を口に出してみたのである。
「……親兄弟は、一応いる」
 微妙に言い直されたのが気になるが、まあいい。レヴィは案外あっさりと答えてくれた。
「我々吸血鬼は何も無性生殖で殖えるわけではないからな。両親は必要だ」
「ムセ……なんて?」
「中学生で習わなかったか」
「……あんた、中学校通ってたの?」
「通っていない」
 あ、さすがにそれはそうか。
「無性生殖っていうのは……親の体の一部が独立して新しい個体である子供になったり、生殖細胞が他の細胞と融合せずに単独で発生や発芽を始めたりすることだ。わかるか」
「……えっと、ひとつの個体が分裂して殖えるやつってこと?」
「簡単に言うとそういうことになる。子は親とそのまま同じ遺伝情報を持つクローンってわけだ」
「……なんでみんなそうやって殖えられないのかなー」
 わたしはぽつりと言った。
「自分だけで子供が殖やせたら、やれ恋愛だー結婚だ―離婚だーなんて面倒なこと全部なくなるのに……」
 近年、たまに身辺にそういう探りを入れてくるようになった両親のことを思い出し、わたしは思わずため息をつく。
「…………」
 レヴィは黙り込んだ。そっと顔を見上げてみると、どうやらひどく呆れられてしまったようである。
 それでも、妙なところで教育熱心な――蘊蓄語りが好きだともいう――彼は、ゆっくりと口を開いた。
「有性生殖の利点は、遺伝子の多様性が作り出せることだ」
「……ん? んん?」
「この国の教育レベルに不安を感じてきたぞ」
 レヴィは失礼なことを言いながら、ベッドの上に座り直した。つられてわたしも姿勢を正す。
「有性生殖では両親の持つ遺伝子が混ざり合って、新しく子の遺伝子ができあがる。ここまではいいな?」
「さすがにそれくらいは」
「たとえば、無性生殖で殖えるある生物種が寒さにひどく弱い性質を持っていたとしよう。つまり、そういう遺伝子を共通して持っていたと」
「ふんふん」
「ところがある時、地球を氷河期が襲った――寒さに弱い個体は生き残るのに不利だ。どうする」
「……どうするったって」
 わたしは困惑した。人間みたいに厚着するってわけにもいかないんだろう、きっと。また馬鹿にされるから口にはしないが。
 レヴィはわたしの返答を待たずに解説を始めた。
「無性生殖をする過程であっても、偶然遺伝子に変異が入る可能性はある。うまく遺伝子が変異して寒さに強い方向に進化する個体が現れれば、そいつの子孫は変異した遺伝子を伝えて生き延びることができるだろうな。だが、有性生殖と比べるとその確率はずっと低い」
「そうなの?」
「ふたつの個体の遺伝子を組み合わせてひとつの個体の遺伝子に組み上げるということは、それなりに複雑な手順を踏む。複雑なことが行われるということは、良かれ悪しかれエラーが――変異が起こりやすいということでもある。その変異によって、遺伝子には生存に有利な、あるいは不利な多様性が生まれ、種として存続の可能性を広げられるというわけだ。だから、高等生物はほとんど有性生殖を行っている」
「…………」
 黙り込んだわたしに、レヴィはひとつため息をついた。あまり理解が追い付いていないことがばれてしまったようだ。
「おまえも父親や母親と似ているところと、どちらにも似ていなさそうなところと、いろいろあるだろ。そうやって、有性生殖ではその世代までに存在していなかった特徴を持つ新しい個体を作っているんだ。そういうもんだってこと」
 最後には面倒になったのか、適当な説明で終わらされてしまった。まあいいけど。
「じゃあさ、あんたの両親も吸血鬼なの?」
「……まあ、そうだな」
 父親のことは良く知らんが、とレヴィはしぶしぶといった調子で言った。
「吸血鬼同士からでなければ、吸血鬼は生まれない」
「……へえ」
「だが、吸血鬼同士で長く共に暮らす夫婦というのはあまり聞かないな……結婚制度もないようだし」
「そういうもの」
