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おまえの血は不味すぎる・5

「今日も夕飯作らなくていいよ。遅くなるから」
『……わかった』
 黒猫の姿でくつろいでいたレヴィの返答を背中で聞いて、わたしはアパートのドアを閉めた。視線がじっと注がれているのは感じていたが、それでもわたしは振り向かなかった。
 わたしがレヴィに二度目の吸血をされてから十日。わたしにだって、いろいろと思うところがあるのだ。

 そもそもがあの吸血鬼の気まぐれで始まった話なのである。夜道でいきなりわたしに襲い掛かって血を吸っておいて、まあその後気を失ったわたしを家まで連れ帰ってくれたのはいいとしても、目を覚ましたわたしに向かって開口一番「血が不味い」ときた。本当に余計なお世話だと思うのだが、それなのにまるでわたしの心配をしているかのような口ぶりであれやこれやと説教をしてきたものだから、わたしは何となく丸め込まれてしまって……それで、なし崩し的に彼はわたしの家に居座っているのである。家賃めいたものは払ってくれているし、それなりに家事もこなしてくれているから、ありがたいといえばありがたいのだけど……いや、それをありがたいと思ってしまうこと自体がどうかしているのだ。しっかりしないといけない。
 そもそも前職を辞めてからの生活は、アルバイトをしているとはいえ少しずつ貯金を切り崩しながらのものだったし、いつまでもこのままでいてはいけなかった。それは、レヴィが現れようが現れまいが同じことだった。それなのに、レヴィの存在に気を取られて、直視しなければならない現実から目を背けてしまっていた。それはわたしの責任だ。
 だから――だから、今みたいにレヴィに頼った生活に慣れてしまってはいけない。いつ、彼がいなくなるのかもわかったものではないのだし、もしいなくならなかったとしても、わたしはいつか彼をちゃんと追い出さないといけないのだ。
 ――これ以上、わたしが彼の存在に慣れてしまう前に。
「アイスコーヒー。Lサイズで」
「かしこまりましたー」
 脳内であれこれぐるぐる考えていても、口と手は慣れた動きを自然に繰り返す。レジを打って、アイス用のプラスチックカップに氷を入れて、コーヒーを注いで、蓋をして。ふと客の顔を見ると、それはしょっちゅうここに来る常連さんだった。わたしのバイト先である病院内カフェ、その病院に勤めている外科の先生――三原先生。いつも通りのよれた白衣を、手術着の上に羽織っている。
 閉店間際の夜二十一時前、こんな時間にたっぷりのアイスコーヒーを頼むなんて。
 わたしが少しきょとんとした顔をしたのに気付いたのか、三原先生は少し笑ったようだった。
「仕事は終わったんだけど、ちょっと勉強しなくちゃいけないことがあって」
「あ、そうなんですか」
 我ながら間の抜けた返事だったが、三原先生は気にする様子もない。
「ほんと、勉強することばっかりだよ」
 この先生、カフェが空いているときはわたしや他の店員を相手にちょっとした雑談をしていくことが多くて、その辺は少し変わっているところだと思う。別に、嫌な客だというわけではない。
 それにしても――「先生」になっても、勉強することばかりなのか。医師になる前だって相当勉強してきただろうに、なった後にも勉強しなくちゃいけないなんて。
「……大変ですね」
「仕事だからね。仕事はみんな、大変なものでしょ」
「…………」
 ……そうだろうか。大変さのベクトルは、それぞれ違うような気がするが。
「あ、ちょっと甘いものも食べようかな」
 三原先生はレジ横に置いてある個包装のマフィンを摘まみ上げた。
「追加でこれも。いい?」
「はい、もちろんです」
 受け取ってレジを通す。三原先生はコーヒーとマフィンとを受け取って、そしてわたしをじっと見た。――わたしの顔がどうかしたのだろうか?
「なんかさ、前より顔色良くなったよね」
「え?」
「ここで働き始めた頃くらい? 結構顔色悪かったから、ひそかに心配してたんだけど」
「…………」
 その頃――無論、レヴィに出会う前のことだ。言葉を失ったわたしが口をぱくぱくさせていると、三原先生は苦笑して手を振った。
「ごめん、変なこと言って。お疲れ様、小嶋さん」
「は、はい、お疲れ様……い、いえ、ありがとうございました!」
 しどろもどろになりつつ挨拶を終えたわたしに背を向けて、三原先生はすたすたと立ち去って行った。
 ――その後、別のスタッフからさんざん揶揄われることになってしまったのは……本当に、不覚だった。

