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おまえの血は不味すぎる・3

 いつもと変わらぬ、カフェでのバイト中。ふと、見慣れないひとが店長と話しているのに気が付いた。
「あのひと、誰ですかね」
 ひそひそと共にレジカウンター内に立つ同僚のパートのおばちゃん――いや、年上の女性に尋ねてみると、ああ、と訳知り顔に頷かれた。
「多分、ここの病院の事務方のひとよ」
 そう、わたしの勤めているカフェは全国チェーン店だが、立地としてよくある駅やショッピングモールではなく、とある総合病院内にあるのだ。
「何かあったんですかね」
「あら、知らないの?」
 そう言いつつ、彼女はきらりと目を光らせた。幸い客足は途切れている、今ここで少しばかり話をしていても見咎められることはないだろう――多分。
 彼女はひそひそとわたしに耳打ちした。
「なんかね、うちのごみ箱に注射針が捨てられてたんだって。しかも使用済みの」
「ええ?!」
 わたしは思わず声を上げた。しい、と窘められて慌てて音量を下げる。
「危ないじゃないですか!」
「そうなのよー」
「怪我しちゃいますよね……」
「そうなんだけど、問題はそれだけじゃなくって」
 ここでおひとりお客様がいらっしゃったので、わたしたちは話を中断した。コーヒーとトーストをお出しして、再び彼女は口を開く。
「注射針って、血がついてる可能性があるじゃない」
「血……」
 訳あって、わたしがどうにも過敏になりがちな単語である。我が家に居候しているひとならぬものを思い出し、思わず喉を鳴らす。……決して、それの作る美味しいごはんが恋しくなったわけではないので信じて欲しい。
「誰かの血の付いた針がわたしたちに刺さったら、怪我をするだけじゃすまないんだって」
「どういうことですか?」
 「あれ」の尖った犬歯をちらちらと思い出しながら尋ねるわたしに、彼女はおどろおどろしい口調で説明してくれた。
「その血の持ち主が何か感染症を持っていた場合……ほら、B型肝炎だとかC型だとか、HIVだとかさ、そういう血液を介してうつるようなウイルスがついていたら、その血の付いた針が他人に刺さることでその人にも感染しちゃう可能性があるっていうのよ」
「ええ……?!」
 わたしは思わず両手で口を押えた。彼女はさらに話を続ける。
「わたしの時代はもうそんなことなかったけど、もうちょっと昔は子供の頃の予防接種の針とか、歯医者の道具なんかも使い回ししててねえ。そういうのが原因で肝炎に罹った方もいるのよ。まあ、知られていない時代だったから仕方なかったんだろうけど」
 今はもうそんなことないから安心しなさいよ、と彼女は明るく言った。今や針は一回一回使い捨てだし、複数回使用する医療器具も洗浄して消毒滅菌されているから、と。しかし――いや、わたしは安心できない。
「ま、そういうわけで対策を話し合ってるのよ。とりあえずは『針を捨てないでください』って大きく書いた紙をごみ箱に貼り付けるくらいかしらねえ。あんたも、ごみ捨ての時気をつけなさいよ。あ、手袋してると刺さってもちょっとはましだって言うから、せめて素手はやめときな」
 わたしの母親よりずっと若いはずなのに、彼女はまるでわたしの親のようにあれこれと助言してくれた。
「それから、刺さったらすぐに店長に報告よ。わかったわね?」
 病院にはそういう、医療従事者が間違って自分に使用済みの針を刺してしまった時のマニュアルがあるそうだ。別に刺したからといって必ず感染するわけではないらしいし、B型肝炎のようにワクチンがある場合もある。とにかくこっそり黙っておこうとしちゃ駄目だからね――と彼女はわたしにいやに念を押した。わたしが途中から変な顔をして黙り込んでしまったからだろうか。もしかして過去に刺してしまったことがあるのかも、と心配をかけたのかもしれない。
 実際はそうではない。