「そういうものだ」
 それはいったいどういった理由なんだろう、と思ったが、それは聞かないでおいた。
「今も連絡とってるの。お母さんと」
「……いや」
 お母さん……お母さん、か。レヴィは困惑したようにその響きを呟く。もしかして、あまり馴染みのない言葉なのだろうか。ママって呼んでいたりして……いや、そういうこともでないか。
「吸血鬼として自分で食事が摂れるようになった後は、家を出てそれきりだな」
「それって何歳くらいの時?」
 吸血鬼に年齢の意味があるのかはともかく、わたしは尋ねてみた。不老不死ではない、ってレヴィが前言っていたし。
 レヴィが思い出そうとするように首を傾げた。
「……十二歳くらい、だったかな」
「自立早っ」
 わたしは思わず声を上げた。じゃあ、その頃からレヴィは一人で生きてきた……ということなのだろうか? 例の、よくわからない資産運用をしながら? 学校には通っていないと言っていたけど、彼の持ついろんな知識はどうやって身に着けてきたのだろう? いろいろと謎だらけである。
「でも……とりあえずそれまではお母さんと一緒に暮らしてたってわけだよね」
「そうだな」
 レヴィは頷く。
「吸血鬼は赤子の頃、母親の血を吸って育つ。自分で生き血が吸えるようになるまではな」
「えっ、そうなの?」
 動物の狩りみたいに、死体から血を吸う練習とかしないの――と尋ねると、レヴィはあっさりと「死体の血は数時間もすれば凝固してしまうぞ」と言った。どうやら、吸血鬼は凝固した血液は好まないらしい。わがままな。
「固まるの……?」
「そう。放っておけば血は固まるものだ。血液には凝固因子というものが含まれていて、常に固まろう固まろうとしている。生きている生物の中で血が固まらないのは、常に流動し続けているから――心臓というポンプが働き続けているからだ。だから、血管内の血液は凝固せずにいる」
「怪我をして血が空気に触れると、すぐかさぶたになるものね」
「そういうことだ。出血はできるだけ早く止めないと生命に関わるからな」
 今と違って手術やら輸血やらといった医療が発達していない時代、怪我による失血で命を落とすケースは今よりもずっと頻繁にあったことだろう。
「じゃあ、死体の血が固まるのは……」
「心臓が停まって、もはや血が動かなくなるからだ。動かないと血は固まる」
「…………」
「健常な人間でも、あまりにもじっとしていて血を滞留させると血の塊が――血栓ができるだろう。ほら」
 ――エコノミークラス症候群というものを聞いたことがないか。
 わたしはこくこくと頷いた。さすがにそれくらいは知っている。
「座ったまま足をじっと動かさないでいると、足の静脈の中に血栓ができちゃうんだよね。それで、次に動いた時にその血栓が肺とかにとんで大変なことになるの」
「大変なこと……まあそうだな」
 残念ながら、わたしのふんわりとした説明はレヴィのお気に召さなかったらしい。だが、彼はそれを細かく訂正する気もないようだった。
「血は固まらなさ過ぎてもいけないし、固まり過ぎてもいけない。絶妙なバランスを保っているのだ」
 ――で、それをあんたは吸うってわけね。わたしは言葉に出さずにそう思った。代わりに、話を元に戻す。
「それで、吸血鬼の子供はお母さんの血を吸うってわけ……」
「おまえたち哺乳動物も同じことだろう? 乳汁は血液から作られるんだからな」
「……へっ」
 突然レヴィが「乳汁」などと言い出すものだから、わたしは思わず動揺した。
「そ、そうなの?」
「知らんのか」
 知らないっていうか、あんまり考えたことがなかったっていうか……覚えがないというか。
「母親の乳腺組織が、血液から乳汁を産生しているんだ。乳汁の元は血液なんだぞ」
「そっか……」
「だから、おまえが前気にしていた血液を介して感染するウイルスは、母乳を通してうつることもある」
「…………」
