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おまえの血は不味すぎる・4

 わたしはごくりを生唾を飲む。
「覚悟はできたか」
 声の主の吐息が耳元にかかって、ぞわりと背中が総毛だった。ぎゅっと目をつぶっているので、その顔は見えない。それでも、脳裏にあの二本の犬歯が――あの鋭く尖った牙が浮かんで離れない。
 あれが、今からわたしの頸に刺さるのか……。
「ね、ねえ」
 わたしは震える声で問い掛けた。
「なんだ」
「本当に……ほんっとうに大丈夫なんでしょうね? 吸血鬼に血を吸われたからって、吸血鬼にはならないのよね?!」
「当たり前だ」
 彼はため息混じりに呟く。
「さっきおまえが食った牛ステーキは、最後まで牛肉だったろうが。その理論でいくと、おまえに食われた牛は途中から人間に……」
「わあああああやめてよそういうこと言うの!」
 思わず飛び退りそうになったわたしの両肩を、大きな手ががしりと掴む。
「いい加減、そろそろ覚悟を決めろ」
「うっ……」
 わたしは閉じた目尻にじわりと涙が浮かぶのを感じた。
「い……痛くしないでよね……あ、あと、あんまりたくさん吸うのもなし……」
「注文が多いな」
 ふっ、とわたしの肩口で笑う気配を感じた。
「安心しろ、味見程度に留めておいてやるー―」
「ううっ……!」
 つぷり、と首筋に鈍い痛み。
「いっ……?」
 だが、それだけだった。
 痛みはすぐに霧散して、その代わりにどこかふわふわと体が浮かび上がるような――そう、まるで眠りに落ちる直前のような感覚が全身を包む。
「ふむ、少しは改善してきているようだ」
 何よ、えらそうに……!
 わたしは我が家の居候である吸血鬼――レヴィへの悪態を脳裏にありったけ思い浮かべながら、ふっと気を失ったのだった。

「経過を見たい」
 我が家の居候吸血鬼、レヴィが突然そんなことを言い出したのは、バイトを終えて帰宅したわたしに食事を摂らせて早々のことだった。
「何のこと?」
 わたしはきょとんとしながら一口サイズにカットされた牛ステーキを頬張る。塩コショウのシンプルな味付けが、結局一番美味しい。
「血の味に決まっているだろう。他にあるか」
 レヴィはわたしのベッドに我が物顔に腰掛け、その嫌味なほどに長い脚を組んでみせた。
「おまえに栄養をつけさせるようにして、もう半月が経つ。効果が出ているかどうか、確認しておかないと」
「ええ?!」
 わたしは思わず箸を取り落としそうになった。
 ――そうだ、この吸血鬼がわざわざわたしの家に住み着いて毎食美味しい食事を提供してくれているのは、しかも食費ももってくれているのは、何もボランティアでしてくれていることではないのだった。うっかり忘れるところだった……というか、忘れていたかったというのが本当のところだ。
 夜道で突然わたしを襲って血を飲んだ挙句、不味いと言い放ったこの傲岸不遜な吸血鬼。
 あまりにもわたしの血が不味いから、改善してやると言ってわたしの家に住み着いてしまったというわけなのだが……そもそも頼んでいない、そんなこと。
 レヴィは鼻歌でも歌いだしそうなくらい軽い調子で言った。
「まあ、血は百ミリリットル程度で十分だろう。よく水分を取っておけよ」
「水分でどうにかなるの?」
「どうにかなるさ。病院でだって、出血イコール輸血、ではない。ある程度までの出血なら輸液で十分対応できる」
「輸液?」
「生理食塩水だとかブドウ糖液だとか……他にもいろいろ種類はあるが」
 わたしはちらとレヴィの顔を見遣った。昔、美術の教科書で見た西洋画に出てくるギリシャ神話の登場人物のような、そんな顔だちをしている。整い過ぎていてどこか現実的じゃないというか……まあ、吸血鬼が現実的な存在かと言われると困るのだけど。それにいくら綺麗な顔立ちをしていたって、吸血鬼なのだから意味はないし……まあ、逆よりいいか。
「なんだ、人の顔をじろじろと」
「いや……詳しいんだなーと思って」
「血を吸うものとしての嗜みだ」
「嗜み、ねえ……」
 白菜の味噌汁をずずっと啜る。
「で? 水分を取っておけば血を吸われても少しは楽ってわけ」
「そうだな」
「……なんでわたしが血を吸われるための準備をしなきゃなんないの」
 わたしはぶつぶつつぶやきながらも、仕方なく麦茶を飲んだ。
「安心しろ、念のため経口補水液も買い置きしてある」
「安心できるか!」
 言い返すわたしに、レヴィは動じる様子もなくにやにやと笑いながら舌なめずりをしていた。
「さてさて、おれの努力は実を結んでいるのかどうか……楽しみだな、智紗」
「ぜんっぜん楽しみじゃない!」
 言い切った後、わたしは箸を置いて両手を合わせた。ごちそうさまでした。

