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第二幕 天使の羽化 – 第四章

  1

 護の誕生日、彪は手作りのケーキを焼いた。
 王宮のシェフたちに協力してもらって、美味しく、そしてきれいにできあがるようにと苦心した。
 一番苦労したのは護に悟られないことで、何しろ彼は彪の気持ちを何でも読み取ってしまうから、飛び切りの嘘まで用意しておかなければならなかった。けれど、彪が何か護に知られたくないことをしているらしい、と気付いた護は敢えて何も聞かなかった。そういうところが他の人とは違う、護の優しさなのだろうと思う。
 ホイップクリームをあわ立てて、スポンジを焼いて、チョコレートで飾り付けをして、イチゴもちゃんと円形に並べた。
「殿下は器用ですな」
 料理長は本気でそう言ってくれていたようだ。
「貴方の教え方が上手いんだよ」
 そう言う彪も、少し誇らしげだ。
 彪はそれを箱に丁寧に収め、護の部屋に向かった。
「護? いる?」
 ノックして護を呼ぶと、彼の声がすぐに返ってきた。
「ええ、どうぞ」
 彼の足音がドアのすぐ側まで聞こえて、扉がさっと開かれる。
「彪さん。……何ですか、その大きな箱は?」
 驚いたような護の顔。彪は笑みを零しながら部屋の中に入る。
「これ、護にあげる」
「え?」
 護は彪の顔をまじまじと見つめた。
「お誕生日おめでとう」
「…………」
 無表情に茫然と箱を見つめる護に、彪は不意に不安になる。――日を間違えただろうか、それとも……。
「あの……」
 動揺をにじませる声に、護ははっとしたようだった。端正な顔に、いつもの笑みが戻る。
「ああ、すみません。あまり意外だったので……誕生日に人からプレゼントをいただくのって初めてですから」
「本当? 初めてなの?」
「ええ」
 護は彪の辛そうな表情から目をそらし、手にした箱のリボンを解いた。――その顔に新たな驚愕が浮かぶ。
「これ……もしかして、彪さんが?」
「不細工だから、ばれちゃったかな」
 茶化す彪の髪を撫でて、
「いいえ……、僕なんかのためにこんなことをしてくれるのは、貴方だけですからね」
 と呟いた。それは何だかとても苦しそうな声で……彪はそれを振り切るように食器と皿を用意した。
「ねえ、一緒に食べよう。僕がケーキを切るから、護はお茶を入れて」
「ナイフ、危ないですよ? そっちを僕が」
「大丈夫だよ。……それに、護はお茶を入れるのが上手だもの」
「そうですか? それなら……」
 護は立ち上がってお茶の用意をし始める。
「そうだ」
 思い出したように護は振り向いて、
「僕もね、貴方にプレゼントがあったんです」
「え? なあに?」
 驚いて顔を上げる彪に、護は微笑みかけた。
「そこの、サイドボードの上。見て御覧なさい」
「…………」
 何気なく視線を動かして、彪は声をあげた。
「これ、母さんの……!」
 金色に煌く細い指輪。確か、池に落としたと思っていたのに。
「大切な形見なんでしょう?」
 護の声に頷きながら、そっと手に取る。
「これ……どうやって……」
「池に落ちてはいなかったんですよ」
 護はそう言った。
「側の草むらにひっかかっていたんです」
「……そうだったんだ……」
「貴方の指にはまだ少し大きすぎるんでしょうね。指にはめるのはもう少し大人になるまで待った方がいい」
「……うん、そうする」
 彪は素直に頷いてそれをポケットにしまった。
「ありがとう……本当にありがとう!」
「どういたしまして」
 護がお茶をテーブルに運ぶ。
「さあ、貴方のケーキをいただきましょうね」
「うん。……美味しくできてるといいんだけど」
「僕は甘党なので、ケーキは大好きなんですよ」
「え?!」
 彪は意外な言葉に眼を見開いた。もともと好き嫌いはないと聞いていたが、護は良く自分のぶんのケーキを彪に分けてくれるから、どちらかといえば好きではないのかと思っていた。あれはただの、自分への気遣い……?
 彪の驚きに気がついたのか、護は言葉を付け足した。
「一度にたくさん食べるのは苦手なんです。……もちろん、こころのこもった手作りなら別ですけれど」
 彪は微笑む――これだから、この人は。
「ケーキ作りって、結構楽しいね。今度は一緒に作ろう?」
 もともと、彪はひとつのことに熱中しやすい性格をしている。どうやら今度はお菓子作りが気に入ったようだ。
「いいですね」
 護は微笑んで見せ、彪のケーキをほおばった。
 ――本当は、もうすぐ彪の側にいられなくなることが分かっていた。きっとお菓子作りも一緒にはできない。それなのにどうして……。
「美味しいですよ、彪さん」
 護は心からそう言った。舌を蕩かすような甘みが、とても心地よい。
「良かった」
 彪は心底嬉しそうだった。笑顔がきらきらと輝いている。
「今度は何作ろうかなあ。護、何が好き? どんなのがいい?」
「何でもいいですよ」
 ――だって、僕はきっと貴方と一緒には作れないのだから。
 護はイチゴを口にする。甘酸っぱくて美味しい。
「チョコレートケーキは? なんだか護っぽいよね」
「僕は熱いところで溶けるんですか?」
「チョコレートケーキって何だか大人っぽいでしょう? 決めた、それにしよう。護はチョコレートケーキ好き?」
「ええ、大好きですよ」
「じゃあ、料理長さんにお願いしておこうっと」
 僕は作れないのに――それなのにどうして、このケーキはこんなに美味しいのだろう。

