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第三幕 夜明け前 – 第一章

  1

 譲は十三歳になるまで母親と暮らしていた。
 父親とはずっと別々に暮らしていたが、母は父をとても愛しているようだった。それは、子供である譲の目からみても明らかだった。
 父は時折思い出したように母を訪ねてきたが、そのときは必ず譲は離れに移動しなければならなかった。譲は父と会ってはいけない。そう決められていたからだ。
「どうして? どうして私は会っちゃいけないの?」
 一度だけ、そう尋ねたことがある。母は悲しげに笑って答えた。
「お父さんはね、誰のことも好きになっちゃいけないの」
 ――父親が「暗殺者」であるということは、彼女の耳に入っていた。父親も彼女らも、すべては特殊な「組織」によって管理されているということも。それをどこまで理解できていたかは分からないが、その職業の特殊さ行為の残酷さ――そういったことは分かっていたように思う。
「誰かのことを好きになったら、お父さんは殺されちゃうの」
「……お父さんは、お母さんが好きじゃないの?」
 そう聞くと、母はますます悲しげな顔になった。
「そうよ、だって私が好きにならないでって頼んでいるもの」
「…………」
「私はお父さんが――(かげる)さんが好き。大好き。でもね、私はあの人に好かれなくてもいいの。そんなことより、あの人に生きていて欲しいから」
 そういう母は、母親の顔ではなく一人の女の顔をしていた。
「でも、好きな人に好かれないのはとても苦しいことよ。私は我慢できるけど……」
 母は口を切り、譲を見つめた。
「譲も、きっとお父さんが好きになると思うわ。だって父親ですもの。それに――とても綺麗な人」
「きれい?」
「ええ、そうよ」
 母はとてもしあわせそうに笑う。
「ふうん……」
 昔見せてもらった写真を思い出す。
 母親の言うとおり、確かに綺麗な人だった。だが、瞳だけは怖いくらいに赤く、それが「徴」なのだと――自分にはなく、双子の弟にはあったものなのだと、母に聞いた。目の色の印象のせいか、自分とはあまり似ているようには思えなくて、この人が自分の父親なのだという実感がわかなかったのを覚えている。
「だから、貴方がお父さんを好きになったら……貴方は苦しいと思う。だってお父さんは貴方を好きになってはいけないのだから」
「…………」
「それにお父さんが貴方を好きになったら……死んでしまう。殺されてしまうのよ」
「……どうしてお父さんは人を好きになっちゃいけないの?」
 譲のもっともな質問に、母親は困ったように眼を伏せた。
「お父さんは人を殺すのが『仕事』なの。……誰かを特別に思ってしまえば、少なくともその人のことは殺せなくなる。それは許されないことなのよ」
「……わからない」
 母親はため息をついた。
「いいこと、譲。貴方は人を殺したりできないでしょう?」
「うん」
「どうして?」
「……だって、かわいそう……それに、私も死にたくないもの」
「そうよね」
 母は微笑んだ。
「たとえば貴方の好きな人が死んだら……と考える。もしくは、貴方が死んだら貴方を好きな人はどう思うか……を考える。それは辛いことね」
「うん」
「翳さんにはそれが分からないの。誰のことも好きじゃないから。誰にも好かれていないと思っているから。人の命にも、自分の命にも興味がない。でも、さっき譲が言っていたその気持ちを知ってしまったら……辛くって、もう人なんて殺せないわね」
 ――ああ。
 譲は納得し、そして胸にどうしようもないやるせなさと、切なさが溢れ出すのを感じた。
「……わかった」
 幼い譲の眼から涙が零れる。
「お父さん、かわいそうね。とってもとっても、かわいそうね」