 ――目を開けると、視界に広がっていたのはわたしの部屋の天井だった。いい加減見慣れた、こじんまりとした天井。
「…………?」
「目が覚めたか」
 その声にぼんやりと横を向く。どうやらわたしはベッドに寝かされていて、レヴィはその端に腰掛けわたしを見下ろしているらしい。
 わたしは両手で目をこすった。
「……なんか、ぼんやりするんだけど」
「だろうな。吸血鬼の唾液成分には人間に麻酔として作用する物質が含まれている」
「なんで?」
「ひとつ、痛みの軽減。たとえに出すのも癪だが、蚊も同じだ」
「蚊?」
「蚊に刺されて痛かったことはないだろう?」
「……でも、痒いじゃない」
「それは痛みを感じさせないための麻酔物質を皮下に注入しているからだ。ただし、その物質はアレルギーを引き起こして痒くなる」
「…………」
「ついでにいうと、蚊の唾液には血を凝固させにくくする成分も含まれているぞ。まあ、そのへんは吸血鬼も同じだ」
「……そう」
 でっかい蚊みたいなもんなのね、あんた。
 ぼんやりとした頭のまま言うと、レヴィは珍しく軽く顔をひきつらせた。
「なかなか言うな、おまえ」
「吸われるだけ吸われっぱなしってのもむかつくでしょうが」
 わたしは軽くもがき、なんとか上体を起こした。やっぱり少しふらつくけれど、それにしても目を覚ましたばかりよりはだいぶましだ。その、麻酔とやらの効果がきれてきたのだろうか。
「麻酔の効果はもうひとつある。血を吸った人間に騒がれたり、すぐに追われたりしないようにするためさ」
 ゆらりと揺れたわたしの肩を支え、レヴィは何が可笑しいのか、ふふっ、と笑った。
「よろこべ、智紗。おまえの血はだいぶ美味くなってきたぞ」
「……あっそ」
「なんだ、うれしくないのか」
 至近距離で顔を覗き込まれ、わたしは背を反らしつつレヴィを睨む。
「うれしいわけないでしょ……むしろなんでうれしいと思うの」
「食事療法だけでちゃんと貧血や血の質が改善しているってことだぞ? 良かったじゃないか」
「……前向きね」
「これで全然効果がなさそうだったら、無理にでも病院を受診させるところだ」
「何て言って受診させるのよ……こいつの血が不味いんですって?」
 わたしはつぶやいた。面倒見がいいというか何というか……。
「まあそのへんは何とでも言いようがある。貧血っぽい症状を挙げればいいんだからな」
 幸いおまえの職場は病院にあるじゃないか、とレヴィは言う。
「あの病院、ちゃんと血液内科もあるようだし、一通りの検査はしてもらえるだろうさ」
「……大袈裟ねえ」
 わたしはそう言うとレヴィの腕を押して離れた。うん、もうふらつきもない。
「貧血を甘く見ない方がいいぞ」
「はいはい」
 吸血鬼が何言ってんだか。そう思いながら、わたしは先ほどレヴィが噛んだ首筋をさすった。麻酔のおかげだか何だかわからないけれど痛みはないし、出血もしていない。
「そもそも何だってこんなところ噛むのよ……もうちょっと別の場所じゃ駄目なわけ?」
「別の場所って?」
「ええっと……腕とか?」
 レヴィは渋い顔をした。
「血管が細い分、吸うのに時間が掛かってしまう」
「そういうもんなの?」
「基本的に太い血管は体の中枢――つまり心臓に近い位置に分布しているから、体表から吸うのは難しい。体表に近い位置にある太い血管といえば頚静脈か、大腿静脈……」
「だいたい?」
「ふとももの付け根だな」
「あ、それはないわ」
「おれもあまりそんなところから吸いたくはない」
 引くわたしに、レヴィはそう言った。
「というわけで、首が一番効率がいいということになる」
「……そう」
 ため息をついたわたしに、レヴィは水の入ったグラスを差し出してきた。
「これは?」
「清涼飲料水だ」
「経口補水液じゃないんだ?」
「そこまでじゃないだろう」
 澄ました顔で言うレヴィを睨みながら、わたしはグラスを取って飲み干した。程よく冷えていて美味しい。
「もう一杯飲んでおけ」
 言われるがままに飲みながら、わたしはこっそりと思った――まあ、この程度なら血を吸われるといってもたいしたことはないかもしれない。レヴィにはそんなこと絶対言わないけれど。
「今日はゆっくり休め――風呂も長風呂はやめておくんだな、起立性低血圧を起こす可能性があるぞ」
「きりつせい……なんて?」
「立ちくらみだ」
「ああ、そういうこと……」
「明日はバイトも休みだろう?」
「あれ、良く知ってるね。わたし言ったっけ?」
 首を傾げるわたしに、レヴィはしれっと言った。
「手帳を見た」
「こら、勝手に見るんじゃない!」
 わたしが振り回した拳をひょいと避け、レヴィはさっと黒猫の姿に変わった。――まったく、これも一体どういう仕組みなんだろう。レヴィがさっきまで着ていた服はどこに消えてしまったのか。
『ま、もうしばらくこのままの食生活を続けることだな。きっともっと美味くなるぞ』
 猫は自分の顔を洗うように前脚を動かしながら、そう言った。
「…………」
 それを聞いて、わたしは……。
『智紗?』
「ううん、何も。風呂入れてくる」
 わたしはレヴィから顔を背けるようにして、ばたばたと洗面所に向かった。