 そういえばそんなこともあったな、とわたしは思い出す。今わたしのバイト先は病院内にあるカフェだから、針刺し事故だとか、そう言った話を聞く機会もあって――レヴィの牙を通して何かうつされていたらどうしようかと心配になったのだった。とりあえず、その心配はないらしいが。
「なるほどねえ」
 わたしは呟いて、ちらとレヴィを見遣った。
「さっき、吸血鬼は吸血鬼同士の両親からじゃないと生まれないって言ってたけど」
「ああ」
「その、人間と吸血鬼の間に子供が生まれるってパターンもあるの?」
「…………」
 レヴィは黙った。顔色ひとつ変えることもなく――だがその無表情が、わたしの質問への問いを拒んでいるようにも見える。もしかすると、聞いて欲しくないことだったのかもしれない。
「……ごめん、忘れて」
「智紗、」
 どこか申し訳なさそうにわたしの名を呼ぶレヴィ。珍しいこともあるものだ、と思った。
「別に、わたしには関係ない話だもん。でしょ?」
 わたしは笑ってそう言うと、テキストとノートを畳んで手近なバッグの中に放り込んだ。続けて、財布とスマートフォンと家の鍵を。
「出掛けるのか?」
 尋ねるレヴィに、わたしは頷く。
「ファミレス行ってくる。あそこ、昼間は空いてるから……昼ごはんもついでに食べて来るし」
 せっかくの休日ではあるのだが、こういう日こそ勉強を進めなくてはならない。洗濯は終わったし、掃除は――レヴィが日々してくれているし。
 未だわたしのベッドに座ったままのレヴィが、少し上目遣いでわたしを見遣る。
「夕飯には帰って来るんだよな?」
 ――なんだか、ちょっとは帰って来て欲しそうな口ぶりだ。きっと気のせいだろうけど。
 わたしは頷いた。
「そうね。また血が不味くなるとか言われても困るし」
 それを聞いて、レヴィは唇を尖らせる。
「困るのはおれだ。不味いんだから」
 ――じゃあ、わたしの血を吸わなきゃいいんじゃないのかしら。その言葉はぐっと飲み込んで、わたしは言う。
「夕飯までには帰って来る」
「わかった」
 それならおれも買い物に行くとするか、とレヴィは立ち上がる。すらりと均整の取れた長身、宝飾品みたいに繊細なシルバーの髪。なんでこんなひとがわたしの家でせっせと家事をこなしてくれているのか、時々よくわからなくなる。いくら自ら美味に育てたわたしの血を吸いたいからと言って……、そもそもが別にわたしでなくてもよさそうなものだし。もっと簡単に美味しい血を吸える方法なんていくらでもあるんじゃないだろうか。まあ、わたしとしては生活が助かっているわけで、とりあえずはそのまま放っておくつもりなのだけど。少なくとも、何かしらの資格をとって転職を成功させないことには、このジリ貧のバイト生活からは抜け出せない。レヴィには申し訳ないが、彼にはその足掛かりになってもらわないと。
 わたしはバッグを肩に掛けた。
「じゃあ、行ってくる」
「おう」
 レヴィは笑顔で手を振る。
「行ってらっしゃい」
「…………」
 なんだろう、この面映ゆい感じ。
 行ってきます、行ってらっしゃい、なんて。
「……なんか、家族みたい……」
 閉じた玄関扉を見つめて、わたしはぽつりと呟いた。結局、レヴィの家族のこと――レヴィ自身のことも、よくわからないままだな、と思いながら。
 でも、どうしてわたしは突然レヴィに家族のことなんて聞いたのだろう。わたしはレヴィを知りたいのだろうか。知って、どうしたいのだろう。
 わたしは首を緩く振って歩き出す。そんなこと、考えても仕方がないことだ。今のわたしがすべきなのは、ただひとつ。しっかり勉強して資格を取り転職して、吸血鬼に頼らずとも生きていけるようになること。そうでないと――いつ、レヴィがわたしの血に見向きもしなくなるか、わかったものではないのだから。
 そう考えるたびにちりりと走る胸の痛みを、わたしはもうずっと無視することにしていた……。