 誰よりも父がかわいそうでならなかった。
 誰も好きになってはいけない。誰にも好かれてはいけない。
 なんて悲しいんだろう。

 譲は涙をとめることができず、母はそんな彼女を抱きしめることでしか慰められないようだった。
「……護もそうなっていくんだわ」
 うめくような母の声はとても苦しげで、譲の胸が塞がった。
「護も……きっと」
 ――彼女の双子の弟、護。
 父親とも母親とも……無論姉とも会うことはできない、次代の「暗殺者」。
「でもね、譲」
 母は譲の背中を優しく撫でる。
「誰かに好かれない人なんて居ないのよ。そうでしょう? 私は翳さんが好きだもの」
「……うん」
「私にできることはね、翳さんに好かれることを望まないように……あの人を好きでいることだけなの」
 ――母さんはそれでいいの?
 あのとき、譲は聞けなかった。
 ――好きな人に好きになってもらえなくていいの?
 翳が殺されるというなら、殺されないように守ればいいのに――できるはずもないことを譲は思い、そして口には出せなかった。
 今もそうだ。彪にこのことだけは言えずに居る。護がもし彪の元に戻ってきて――そして少しでも彪を特別に想うようになったら。彼は、きっと……。

  2

 実は、譲は父親に一度だけ会ったことがある。それは母も知らなかったことだ。
 ――父の死ぬ、少し前。そして、それは母の死ぬ直前でもあった。
 ある日学校から帰ってきた譲は、ちょうど家から出て来た男――それが父親の翳だった――とばったり出くわしたのである。
「おや」
 その背の高い人は秋とはいえまだ暑いというのに、黒ずくめの暑苦しい格好をしていた。そうは言っても彼自身汗をかいている様子はない。
 端正な顔立ちと、赤い瞳。今から思えば、護にとてもよく似ていると思う。
 瞳の色を見ただけで、彼が何者か譲には分かった。足がすくむ。
「君……(さや)に似ているね」
 母の名を呟いて考えた翳は、やがて小さく声を上げた。
「そうか、君が僕の娘か」
「…………」
 譲は黙り込むしかない。
「いつも離れに追いやってしまってすまないね」
 それは、十年以上離れ離れになっていた父が娘にかける言葉とは思えないほど、ひどくあっさりしていた。
「でも……、きっと僕はもうすぐ死ぬ」
「え?」
 思わず声が出た。翳は微笑を崩さない。
「死ぬって……」
 翳が死んで、弟が後を継ぐことになれば母は殺される。そのことは譲も聞き及んでいた。顔から血の気が引くのが分かる。
「ごめんね」
 父親は再び謝った。
 ――この人が本当に殺人者なのか。譲の胸に当惑が広がる。
 甘い響きを帯びた低い声、優しげな微笑み。母の言う通り――とても綺麗な人だ。
「莢はずっと僕を愛してくれていたんだよね」
「…………」
 意外な言葉を聞き、譲は立ち尽くす。
「うん……莢には気付いていないふりをしていたけれどね、何となく……気付いていたよ。知っていたけれど……それに応えないようにしていた。それが莢の望みだったし、僕自身どうでもよくってね」
 ――そうだったはずなんだけど……。
 父はそう言って苦笑いする。
「でも……もういいんだ。彼女の本当の望みは……僕に好かれることじゃないかって思えてきたし、僕はきっと彼女のことを……」
 譲は聞き間違いではないか、と思った。
 しかし――父は確かにこう言った。
「莢を好きだったんだよ」
 ――と。
「駄目だなあ。僕も、僕の父親と同じだ。結局こうして殺されていくんだ」
 父親には死への恐怖はなかった。――少なくとも、譲にはそのように見えた。
「でも、悪くないよ。莢を道連れにしてしまうのはかわいそうだけれど……それは僕にもどうしようもないことだし」
 翳は少し悪戯っ子のように微笑んで見せた。
「僕の最期のわがままだ。君のお母さんを連れて行くことを……許して欲しい。僕には彼女しかいないからね……」
「……でも、でも私」
「ごめんね」
 また、謝る。
「でもこれしかないんだよ。僕と莢が『しあわせ』になる方法は」
「『しあわせ』……?」
 譲の頭にかっと血が上った。
「そんなの、私認めない! 死ぬことが『しあわせ』なんて、私絶対に認めない!」
「…………」
 翳は激昂し、目に涙を浮かべた譲を、優しく赤い眼差しで見つめていた。そして、ぽつりと言う。
「……君は強い子だ」
「え……?」
「もし――君がその強さを持ち続けられたなら」
 翳は一歩足を進めた。
「護の手伝いをしてやって欲しい」
「手伝い? 何の……手伝いを」
 まさか、暗殺の手伝いをしろというのか、と譲の顔が引きつる。だが翳は笑って否定した。
「彼が死なずに『しあわせ』になれるような……手伝いだよ」
 ――似たようなことを母親に言われたことを思い出す。
 護の「しあわせ」……それを両親は望む。
 それでは、私は? 私の「しあわせ」は、一体どこに……?
 ――私はやはり、所詮護の「影」なのか……。
 父は言葉を重ねた。
「それから……君も『しあわせ』になって欲しいな。それを見届けたら、君はこの『家』の血を引くという呪縛から開放されるだろうからね」
「…………」
 ――そうか……。
 父の言葉を噛み締め、譲は頷いた。
 ――きっと彼の言うとおりだ。
「……お父さん」
 呟くと、父は驚いたように眼を見開いた。
「初めてだな。そんな風に呼ばれたの。護にだって、会ったことないのに」
 照れくさそうな顔をして、父は譲を一度だけ抱きしめた。広い胸。暖かい腕。それを、譲は一生忘れることはないだろう。
「……ごめん」
 彼が何に対して謝ったのか――もうどうでも良かった。