 護が沢山食べたことを、彪はとても喜んだ。
 それでも、護の頭の中には唯一つの問いだけが廻っていた。
 ――どうしてこのケーキはこんなに……。

  2

 ――時節が到来した。

 護は宮中の通路は既に全て把握している。王の部屋の場所も彼の習慣も全て。
 じっと、時を待っている。
 下手に目撃者を作れば全て消さねばならないから、できれば人の目につかないようにしたい。いくら彼が殺す術に長けていても、大勢の人間を殺すのは彼にとって面倒なことだった。
 護の誕生日から十日ほど経った日の――深夜。
 護は彪を寝かせつけた後、そっと抜け出した。彪はよく眠っているようだった。
 護はその寝顔をちらりと見た。彼の荷物は、今夜中に何者かの手によって運び出されてしまうことだろう。彼が彪の側に居た痕跡は失われ――そして王の死だけがここに残る。全ては「家」のものたちによって、仕組まれている。護自身はただ、殺して去るだけ。一年間ここにいた自分が疑いを掛けられない理由を、護は知らない。どうだっていいことだからだ。
 彪は例のハーブティを飲み、健やかに寝息を立てている。
 ――二度と会うこともないでしょうね。
 護はその頬に触れようと手を伸ばし、思い直して手を引っ込めた。これから人を殺すこの手で、この子に触れていいわけがない。
「さようなら」
 小さく呟くと静かに微笑して、部屋を抜け出た。
 ふたりで撮った写真を、彪が持っているのは知っていた。しかし――忘れていたことにすればいい。今ここで探し出し、持ち去るのは危険だ。まるで言い訳のように、護は目を逸らした。
「……さようなら」
 きっと貴方は僕を忘れる。写真があれば忘れないだろうか。
 ――僕は忘れられたくないのだろうか。
 貴方は僕が父親を殺したのだと、気付かないままでいるだろうか――誕生日プレゼントのブローチは、いつまでも貴方の胸元を飾っているのだろうか。
「あのケーキ、美味しかったですよ、彪さん」
 唇が綻びる。だが護は拳銃を手にするやいなや、全ての表情を掻き消した。
「さようなら」

 同時に、彪の長い睫毛が震えた。青い瞳が大きく開く。
「……護、さようならって……言った?」
 動悸が激しくなる。――護は、ここを出て行くのだろうか?
「まさか、黙って行くなんて……そんなこと」
 本当に辞めるというのなら、せめて彼の口から理由を聞きたい。ちゃんと納得させて欲しい。
 彪は寝間着にガウンを羽織っただけの姿で、部屋を出た。暗く長い廊下が彼の前に続き、昼の様子とは全く違っていた。その先に何が待つのかも知らずに――彪は駆け出した。