 わたしが心配しているのは針ではなくて、犬歯だ。しかも、吸血鬼の犬歯。あの犬歯、まさか使い捨てではあるまい。となると、彼はいろんなひとの血をあの歯で啜っているはず。もちろん、吸ったあとに滅菌消毒しているとも思えない。歯磨きくらいはしているのかもしれないが、そんなもので本当に大丈夫なのか。わたしは知らず知らずのうちに吸血鬼に何か感染症をうつされてしまっているのではないか……。
 だが、そんな心配をしているなんて言えるはずもない。即席で店内のごみ箱に貼られたA4サイズのラミネートポスター(針を捨てないでください! という文字と注射器のイラスト素材が描かれている)をちらちらと横目に見ながら、その日一日わたしは気もそぞろにバイトを終えたのだった。

「なんだ、顔色が悪いな」
 とぼとぼと家に帰ったわたしを待ち受けていたのは、わたしをそんな顔色にした原因の吸血鬼、レヴィだった。なぜ吸血鬼がうちに居候しているのかというと、先日吸ったわたしの血があまりにも不味かったからだそうで、現在はわたしの貧血と栄養不足改善のために、日々美味しい食事を作ってくれている。居候にしては十分すぎるほどのお金もいただいてしまっているし、ほとんどの時間は黒猫の姿で邪魔にならないよう過ごしてくれているので、これでわたしの血を狙ってさえいなければ完璧なのだが……まあそううまい話があるわけもないのだけれど。
 レヴィはいつの間にかどこかで買ってきたのか、黒いカフェエプロンを身に着けていた。家に充満する匂いから判断すると、どうやら豚の角煮か何かを仕込んでいるらしい。
 それにしても全く、見栄えだけはいい男だ。……こいつがうちのカフェでバイトしたらパートさんからも大人気だろうし、お客も増えそうだな、などとぼんやりと思う。そういえば、食材の買い出しいつも近所のスーパーで済ませているのだろうか。もしそうだとしたら、めちゃくちゃ目立つのではないかと思う。そんな男がうちのアパートに出入りして、しかもわたしの部屋にいることが知られたら……まあ、どうせ近所に知り合いもいないし、噂になったところでたいして困りもしないが。
「……誰のせいよ」
 ぼそっとつぶやくと、レヴィは片眉を吊り上げた。
「おれのせいだと言いたいのか? まだ二度目の血も吸っていないのに?」
「そうじゃなくって……!」
「食事も十分摂らせているだろう。勤務中の水分が足りないんじゃないのか? 立ち仕事で足がむくむからといって水分を控えるのは良くないぞ」
「だからそういうことでもなくって!」
 なんでひとの血を吸う吸血鬼の分際で、どこぞの健康オタクのようなことを言うのだ、この男は。
「あんたのその、歯なんだけどさ」
「歯?」
 レヴィは怪訝そうに首を傾げた。
「何の話だ」
 そこで、わたしは今日カフェであったことを説明した――カフェのごみ箱に捨てられていた使用済みの針のこと、パートさんから聞いた針刺し事故による感染症のこと。
「それで、わたしあんたの歯のことが気になって……」
「ああ、なるほど」
 途中からわたしのベッドに腰掛けて話を聴いていたレヴィが、納得したように頷いてその長い脚を組み替えた。
「おれの歯が感染症の媒介になるんじゃないかと、それが心配だったというわけだな?」
「そうよ! そりゃ心配もするでしょ!」
 今はもうすでに跡形もなく消えているが、思わずわたしはかつてレヴィに齧られた首筋を押さえる。
「で、どうなのよ。あんたの歯、安全なの……?」
 吸血鬼の歯に安全も何もあったようなものではない気がするが、それでもわたしは縋りつくようにそう尋ねた。レヴィが小さく口元で笑う。
「――確かに、感染症が吸血動物によって媒介されることはあるな」
「!!」
 わたしは恐怖に立ち尽くす。レヴィは澄ました顔でぺらぺらと語った。