 それから一週間後、父は殺された。
 そしてその十日後――母が殺された。

 墓は隣り合わせに建てることを許された。それだけが彼らの「しあわせ」なのだと――譲はその前で泣いた。
「生きて『しあわせ』にならなきゃ……意味がないじゃない……」
 ――だから、護は。
 護には「しあわせ」を見つけて、そして生きていて欲しい。それが「暗殺者」のしきたりに反することでも、そんなことはどうだっていいではないか。
 父親はきっと最初から最期まで「人間」だった。それをそうでないように見せていたのは、彼の孤独。周囲の人間によって作り上げた、孤独の殻のせいだ。
 人は「人間」でないものになんてなれるはずがない。
 譲はそう思う。
 護はいつまで――孤独の殻に閉じこもっているのだろう。彪があんなに護のことを想って、考えているのに……彼は彪をどう想っているのだろう。

 そして――彪は、護に何を望んでいるのだろう。

 あれから十三年――不意に記憶が鮮明に蘇ってきて、譲は深夜、何故か寝付けなかった。

  3

 同じ日の夕暮れ。家を出ようとした護は、聞き慣れた声に呼び止められた。
「どこへ行く?」
「……窃さん」
 護は一瞬警戒の表情をひらめかせたが、やがてそれは消えた。
「何か用ですか?」
「王宮へ行くのだろう? 『約束』とやらを果たしにな」
 護の横顔が強張った。窃の顔が残酷な愉悦の笑みに歪む。
「ちょうどいいな」
 窃は囁くように告げた。結局「約束」とやらの内容は護にはぐらかされて知ることはできなかったが、まあいい。
 窃は護の肩をとんとん、と叩いた。
「『仕事』だ。久しぶりだな」
「!」
 護は弾かれたように振り向いた。眼に見えて青ざめた表情。――彼のこんな顔は、初めて見た。窃はそのことに満足し、胸のうちで舌なめずりをする。――ようやく、
「誰を、ですか」
 護の声が掠れた。
「王だよ」
 ――ようやくこのときが、
「お前はあの王を殺すんだ」
 ――ようやくこのときが来たよ。
「……分かりました」
 護は答え、歩み去った。その顔色は窺えなかったが、それでも……。
 ――長かったよ、姉さん。
 窃は静かに微笑み、ゆっくりと歩き始めた。
 ――やっと貴方の復讐ができる。
「貴方を殺した護に、ね……」
 空には爪で引っかいたような三日月が、薄くその色を滲ませていた。