第三幕 夜明け前 – 第三章
1
多分、これは姉の望んだことではない。
窃には良く分かっていた。姉は翳を愛していたし、護のことも愛していた。たとえ彼らが人殺しとしての運命を義務付けられていようとも、その手を血で汚しても、それは変わらない愛だった。
――それが妬ましかったのかもしれない。
どうして姉が翳を愛せるのか、彼にはわからなかった。
翳は彼らの父母を殺した。姉が十八、窃が十三の頃だ。
氷雁は火影の遠縁にあたる血筋なのだが、何らかのトラブルが起こったらしい。窃は良く知らない。
その後、窃と莢は火影家の者に引き取られ、姉は翳と年齢が近いという理由で彼の子供を産むように命じられた。窃は次代の暗殺者となる子供のサポーターとなることを決められた。選択権などなかった。
実のところ、翳は普段とても優しい男だった。窃もそれは認めざるを得ない。護もそれは同じなのだが――とても人当たりがよく、相手の嫌がるようなことは決してしない。自己主張をすることも、他人に干渉することもない。まるで水のような淡白さ。他人に興味がないのか、興味がないように振舞っているのか……それは分からない。
翳に接する機会は少なかったが、時折会うと何故かお菓子をくれた。翳は甘いものが好きだったらしい――そんなところまで護に似ていて苛立たしい。
莢に対しても翳は紳士的に振舞い、組織の者が苛立ちを見せるほどであった。
一度、どうして姉をそんな風に扱ってくれるのか尋ねたことがある。彼はとても意外そうな顔で窃を見て、
「だって、君は彼女が一番大切なんだろう?」
それが理由じゃないか、とでも言うようだった。案外本当にそれが理由だったのかもしれない。「仕事」では他人の大切な人を――その命を――あっけなく奪いとっているというのに。
姉は次第に翳に惹かれていった。それは姉の立場にとっては望ましいことだったのだが、窃にとっては腹立たしかった。
「でも、彼は本当はいい人なの」
莢は二言目にはそう言った。
「『仕事』だって、したくてしてるんじゃないわ」
「そんなこと、言い訳だ」
つっかかる彼に笑って、
「ええ、言い訳ね」
と姉は認めた。
「好きなのよ。結局のところ、それだけなの」
「…………」
「あの人には好きになってはもらえない。それでもいいと思えるくらい、私は彼が好き」
「姉さん……」
「好きじゃなくても、彼は私を必要としていると思うわ。それは本当。私の入れるお茶が一番美味しいんだって。落ち着くって言ってくれたの」
「……そんなの、俺だってそう思うよ」
そのとき胸を襲ったのはどんな気持ちだっただろう。窃はもうよく覚えていない。三十年近く昔のことなのだから。――ただ、憎んだ。翳を。後に生まれた翳の子供を――護を。
護はいつか姉を殺す。窃はそのことを知った。母親である莢は護を「人間」にとどめてしまう可能性の最たる存在。だから殺さねばならないのだということを。
やがて――姉は死んだ。
だが、彼はその頃には気付いていた。彼に残された復讐の手段。護の監視者としての役割が、彼にもたらしてくれる機会――護を殺す機会。
いつか、彼が誰かを特別に想うようになれば、彼が「人間」としてのこころを取り戻したなら、窃は彼を殺すことができる。窃がそれに気付いたとき、どれほど嬉しかったことか。
そんな日は、必ず来る。翳がそうだったように――「人間」は「人間」をやめられないのだから。
姉の願いは護が「しあわせ」を見つけることだった。それはすなわち、護が「人間」に戻ること。
それなら、彼が「しあわせ」を見つける手伝いをしてやろう。護が自分の心に気付けるように、虚偽の依頼をしてやろう。――あの王を殺してくれなんて依頼はなかったのだ。いや、あれは窃自身の依頼なのだ。
護は気付いたはずだ――自分にとって、あの王がどういう存在だったのか。
「しあわせ」だと思っただろうか。姉の望みどおりに。
だが、その後は決まり通り――護は死ぬ。彼が、殺す。そして、あの「組織」を解体する。少しずつ、少しずつ、窃が五年間を掛けて準備してきたこと。火影家を滅ぼして、ようやく彼の復讐は完了する――すべては、彼の計画通りだ。
窃の指が引き金にかかる。
銃口の先で、護は彪に囁いた。
「僕は、貴方を殺せな」
――その言葉を最後まで聞くことなく、窃は護の背中に向けて発砲した。
2
子守唄が聞こえる。
澄んだ声……ボーイソプラノ。これは五年前の彪さんの声。彪さんが教えてくれた、子守唄。
そうだ、いつの間にか彪さんの声は少し低くなった。五年も経ったのだから。
それでも――貴方は変わらない。
護は眼を閉じていた。
わき腹と背中に感じた灼熱。その痛みが何故か今は感じられない。
――貴方が歌っているから?