 閉店処理を終えて、わたしは病院を出た。正面玄関は既に閉まっているから、救急用の出入り口から外に出ることになる。ちらりと救急外来を見遣ると、夜遅くにもかかわらずたくさんのひとが立ち働いていた。子供の泣き声や、何かのアラームの音も聞こえる。――仕事だから、か。わたしは三原先生の言葉を思い出してため息をついた。
 アパートに程近いファミリーレストランに入って、わたしはパスタとミニサラダ、ドリンクバーを注文した。時間も遅いせいか、客の姿は少ない。わたしはドリンクバーでカフェオレをカップに入れ、自分の席に戻った。鞄からごそごそと何冊かのパンフレットを取り出して、眺める。
 資格を取ろう。
 わたしはそう考えていた。無論、転職のためである。
 今からあまり元手を掛けずに取れるような資格を持ったからといって、そう簡単に就職に結びつくわけではないだろう。そんなことはさすがのわたしにだってわかる。それでも、何もせずにいるよりはずっといいのではないか。何でもいいから、現状を変えるきっかけになればいい。わたしはそう思った。――まあ、まだ具体的に何をどうするかは決めていないのだが……。
 並べられたミニサラダとパスタに手を付ける。不味くはない、いつものこのチェーンの味である。それでも、やっぱりいつもの夕飯の方が美味しいな、とわたしは思った。あの吸血鬼、自分は食べないくせにやたらと料理上手なのだ。栄養のバランスだけでなく味にも気を配れるとは、まったくあの技術はどうやって身に着けたのだろうか。そもそもあの男は何歳なのか。出身はどこか。外見で判断するなら欧米出身っぽいが、それにしてはやたらと流暢な日本語を話す。まあ、人間ではない生き物に対してこちらの常識が通用するわけもないが……ああ、いけない。またあの吸血鬼のことを考えてしまっていた。わたしはため息をつく。あいつはわたしの血に興味があるだけだ。それなのに、わたしがあいつに興味を持つのは何だか……負けのような気がして悔しい。そっちがその気なら、わたしはあいつからもらえる恩恵――たとえば家賃とか、食費とか、食事とか――のことだけ考えておけばいいのだ。どうせ、あいつの気が済んだら「さようなら」なのだから。
 だからこそ、今のうちにわたしはわたしにできることをしなければ。手元のパンフレットに視線を落とす。どれも、通信教育で取れる資格についてのものである。レヴィのおかげで、今は少し経済的に余裕があるのだ。だからこそ、今のうちに。
「まあ、あいつをあてにしてっていうのも癪な気はするけど……でも、仕方ないわよね」
 つぶやいた時、目の前の座席にどさりと誰かが座り込んだ。わたしは驚いて跳び上がる。相席? こんなに空いたファミリーレストランで……だが、顔を上げたわたしは違う意味であっと声を上げた。
 すっかり見慣れた銀髪の吸血鬼、レヴィ。その彼が、仏頂面でわたしを見つめていたのだった。
「レヴィ? あんた何してんの?」
 何となく、こそこそとパンフレットを仕舞い込む。レヴィはため息混じりにウェイターを呼び、「ドリンクバー。単品で」と告げた。
「……飲めるの?」
 小声で問い掛けると、レヴィは仏頂面のまま頷いた。
「人間の食事は消化も吸収もされないが、摂取することはできる」
「あ、そう……」
「人間の社会に紛れ込むためには必須だ」
 なるほど。納得するわたしに、レヴィはぎろりとその目を向けた。
「こんな遅くまで何をしている」
「何を……って」
 わたしは思わず言葉に詰まった。
「食事して、ゆっくりしていただけだけど? ほら、明日わたしシフト休みだし。家に帰っても『居候』がいちゃ寛げないし」
「……ちょっと前までさんざん寛いでいただろうが」
 皮肉っぽく言うわたしに、レヴィは悪態で返す。
「食いたいもんがあるならおれに言えばいいだろう……見たところ、糖脂質は十分だがたんぱく質が足りない。サラダもポテトサラダか……葉物が少ないから、ビタミンが不足だな」
 伝票とメニューとを照らし合わせて、レヴィは今夜の食事内容について駄目出しを始めた。本当に鬱陶しい吸血鬼である。わたしは苛立ちもあらわに彼の手から伝票をひったくった。
「何を食べようが、わたしの自由でしょ」
「また、血が不味くなるぞ」
「気に食わないなら出ていけばいいじゃない!」
「……まあ、それもそうなんだが」
 レヴィはあっさりと認めた。あまりにもすんなり応じられたので、内心わたしのほうが慌てたくらいである。正直、急に出て行かれると経済的にちょっと困ってしまうのだ。しかし、
「乗り掛かった舟というか……この前味見したときにはなかなかの味だったし……今手放してしまうのは惜しいというか……」
 真顔で勝手なことをぶつぶつと続ける。わたしは深々とため息をついた。何だか、いろんなことを悩んでいたのが心底馬鹿らしくなる。
「何好き勝手言ってくれてるんだか……。そりゃ、わたしだって外食したい日だってあるよ」
「最近多いじゃないか」
 レヴィの指摘は事実だ。わたしは思わず言葉に詰まった。
「それは……確かにそうだけど」
「それに、外食の日は帰りも遅い。睡眠リズムが乱れると、造血にも影響が出るぞ」
「ゾウケツ?」
「血液を造ること、だ」
「ああ、そう……」
 今更だが、この見た目で健康オタクのようなことを言わないで欲しいものである。
 レヴィはなぜかため息をついた。
「なんだ……おれが家にいて都合が悪いことがあるなら、少し出ていろと言ってくれれば小一時間くらい外にいてやるさ」
「獲物の物色をするの?」
「違えよ」
 レヴィは即答する。
「そんな、見境なくあっちこっちで血を吸うような真似はしない」
「そんなこと仁義のように言われても」
「何にせよ、だ」
 レヴィはえらそうに腕組みをして言った。
「おまえに飯を作らないと暇でたまらん。だから、さっさと帰ってこい」
「……あんた、どんだけ自分勝手よ」
 わたしは言いながら、思わずくすりと笑ってしまった。これだから、この吸血鬼をわたしは心底憎めずにいるのだろう。勝手にわたしの血を吸って、勝手にわたしの家に住み着いて、それでも何となく許してしまっているのは、彼のこういうところが理由なのだと思う。――それすらもこいつの手の内なのかもしれないと思うと、腹立たしいけれど。
 レヴィはわたしがカフェオレを飲み干すのに付き合って、ブラックコーヒーを一杯飲んだ。やはり、味はよくわからないそうで、美味くも不味くもないらしい。
 伝票を持って立ち上がろうとしたわたしから、レヴィはひらりとそれを奪い取った。
「払ってやるよ」
「え、でも……」
「いいから」
「…………」
 わたしは結局圧し負けて、バッグを手に店の出口へと向かった。こうしてみると、改めてレヴィの姿は目立つ。周りの客からはわたしたちのことはどう見えているのだろう……そんなことをうっかり考えそうになって、わたしは慌てて顔を振った。そんなこと、考えるべきことじゃない。考えてしまったら……きっと、妙な表情になってしまう。

