第三幕 夜明け前 – 第四章
1
駆け込んできた譲は銃を放り捨て、倒れ伏している護とそれに寄り添う彪の元へ走った。
「護……!」
真っ青になる彼女に、護は力なく微笑んだ。
「……久しぶりですね、姉さん」
「医者、医者を呼んで、譲さん。それから――ほかの人は誰もここにいれないで。お願い」
彪が呆然としている彼女に言うと、譲ははっとして頷いた。
「え……、ええ」
すぐさま部屋を走り出ていく譲を見送り、護は大きく息をついた。
「まさか姉さんが……」
――窃を撃ち殺すとは思わなかった。
「……うん」
譲はこの事態を予測していたのかもしれない。彪はそう思ったが、今大切なのは別のことだった。
「護……大丈夫だから。もうすぐ医者が来て、助けてくれる……」
「…………」
護は荒い息をついている。さっきよりもずっと青ざめたようだが、それでも彼は微笑んでいた。それはかつてのようなただの仮面なのか、それとも……。
「僕はね、彪さん……」
護は静かにつぶやいた。
「僕は……ここで死ぬことを……多分、望んでいた」
「え……?」
「五年前、貴方と約束して……五年目の日に……ここで……死ぬことを」
「どうして……?」
彪の呆然とした問いに、護は目を閉じて答えた。
「貴方を殺せなければ、僕は殺される……。分かっていても……僕は、貴方を殺したくなかった……」
「…………」
護が撃たれる前、彪に囁いた言葉を思い出す。銃声にかき消されそうになりながら、それでもちゃんと彪に届いていた。
――僕は、貴方を殺せない。
護は再び眼を開け、困ったような笑みを浮かべた。それはまるで、彪が昔ちょっとしたわがままを言ったときのような。
「うまく言えないけれど……」
「…………」
「貴方は五年前、本当に真っ白で、純粋で……僕とはちょうど反対だと思った……。少しも汚れていない、綺麗な……天使のような」
「…………」
「でも、ひどく孤独に怯えていて、寂しがりやで……自分らしく、『人間』らしく生きることに怯えて……」
「それは……貴方と、同じだったんだよ……」
彪がそう言うと、護は苦笑して頷いた。
「そうかも……、しれませんね」
――僕も寂しかったのかもしれない。孤独で、寂しくて、「人間」としての自分を殺さずにはいられなかったのかもしれない……。
でも、貴方といる間は、寂しさを忘れていた――「しあわせ」だった。
「貴方は……、貴方だけは、僕を『人間』として見てくれましたから……」
それを聞いて、彪は涙を浮かべたまま微笑んだ。
「貴方が最初に殺したのは、他人じゃない。『人間』としての『自分』自身だ……」
「…………」
「でも……貴方は『人間』なんだ……『人間』として生まれたんだよ……! だから」
彪の声が高ぶる。
「だから、『人間』として『しあわせ』になるんだよ……!」
――それこそが、僕の「しあわせ」だから。
透明な、きらきらした滴。涙とは思えないほど美しい、まるで宝石のような……。護は薄く目を開けて、ぼんやりとそんなことを思った。初めて見た彪の笑顔も……こんな風に綺麗だった……こんな風に笑う人がいるんだと、驚きさえ感じた。
――それなのに。
「駄目ですね、僕は……」
手足の感覚が急速に失われていく。それでも護は右手を伸ばし、彼の肩を抱く彪の手に添えた。
「貴方を……泣かせてばかりいる」
「護……」
「貴方の……貴方には……――のに……」
「……え?」
護の唇から零れた言葉が、俄かには信じがたい。
「いま、なんて……」
「……僕は」
護は瞳を開けた。朝焼けのように輝く色が、涙で滲む彪の視界を彩る。
もう一度、息を吸った。
護は痛みと感覚の麻痺に耐え、彪にしがみつく。どうしても伝えたかった。――やっと見つけた、本当の……。
「貴方に、笑っていて欲しかった」
たぶん、それが全てだった――笑っていさせてあげたかった、ただそれだけ。
初めて出会ったときのあの笑顔が、自分に向けられるものとしてはあまりにも綺麗だったから。血で汚れた自分に与えられた、たったひとつの無垢な光――それが、彪だった。
「まも……」
彪の声が遠ざかる。
――僕のために泣いてくれる人なんていないと思っていた。
けれど、きっと彪さんは泣いてくれる。哀しんでくれる。また、泣かせて……哀しませる……。
護は彪の顔を見上げた。泣き顔。
――貴方に似合うのは涙じゃない。
失血のために、強烈な眠気と脱力感に襲われる。
――朝が来たら起こしてあげますって……言ったのに。約束したのに。