歌ってくれたのはただ一度。けれど、彼は忘れなかった。忘れられなかった。ある日ある時ふと気まぐれにその一節が口から滑り出て、彼をひどく戸惑わせたものだった。
あの時、彪は歌っている途中で眠り込んでしまった。その後、どう続くのかが分からない。同じフレーズを何度も何度も繰り返し唱えて――分からない。
今も続きは歌ってくれない。同じ場所をぐるぐると繰り返すだけだ。けれど、それでもいい……このまま聞いていたい。体中の力が抜けていく。眠りへと導く歌に、護は問い掛けた。
――眠ってもいいんですか? 僕はもう……このまま眠っても……。
「違う……」
護の手が、ぴくりと動いた。
「護……違うよ、こんなの……」
彪は歌ってなどいない。泣いている。
「僕の、僕の望んだのはこんな……」
彪は床に倒れこんだ護の傷口を押さえ、泣き叫んでいる。その手は護の血で真っ赤に染まっていた。
「こんな『終わり』じゃない……!」
眠っては駄目。終わらせては駄目なんだ。
彪の涙が護の頬にぽたぽたと落ちる。
「『始まる』んだ……護の人生は、これから……」
護はうっすらと眼を開ける。
「彪さん……」
話しかけようとして咳き込み、護は血の塊を吐き出した。
「護……!」
彪は泣くのをやめ、立ち上がろうとした。
「誰か……医者を呼ばないと!」
「待って、下さ……っ」
護は彪を引き止め、体を起こそうとして激痛に襲われる。
――痛い。
彪が慌てて護に寄り添い、そっとその体を支えた。
護は荒い息をつく。
――痛いのは、体よりも……むしろ、こころだ。殺したはずの、彼のこころ。痛みに血を流している。
自分はまたこうして、自分を「好き」だと言ってくれる人を泣かせてしまう。母さんと……彪さんと。
――彼の笑顔はあんなにもきらきらして……。
「護……」
何か言おうとする彪をとどめ、護は言葉を紡いだ。
「いか……ないで」
「え?」
「行かないで、下さい」
護ははっきりとそう言った。
「でも……っ」
彪が強張った泣き顔で、護を見つめる。
「貴方に、ここに居て欲しい」
呼吸が少し楽になった護は、そう言うと彪の肩に頭を凭れさせた。
――もし、彪が戻ってくる前に死んでしまったら……自分は、
「寂しい……から」
彪は息をのみ、大きく頷いた。
「大丈夫。銃声が、響きましたから……放っておいても、誰か、来てくれる、でしょう」
「しゃべっちゃ駄目だよ。護、しゃべらないで……」
護はふと窓に気配を感じ、視線を動かした。
「死に損なったか」
そこに窃がいる。彼は未だ硝煙の上がる銃を構えていた。
「今度こそ殺してやる」
護は静かに眼を閉じる。
――分かっていた。窃が自分に憎悪を抱いていることも、自分を殺す日を待ち望んでいたということも。今日自分に告げた依頼すら、本物かどうか分からない。彼は気付いていたのだろうから――僕が彪さんを殺せないということに。
――僕はもう、「暗殺者」じゃない。だから、殺されても仕方がない。
護は眼を開けた。
「彪さん」
銃口が自分に向いているのを自覚しながら、護は彪の手をぎゅっと握り締め――囁く。どうしても、伝えたい一言を。
「 」
彪の顔が涙に歪む。そして――彪は窃を見据えた。
「護は殺させない」
回りこむように移動して、護をかばうように抱きしめる。
「絶対に、殺させない」
窃は苦笑を浮かべたが――動揺は隠せないようだった。
「護は、絶対に殺させない!」
彪はそう叫んだ。
「…………」
窃はじっと彪を見つめる。その暗い色にも気圧されない、彪の澄んだ瞳。
「貴方が護を殺したら、僕は貴方を殺す。絶対に探し出して、貴方を殺してやる」