  2

 さすが父親だ。彪とどこか似ている。金髪も、恐怖に見開かれた瞳の色も。彪のこんな恐怖に引きつった顔はあまり見たくないな――護は足元に転がった王の死体を見ながら思った。額には銃弾に穿たれた穴。
「さて」
 護はため息を吐いた。
 ――見たくない、と思ったばかりなのに。
「どうして……」
 振り向くこともなく、彼は言う。
「どうして僕についてきたんですか、彪さん……」
「………!!」
 扉のすぐ横に呆然と佇んでいた彪の手首を、身を翻した護が掴む。
「どうして……?」
 気の抜けたような声でつぶやかれた彪の問いに、護は困ったような笑顔を浮かべた。
「良く眠っているはずだったのに――そうすれば、寝ている間に全てが終わっていたのにね……」
「どういうこと……さよならって……ううん、」
 彪は声を絞り出した。
「なんで、護が……護が父様を……?!」
「それはね」
 護はそっと彪の耳元に口を近づける。まるで普段の内緒話のように、優しく囁く。
 
「僕が『暗殺者』だからですよ」

 護が……?
 護が父様を殺した……?
「嘘だ――」
「嘘じゃありません」
「夢、だよね――」
「違います。現実ですよ」
「…………」
「おや」
 彪はずるりと崩れ落ち、護の腕に支えられた。
「それはそうと、僕の仕事は王だけ。貴方のことは放っておくつもりだったんですが……」
 彪の見開いた目から涙が零れ落ちた。護はそれを眼下に見下ろしつつ、苦笑する。
「目撃者は『消す』。それが僕らのルールなんですよね」
「え……?」
 ぼうっと聞き返す彪に、護は苦笑する。
「貴方を殺す――。そういうことです」
「僕を……?」
 護が?
 僕をしあわせにしてくれた護が……?
 護が――僕を殺す……?
 彪の頭の中は真っ白で――ただ彼のくれた言葉たちが渦巻いていた。

 ――こんにちは、彪さん。

 ――僕の前では……構いませんよ。泣いても。甘えても。わがまま言っても。

 ――朝がきたら、起こしに来ますからね。

 ――約束しますよ。

 護の優しさも、言葉も、温もりも、全部。彼を欺く嘘だったのだろうか……護が彪に与えたものは全部、まやかしに過ぎなかったのだろうか……?
 ――それでも。それでも……僕は護の側で、確かにしあわせだった。
「……も……」
 彪は護のシャツをきつくつかんだ。歯を食いしばる。
「彪さん?」
 不思議そうな護の声は、相変わらず優しかった。そのことが、どうしようもなく悲しい。
「も……いい」
「え?」
「もう、いいよ」
 おそるおそる、護に縋りつく。彪は嗚咽を噛み殺し、言葉を繋いだ。
「もう、いいんだよ」
「…………?」
 護が怪訝そうな顔で彪を見る。その赤い瞳を、彪は真っ直ぐに見上げた。
「貴方が僕にくれたものが全部嘘でも……貴方が僕の父様を殺した人でも……貴方が本当は僕のことなんてなんとも思ってなくても……それでも……」
 護のシャツの上に彪の涙の染みが広がる。
「それでも、貴方が僕にくれたしあわせは本物だったから……だから、その貴方が僕を殺すって言うなら……それでも、いい……」
 護は無言で彪を見つめている。
「僕は、護に出会って変わった……変われたんだ……」
 彪の澄んだ声が、夜の闇の上で波紋を描く。
「昔の僕は、自分の殻に閉じ篭もって、自分で自分を孤独の中に閉じ込めて……父様の影に怯え、母様の思い出にすがって……すごく、情けない王子だった」
 涙が止まらない。それでも彪は語り続けた。
「護は、そんな僕にすごく良くしてくれた。勉強だけじゃなくて、いろんなことを教えてくれて……何があっても僕を支えてくれた。理解してくれた。護はそんなつもりじゃなかったのかもしれないけど……でも、貴方のその手がいつだって、僕の背中を押してくれていたんだよ……」
 この一年、自分でも大きく成長したと思う。それは護の影響が何よりも大きかった。変わろう。変わりたい。そのきっかけが、彼だったのだ。
「僕は貴方のようになりたいと思った。憧れていた……。貴方が僕をしあわせにしてくれたように、僕も貴方をしあわせにしたかった」
 護の手が少し、彪の髪の上で強張った。
「僕が……貴方を、しあわせに?」
「そうだよ」
 彪は顔を上げた。微笑む。
「前、どうして誕生日を祝うのかって、貴方は聞いたよね」
「ええ……」
「僕は答えた。――生まれてきたしあわせを、感謝するためだって」
「…………」
「僕は――貴方が生まれてきたことを、しあわせだと思ってる。今でも」
「…………」
 護はただ黙っていた。彪は何かに憑かれたかのように話し続ける。
「でも――でも、僕には貴方をしあわせにする方法がわからなかった。貴方はいつだって笑っていたけど、……しあわせかどうかは、わからなかったから」
 ――それはそうだろう、と護は思う。彼自身、しあわせとは何かがわからない。自分が彪に与えたと言うしあわせすら、何のことを指すのか良くわからなかった。――ただ、護は自分がしたいように、すべきだと思うように行動していただけ。それだけだったのだ。
「だから……僕は」
「貴方の言うことは、僕には良く分からない」
 護は肩をすくめた。彪はそんな彼を見つめている。青い瞳は絶望と虚脱感に彩られていたが、それでもなお奥に澄んだ光を宿していた。
 ――いつも護を戸惑わせた、侵しがたい輝き。これを、僕は今から消してしまわなければならない……。
「どうして、殺されてもいいなんて言えるんですか……?」
 護の標的となったもので、そんな風に言うものは今までいなかった。彼を前にすると誰もが跪き、命乞いをして泣き叫んだ――死にたくない、殺さないでくれ、と。
 彪はふわりと微笑んだ。その表情に、恐怖はない。
「僕は王子で――次期国王なんだ。忘れないで。国民のしあわせのために、僕らは存在しなきゃいけない」
 護に買い与えてもらった本の中に記されていたこと――王とは私利私欲のために在ってはならない。ただ、国民のしあわせだけを望み、それを叶えるべく国家を統治すべきなのだ。そして――。
「それが叶うべくもないとき、死をもって贖う覚悟をしなければならない……」
「…………」
 涙はまだ止まらない。それでも、彪には護に伝えたいことがあった。
 ――護に分かって欲しい。
「護はいつか僕の国民になる。――それなのに、僕は護をしあわせにしてあげられない……」
 大切なひと一人しあわせにできなくて、どうして王として国民皆をしあわせにできるだろう。
 ――誰よりも、貴方をしあわせにしたかったのに。
 護は彪の手首を離した。
「だから……」
 彪は護の胸に額をついて顔を俯けた。
 