 ――何を考えているんだ、わたしは。

 このままの生活が続いてもいいな……なんて。
 いくらレヴィの作る食事が美味しいからって、いくら彼のくれる食費が助かっているからって、そんなの。
「そんなの、間違ってる」
 湯船に勢いよくお湯を出しながら、わたしはそれにかき消されるくらいの声でつぶやいた。
「それに……」
 レヴィだって、いつまでここにいるかわからない。そもそもここに居着いてしまったのも彼の気まぐれに過ぎないのだし。いつ、ふらっといなくなってもおかしくないような相手だ。
 レヴィがいなくなったら、そうしたら――わたしは。
 元の生活に戻るだけ、だ。
 ぎりぎりに切り詰めた生活、目減りしていく貯金、不健康な食事。
 きっと、血もまた不味くなるんだろう。せっかく……せっかくというのもおかしな話だけど、レヴィが美味しくした血も、すぐにまた元に戻る。でも彼がいなくなってしまったら、それももう誰も気にしない。
 そう、まるで何もなかったかのように元に戻るだけ……わたしが望んでいたとおりに。
 ――でも、本当にそれでいいの? わたしはそれを望んでいるの……? わたしは……。
「おい、智紗」
 不意に洗面所の扉が開いた。そこに立っているのは当然、レヴィだ。
「どうかしたのか」
 なかなか戻ってこないわたしを、もしかして心配したのだろうか? わたしの血を吸う吸血鬼のくせにおかしい、そんなの。もし心配したのだとしたって、それは飼い主が家畜を心配するのと同じことだ。それだけだ。
 わたしは首を横に振って、なんでもない、と答えた。
「そうか? それならいいが……」
「何でもないのよ」
 言って、わたしはレヴィを押し退け洗面所を出る。
 もしかしたら、すれ違う時に気付かれたかもしれない――でも、そうだとしても、きっとレヴィは何も言わないだろう。

 彼が興味のあるのは、わたしの血。わたしの涙ではないのだから。