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第三幕 夜明け前 – 第二章

  1

 ――泣かないで……護……。

「僕は貴方を殺しに来たんですよ。彪さん――」
 以前よりはずっと位置の高くなった、彪の髪を撫でながら、
「確かに今年ずっと依頼は来なかった――ええ、貴方の頑張りには驚きましたよ――それでも」
 護の顔がかすかに歪んだのは、一体どうしてだろう。彪はぼんやりと思った。
「それでも依頼はあった」
 窃にそれを告げられたのは先ほどだった。思い出して、眉をしかめる。――あの時感じたものの正体は一体――。
 護は全てを振り払うように、目を閉じて呟いた。
「貴方を――殺して欲しいと」
 彪は目を見開いたまま立ち尽くした。
 ――やはり、自分では駄目だったのだろうか……? 護を「しあわせ」にすることはできないのだろうか……?
 改革の後、たくさんの国民が「しあわせ」になったという。それは誰もが口を揃えて言うことだ。
 それでも彪が一番「しあわせ」にしたかった人間は、今もこんなに「しあわせ」から遠い場所にいるのか……。

 ――それなら、もう……いい。
 
「……うん……」
 彪は蒼ざめた顔で呟いた。
「わかった」
 僕は護を救えなかった……。
「わかったよ」
 僕は護を「しあわせ」にできなかった……。
 不思議と涙は出なかった。目も唇もからからに乾いてしまったようだった。
 ――怖くはない。護が怖いなんて、そんなことあり得ない。
 僕が死んだら、護はこれからもずっと「しあわせ」を知らないまま……。
 ――悲しい。ただただ、悲しかった。護が可哀相だった。
 彪は手をぎゅっと握り締めた。
「貴方が父様を殺して……僕の前から立ち去って……譲さんに貴方のこと教えてもらって……『暗殺者』であるために『自分』自身を殺してしまったんだって聞いて……哀しかった……。ほんとに哀しかったんだ。だってそんなの……そんなの、生きてる意味がない……護はせっかく生きてるのに……生まれてきたのに……」
 だから必死で国を変えた。それが護を変えることに繋がると信じていたから……護を「しあわせ」に出来ると信じていたから……。
「でも……」
 できなかった。
 護は変わらなかった。
 護を「しあわせ」にすることはできなかった。
 それなら……。

 ――命をもって、贖う覚悟。それは五年前にできていた。
 
「殺しても、いいよ」

 五年前と同じ彪の台詞――だが。
「…………」
 護の反応は同じではなかった。戸惑ったように彪を見つめている。
「何故、貴方は……」
 戸惑いを覚えている自分にすら戸惑っているように、護の瞳が揺らいでいた。自分のために全てを擲ち――自分のために殺されようとしている彪。
 何故……?
 こんなに綺麗な――純粋な人が、何故自分なんかのために……どうして……?
「…………」
 護は息をつき、眼をしばらく閉じた。
 「仕事」の前に、こんなに動揺を感じたことはなかった。銃を取り出そうとポケットに入れた手が、かすかに震えていることを自覚する。
 この弾丸を、彼の体に突き刺すとして――僕は一体どこを狙えばいいのだろう。いつものように……頭だろうか。このまっさらな、光をそのまま梳いたような金髪を血で染めるというのか?
 護の躊躇を知ってか知らずか、彪は護を見つめて口を開いた。
「ごめんね……」
 護の顔が、歪で見える。それが己の涙のせいなのか何なのか、彪にはもうわからなかった。
「護を……『しあわせ』にできなくて……ごめん……」
「…………」
「五年前……貴方は僕に、『しあわせ』を教えてくれたのにね……」
 ――僕は、貴方が好きだったのに。
「嬉しかった、誕生日の花束……毎年くれたよね?」
 彪は泣き顔で微笑んだ。あの天使の煌きを宿し、彪は護を見つめる。
「ありがとう……」
「…………」
「毎年枯らしちゃって……悲しかった。いくら大事にしても、やっぱり駄目で……」
 彪は何かに憑かれたように喋り続けていた。
「それから……護、僕が誕生日にケーキを作ったの、覚えてる?」
「ええ……とても、美味しかった……」
 護はぼうっと呟いた。彪は嬉しそうに頷く。
「あれ以来、僕はひとつもケーキを食べていないんだよ。……『約束』したもんね。一緒に作ろうって」
「…………」
「でも……駄目だったね」
「…………」
「ごめんね……」
「…………」
 何故、貴方が僕に礼を言うのか。謝罪の言葉を紡ぐのか――ただ護は黙って、彪を見つめることしかできなかった。彪が怪訝そうに眉を寄せる。
「護……? どうしたの……?」
 彪は護の両頬に手を伸ばした。
「顔が、真っ青だ……」
「…………」
「ねえ、何か言って……」
 彪の青い瞳は、次々と涙を零した。きらきらと輝く雫が、護の手を優しく濡らす。
「何か言ってよ……! 僕に教えてよ……!!」
 ――護は今、何を感じているの。何を思っているの。
 ――護の「しあわせ」は、どこにあるの。
 護は泣きじゃくりながら取りすがる彪を前に、ただ立ち尽くしていた。