護は朦朧とした頭の中で願った。
――最後まで歌って……あの子守唄の続きを聞かせて……。
でも、もう起きられなくなるかもしれない。護は身震いした、つもりだった。体が動かない。
「護、護……っ、いやだ、死なないで……! しっかりして!」
彪は体を震わせて泣いている。彼が悲鳴を上げている。
慰めてあげたいのに……僕は動けない。
――許されない罪の重さが、護を死へと引きずり込んでいく。
許されなくてもいい。
誰にも許されなくてもいい。
彪が今泣いている、それを何とかしてあげられるのなら、自分はどんな罪も甘んじて受けよう。
もう一度彪が笑ってくれるなら、こんなにも罪深い身で、それでも祈ろう。
――この命をもってしても購いきれない罪を背負った僕を、貴方が……。
「……死なないで……!」
――貴方が僕を必要としてくれるのなら。
死にたくない。
2
叶が駆けつけた時、まだ夜は明けていなかった。
王宮の奥まった場所で、ほとんどの者に知られることなく――「彼」が治療を受けている。
別室で譲から全てを聞かされた叶は――何も言うことができなかった。数奇な運命を辿った「火影護」という男。「彼」をどう理解すればいいのか、叶には分からない。ただ悲しみだけが胸に残った。
彪がそれほどまでに慕った人物なら、きっとそれだけの価値のある「人間」なのだろう。――そんな「自分」を、「彼」は自身で長い間必死に殺そうとしていたのだ。
悲しい「暗殺者」を代々作り出してきたこの社会の歪みを思い、叶はやりきれない。彪もそれを感じ、そして「革命」を起こしたのだろう。
「陛下……」
部屋の前の廊下に、彪がいた。叶を見て、首を横に振る。その眼はまだ涙を浮かべたまま、頬にも幾筋もの涙の痕がはっきりと残っていた。
「その呼び方は、もう終わりだよ」
「え?」
「僕はもう『王』ではないから」
「…………」
叶はしばらく逡巡した後、頷いた。
もう彪は「王」という肩書きを必要としない。一人の「人間」として、自分のために――自分の「しあわせ」のために、生きていくだけだ。
しかし、「彼」は命を取り留められるのかどうか……。
もし――もし「彼」が死んでしまうようなことがあったら、彪はどうするのだろう……? 絶望するだろうか。それとも……。
黙り込む叶に、彪は静かに告げた。
「大丈夫だよ」
「え……?」
「護は、大丈夫」
「…………」
「『死にたくない』って、言ってくれた」
彪は見たこともない表情で微笑んでいた。それを微笑みと呼ぶことが出来るなら――これ以上綺麗な表情は他にないに違いない。
「…………」
叶は言葉に詰まった。どんな事情があれ、沢山の人を殺してきた「彼」が今更「死にたくない」とは勝手すぎる、という気もする。彪はまるで彼の心を読んだように――実際そうかもしれない――首を横に振った。
「護は、ずっと……泣いていたんだ。誰かを殺すたび、少しずつ死に追いやられていた彼のこころ――『人間』としての彼のこころは、泣きながら願っていたんだ」
――死にたくない、と。殺したくない、と。
それなのに、殺人を彼に強いていたのは、いったい誰だ?
「彼」は彪を殺せなかった。「人間」として、彼はその選択をした。自らの命を一度は捨ててまで、彪の生を望んだのだ。
――殺したくない、と。
「陛――彪さんは」
叶は言い換えた。
「貴方はどうして彼をそんなにも……信じることができたのですか」
「……どうしてだろうね」
彪は笑った。
「前も言ったと思うけれど……僕は信じるべき人を間違えたことはない」
「…………」
「それに――先に信じてくれたのは、護かもしれないよ」
彪はぽつりとそう言った。
五年間もの長い「約束」は、互いの信頼なしでは成り立たなかった。きっと、「約束」は始まったときから――その意味を失っていたのだ。
「僕は、何も後悔していない」
彪は目の前の床を見据えて呟いた。叶に聞かせるわけでもなく、無論護に聞かせるわけでもなく――恐らくは、自分に向けて。
「護も『自分』で決断したことなんだから、きっと後悔していないはず」
――貴方に逢えて良かった。
窃の銃口にさらされながら、護はそう彪に言った。死の直前に護が想ったことは、それだったのだ。
――貴方に逢えて良かった。
彪は口の中で呟く。どんな悲しみが待っていても、どんな苦しみに襲われても、それは変わらない。
――僕に「しあわせ」を教えてくれたのは、貴方。だから今度は貴方が、「しあわせ」に。
廊下の窓が、うっすらと光り始めている。
――夜明けは、近い。