「有名なのはマラリアか。聞いたことくらいはあるだろう? あれはハマダラカに吸血される際マラリア原虫に感染し、赤血球に寄生され、やがて破壊されることによって起こる病気だな。吸血といっていいかは微妙だが、他にもマダニやツツガムシに刺されることによって感染する疾患もある。噛まれてうつるといえば、狂犬病もそうだな……まあ、最近はワクチンが普及したおかげで日本ではあまり問題にはならないが」
「で……で?」
 わたしは震える声で問い詰める。
「あんたはどうなのよ……吸血鬼は……」
「われわれの体内で生存できる細菌やウイルスは存在しない、と言われている」
 レヴィはあっさりとそう言った。
「一族の中でわれわれの体液をあれこれと実験したものがいたようだ。その結果、現在知られている血液を媒介してヒトに感染するウイルスは、われわれの体内では生存できなかった。血液でも唾液でも、だ。……まあ、血塗れの歯で続けざまに噛みついた場合は感染させることもあるかもしれないが、時間を置けばまずあり得ないだろう」
 ようは、感染については安全と言っていいということか。わたしはほっと息をつく。ついでに、余計な一言も口から出た。
「……変わった吸血鬼(ひと)がいたのね」
「そうか? 確か、人間たちの中でHIVが問題になった頃だと思うが」
 レヴィはわずかに目を細めた。
「われわれは確かに血を吸う。しかし、もし何かの感染者から血を吸って、気付かずに次の相手に感染させたらまずい。もしくは――まあ、これは可能性は低いとはわかっていたんだが、自らも感染し発症するようなことがあってはわれわれ自身も困る。あらかじめ調べておくのは大切なことだ」
「なんていうか……一応気を遣ってるってことなのかしら」
「たしなみだ」
 レヴィは堂々とそう答えた。たしなみ……夜道でわたしを襲っていきなり血を吸ったやつが何を言っているのか。
 うさんくさそうに彼を見つめるわたしの視線に気付いたのか、レヴィは鷹揚に微笑んだ。
「安心しろ、智紗。おれがおまえの血を吸ったことで、おまえに何かをうつした可能性はない」
「ほんとに?」
「ああ」
「……わかった」
 吸血鬼の言うことを信じろ、というのも無理があるとは思うのだが、ここでしつこく疑っても仕方がないのでとりあえず頷いておくことにする。それに、病院に行って「吸血鬼に噛まれたので感染症の検査を」なんて言ったら、間違いなく感染症どころではなくなってしまうし。
「血の味で、そういう感染症とかもわかるの」
 思いついて尋ねると、レヴィは肩をすくめた。
「さあな、吸った相手に確かめたことはないから」
「でも、味はあるんでしょ。美味しいとか不味いとか」
「それはそうだが……ウイルスが混入していると不味いのかどうか、というのはわからん。血中でウイルスがかなり増殖していれば味に差は出るのかもしれんが、さすがに明らかな病人から血を吸うことはないしな。たとえば潜伏期間中の、微量なウイルスで味が変わるかどうかは確かめたことはない」
「……なるほどね」
 わたしはため息をつく。レヴィがあんなに不味いと言い切ったわたしの血液って……。
「浮かない顔をするな」
 そう言ってレヴィはにやりと笑い、わたしの手首を掴んで引き寄せた。
「?!」
 よろめいて跪いたわたしの首筋に顔を埋めて、レヴィは囁く。ふわりと立ち込めるレヴィの――何とも言えない甘い香り。蜜を滴らせるような声が、わたしの耳をかすめた。
「だいぶ美味そうな匂いになってきた」
「う、うれしくない……!」
「おれはうれしい」
 手を振り払って、わたしは立ち上がる。にやにやと笑うレヴィを睨みつけ、宣言した。
「つ、次血を吸ったら出て行ってよね!」
「考えておこう」
 ベッドから立ち上がったレヴィはわたしの髪をくしゃりと撫で、部屋の隅にあるキッチンへと向かう。夕食の仕上げにかかるのだろうか。
 コンロに掛けられた鍋から立ち上ってくるいい香りに、わたしのお腹は盛大な音を鳴らす。……まったく、これじゃどっちが飢えているんだか!
 小さく地団太を踏むわたしを横目に見て、レヴィはただにんまりと微笑するのだった。