「殺しても……いいよ」

「……………」
 護は彪の髪を撫でた。
 ――貴方のケーキは、とても甘くて……美味しかった。
 冷たい拳銃が彪の額に押し当てられた。
 彪はびくっと顔を上げ、護の眼を見つめる。その顔には恐怖よりも悲しみが色濃かった。深い青は、護に打ち寄せる波のように迫ってくる。
 護はその瞳から眼を背け、撃鉄を起こした。
 餞の優しさを、その声音に込めて。
「そうしましょう」

 
  3

 ――バン!

 不意に部屋の扉が開き、二人は振り向いた。息を乱した譲が立っている。
「姉さん」
 護の言葉に、彪は驚いて譲を見つめた。
 ――え……? 「姉さん」……?
 護は彪の額から拳銃を離し、譲に向けて微笑んだ。
「用がおありならもう少し待っていてくださいませんか、姉さん。目撃者を消しますからね」
「…………!!」
 びくん、と体を震わせて顔を上げる。
「殿下を――?!」
「ええ。彪さんを、殺すんです」
 はっきりと口に出す。その台詞を改めて耳で聞くことで、護は何故か落ち着いた。――そう、何も変わらない。いつも通り、護は仕事を遂行するだけだ。
「駄目よ!」
 叫ぶ譲に護は苦笑する。
「駄目と言われましても……。邪魔はさせませんよ、姉さん」
「今、外には衛兵が詰め掛けている」
 譲は立ち上がった。
「私が合図すればすぐにここに踏み込んでくるわよ。貴方が私を殺すよりも早く」
 護は眉を顰めた。
「やっかいなことをしてくれますね」
 流石に衛兵全てを殺すのは手間がかかるし、大騒ぎになるだろう。何より、「家」の整えた手筈が台無しになってしまう。
「どうしましょうか、彪さん」
 彪の顔を見詰め、護は微笑む。
「ここは一度退いてそれから殺しに来る――といっても姉さんが承知してくれそうにないですしね」
 考え込む護をじっと見つめ、不意に彪は悟った。護は――いや、目の前にいるこの「暗殺者」は、自分のために生きているのではないのだと。ただ、「仕事」をするためだけに生きているのだと。護はかつての自分とよく似た、とても「寂しい」人なのだと――。
 