 店を出たときには、二十三時を過ぎていた。少し歩くと、そこはちょうどわたしが最初にレヴィに襲われた道である。相変わらず人通りは少ない。
「ねえ」
「なんだ」
 わたしの半歩ほど前を歩くレヴィに、わたしは問い掛ける。
「なんであの場所が分かったの」
「おまえがわざわざバイト帰りに遠出するとも思えんし、入るとしたら手頃なファミレスだろ。最寄りからアパートの間で探せば、すぐに絞れる」
「…………」
 まさに言われた通りなのだが、もうちょっと言い方というものがあると思う。
「だ、誰かと一緒って可能性もあるでしょ……」
「それならそれで構わんがな」
 レヴィはあっさりとそう言った。
「相手がお前を送ってくれるような者であれば……だが」
「へ?」
 わたしは間の抜けた声を上げる。
「それ、どういう……」
「ん?」
 レヴィは立ち止まり、振り返った。
「だって、夜道は危ないだろう?」
 当たり前のように言って、再び歩き出す。その背中に、わたしは――。
「あんたが言うな!」
 思わず肩でタックルをかましていた。癪なことに、彼の広い背中はそんなことくらいではびくともしなかったのだけど。

 そして、わたしはこっそりと決意していた。やっぱり――わたしも勉強しよう。わたしがただの「養分」ではないってことを、レヴィに思い知らせてやるためにも。