護は、驚いたように彪を見つめた。彼に人を殺すことなどできるはずがないではないか。彪の手を握り締める。こんなに優しい手を……どうか、汚さないで欲しい。だが、彪は強い眼差しで窃を睨みつけていた。
そこに、護は王としての彼の威厳を感じて思わず息を飲む。窃もわずかに怯んだようだった。
「殺人犯は、絶対に探し出す」
「それで? 終身刑に処するとでもいうのか」
呆れたように窃は銃口を彪に向けた。
「あんたも一緒に殺されたいか?」
「覚悟はできている。命を懸けた仕事は、もう……終わった」
即位したときからずっと、彪は命を懸けていた。改革を進めながらも、いつ反対派の凶弾を浴びるかと――隣国の暗殺者に命を狙われたことすらあったのだ。そのくらいの覚悟ができていなくては、今のこの国はありえない。
彪は首を大きく横に振って叫んだ。
「でも、護だけは……護だけは!」
――まだ、護は「しあわせ」になっていない……!
窃は鼻で笑い飛ばした。
「そいつが一体何人殺したと思っている? そいつは自分の母親まで殺したんだぞ?」
「…………」
彪が口をつぐんだ隙に、窃は言い募る。
「『暗殺者』は『人間』であってはいけない。『人間』は『人間』を殺してはならないのだから。『人間』が『人間』を殺せば殺人犯……。そいつはもう『暗殺者』ではなく、『人間』だ。殺人犯なんだ。生きることは許されない。さっきあんたも言ったろう――俺を殺人犯だと。それなら護は既に立派な殺人犯だ。……お前も分かっているんだろう? 護」
冷笑を浮かべる窃から、護は目を逸らす。荒い息をつきながら、彼を胸にかばう彪の顔を見上げた。
「わかっていますよね? 僕は……『暗殺者』だったんです。殺されて文句の言える立場じゃない……」
「そんなこと、関係ないよ」
彪は静かな口調でそう言った。
「『暗殺者』だったのは、僕の知ってる護じゃない。僕の知ってる護は、『人間』だもの。いつだって、『人間』だった」
「…………」
護が思わず一瞬息を詰める。
「誰よりも優しくて、僕を理解して、守ってくれた。『しあわせ』を教えてくれた。――『暗殺者』になんかできるはずがないことを、護は僕にしてくれたんだ……そうでしょう? 護はずっと、『人間』だったよね? 『人間』でいたかった、そうだよね……?」
「…………」
護は無言で彪の胸に顔を埋めた。泣いているのだろうか? 窃は眉をひそめる。あの護が、泣く? 信じられない。
「だから、今度は僕が――護を……」
彪の頬を、透明な滴が伝い落ちた。唇が、小さく震えている。
「お願い……」
零れた声は、か細かった。
「お願い……護を殺さないで……」
立て続けに流れる涙。
姉の泣き顔が一瞬、窃の頭に残像のように蘇る。
――誰よりも泣いて欲しくなかった人だったのに、彼の記憶ではいつも泣いていた。その涙に、窃はいつも苛立った。泣くくらいならどうにかすればいいんだ、と。最愛の夫の運命を、わが子の運命を、自分の運命を……変えればいい、そう思った。
――ずっと俺は……苛立っていたんだ。
窃は二人から目を逸らして部屋の扉を見つめる。強い殺気を感じたが、もうどうでも良かった。
「……姉さん……の、負けだ」
苦笑のような笑みを浮かべ、彼は銃口を二人から逸らした。
「俺の負けだ」
部屋の扉が開き、飛び込んできた銃弾に窃は吹っ飛ばされる。
不意に、彼は思い出していた。
――姉さんはいつも翳が来ると聞くと……長い間お茶葉を蒸らしていた……。
彼を撃った女。その顔に、姉の面影を見て……。
――姉さんはやっぱり、俺よりも護を選ぶんだね……。
何故かそのことに安堵して――窃は落下した。