 腕に抱えた熱い塊。
 人間。

 そう、僕が殺してきた――人間。
 泣いている。
 泣いているのは……僕のため……? 
 僕のために、泣いている……?

 ――そうだ。

 護は額を手で押さえた。
 激しい頭痛。
 この場面を僕は知っている。
 よく似たことが昔あったような気がする。

『ま……も……る』

 ――ああ、そうだ。
 護は小さく吐息を漏らした。
 母さんを殺したときだ。
 ――あのとき――。
 記憶が押し寄せてくる。
 あのとき僕は雨の中で……。
『泣いているのか?』
 そう聞かれたとき、僕は雨に濡れて……。
『いいえ』
 そう答えた。
 本当は……本当はあのとき……。
「僕は……」
 震える腕を、華奢な背中に伸ばした。声が引きつってかすれる。
 彪は、驚いたように目を見開いた。
「護……?」
「僕は」

 あのとき……。
 母さんを殺したとき……。
 初めて僕を「好き」だと言ってくれた人を殺したとき……。

「僕は」

 雨の中、頬を濡らしていたのは雨ではなかった。別のものだった。
 自分でも気付かなかったけれど、あれは……。

「僕は――泣いていたんだ……」

 あれは涙だったんだ……。
 護は彪の髪に顔を埋めた。歯を食いしばり、鳴咽を塞き止める。

「今と同じように――泣いていたんだ……」

 気付いたときにはもう止めることはできなかった。まるですがりつくように、彪を抱きしめる。

 ――あんたに、あの子は殺せない。

 隣国の暗殺者の遺言。あれは遺言などではなく、予言だった……。

 ――僕は……僕は彪さんを……。

 彪は顔をあげ、驚いたように護を見つめた。当たり前だろう。護が彪の前で泣いたことなどないのだから――いや、物心ついてからずっと、護が泣くことなどなかった。泣き方など、知らなかった。自分には涙など流せないと思っていた。そんな資格などないと、当たり前のようにそう思い込んでいた。だが――違った。
 彪はすぐに表情を緩め、護の頬を伝う涙を優しくぬぐう。昔、護が彪にそうしてやったように……。
「まもる……泣いてるんだね」
 ――さっき、護が泣いているような気がしたのは、勘違いではなかった。
「護はずっと……泣いていたんだね」
 彪は優しく、優しく、護に囁く。まるで幼子をあやす母親のように、我が子を包み守ろうとする父親のように。――かつての護が、彪にとってそうであったように。
「ずっとこころの奥底で、泣いていたんだ」
「…………」
「だって護は優しい人だもの……そんな護が、『暗殺』なんて」

 ああ――暖かい。
 護は頭痛が徐々に引いていくのを感じていた。
 かつて、護は家庭教師として彪を守るように言われた。だから、それに従った。
 だが、あの束の間の平穏な日々の中で、守られていたのは自分の方だったのだ――こんなに小さな手で、貴方は僕を「人間」に繋ぎとめていた……。
 彪の手に頭を撫でられながら、護は眼を閉じる。
 ――そうだ。あの日々が、僕の「しあわせ」だったんだ。

 だから、
 もう……終わってもいい。

 護は彪の耳元に自分の唇を寄せた。
「彪さん……」
 護は呟いた。
「僕は……、
 貴方を……、
 殺せな
 
 ――ガウンガウンガウンガウン!!

 護の体に赤い火花が咲いた。