 ――やっぱり僕と護は、似ていたんだね。
 
 彪の唇に場違いな微笑が浮く。
「僕に……時間を下さい」
「え?」
「五年間、待って下さい。僕を殺すのを待って欲しいんです」
「何をするんです? 五年間も」
 彪は涙を拭った。瞳に決意が溢れる。叶の本で読んだ言葉を思い出して、彪は言った。
「この国を、変えてみせます」
「……?」
「貴方が『暗殺者』として生きなくてもいいような、そんな国にしてみせる。誰もが愛する人を失わなくてもすむような――誰も自分のこころを殺さなくてもすむような――」
 譲がはっと彪を見つめる。
「誰もがしあわせになれるような……」
 護は軽く首をかしげて彪の話を聞いている。相変わらず、護が何を考えているのかは分からなかった。
「僕が四年をかけて国を変えて、五年目の一年間に貴方のところに全く依頼が来なくなったら……貴方の『仕事』は必要がなくなったと言ってもいいと思うんだ。違う?」
「まあ、そうでしょうね。一年に一件もないなんて、今までで一度もありませんでしたから」
 不可解そうな色を瞳に浮かべたまま、それでも護は頷いてみせる。
「そうしたら、仕事のなくなった貴方をまた僕が雇うよ」
 彪は護の手を自分の頬に押し当てた。ぴくりと震える指先をしっかりと抱きしめ、
「『暗殺者』なんかじゃなくて、『護』という一人の『人間』として――しあわせになって欲しい」
 ――貴方に本当のしあわせを見つけてもらえるように。
「姉さん、そういうことでしたらこの場は見逃してもらえますか?」
 護の問いに、譲は首を縦に振った。殿下なら――いや、彪さんなら、護を変えられるのかもしれない。「暗殺者」として殺してしまった護の感情を、蘇らせることができるかもしれない。――母の願いが叶うのかもしれない。
「それなら五年間お待ちしますよ、彪さん」
 護は彪の手の中から、さっと自分の手を引き抜いた。
「それでいいですね? 貴方がもしこの国を『楽園』のような――そんな国に変えられなければ……僕は貴方を殺しますよ。いいですね?」
 彪は頷く。
「わかりました」
 護は微笑み、窓を開けた。
「それでは……」
「――護!」
 彪は護の背中にしがみつく。護は振り向かない。
「覚えていて。僕は……僕は貴方が好きだった」
「…………」
「貴方が僕の父親を殺した人でも……それでも……貴方は僕に、本当の父親以上のことをしてくれたんだよ」
「…………」
「今まで、ありがと……」
「…………」
 涙でつまってしゃべれなくなった彪の耳に、護の低い声が届いた。
「すみませんね」
「……え?」
 護の横顔は妙な微笑を浮かべていた。笑いたくもないのに笑っている、そんな表情。
「僕はもう、朝が来ても貴方を起こしてあげられない」
「…………」
「チョコレートケーキも一緒に焼けない」
「……いいんだ」
 彪は呟いた。
「貴方が『約束』を守ってくれさえすれば……五年間待ってくれさえすれば、そうしたら、僕はきっと貴方にしあわせを教えられる」
「……もう、行きますよ」
 護は彪をさえぎり、軽く振り払う。彪が一瞬たたらを踏んだその隙に、護は窓を抜け出た。
「護!」
 手を伸ばした先にある冷たい窓枠。
 冷たい冬の夜の風が彪の髪を乱す。捜し求めた護のシルエットはどこにもなく、彪はその場に崩れ落ちた。

 譲がそっと彪に歩み寄る。彪は俯いたまま言った。
「貴方は、護のお姉さんだったんですね。……似てると思ってた」
「彼は、私の……双子の弟なんです」
 譲は呟いた。
「ずっと別々に育てられていたけど……まぎれもなく、彼は私の家族です」
「護のこと、教えて」
 彪は顔を上げた。頬は再び涙に濡れていた。
「教えて、譲さん」
 譲は耐え切れなくなって、彼を胸に抱きしめた。
「あの人を――あの人を変えられるように――」
 鳴咽が激しくなり、慟哭が夜に響いた。
「あの人をしあわせにできるように――」

 ――もう一度僕が、しあわせになれるように……。