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第二幕 天使の羽化 – 第三章

  1

「一体いつまで待たせるつもりですか?」
 ――それは窃自身が護につい先日にも言われたことであった。目の前の依頼主は渋い顔で窃を見ている。
「もうすぐ十一月になります。彼は何も貴方がたの専属ではないのです。他の『仕事』にも支障が出る」
 実際は他の仕事も並行して受けているにも関わらず、窃はのうのうと嘘をつく。
「分かっている、分かっているよ」
 その初老の男はそう言って、窃の言葉をさえぎった。
「その分の報酬は上乗せさせてもらう。それで良いだろう?」
「まあ、それならば……」
 しぶしぶ、と言った態で窃は頷く。男は言った。
「うちの組織には強硬な暗殺反対者がいたのだが、彼らは分派を作って出て行った。もうそろそろ準備が整う。あと一ヶ月ほどかな」
「……結局、一年近くかかったというわけですね」
 窃はわざとらしくため息をついた。同じように、護もこの間会ったときにため息をついていた。そして言ったものだ。「こんな面倒なことになると知っていたら、受けるのではなかったですね?」――と。
 窃も曖昧に同意しておいたが、実はそうも思っていない。
 ――護は動揺している。王子に出会い、ともに過ごし――あの純粋無垢な存在を、自分の中でどう扱ったら良いのか迷っている。こんなことは初めての経験だろう。
 しかし――迷っているだけではまだ駄目だな……。
 「家」のためでも他の誰のためでもなく、純粋に窃自身のために。
 護には……彼の父親のように……。
「そういえば」
 目の前の男が声を発し、窃は思考の中断を余儀なくされた。
「君のところの『暗殺者』氏だが……最近王子に妙なことを教えているそうだね?」
「は?」
 窃は聞き返した。
「いや、これは王宮に居る我々の仲間から聞いた話なのだが」
 男は先ほどとは打って変わって淡々とした口調で言う。
「王子は最近『イデアリスト』たちの思想に興味を持っているそうだ。もしかしたら彼が教えたのかな?」
「まさか」
 窃は肩をすくめた。
「思想や信条なんて、彼にはありませんよ」
「そうか……。じゃあ王子が自発的に興味を持った、というわけだろうか?」
「そうだと思います。彼がやったのは、まあ、そういうのは王族たちのタブーだということも考えず、『イデアリスト』たちの本を与えてやったということくらいでしょうね」
 窃の推理は概ねその通りだった。――しかし、彪が「イデアリスト」に興味を持ったその理由に、護が関わっているということまでは思い至らなかった。
「そうか……王子はやはり殺すべきではないかもしれないな」
 男のその言葉に、窃は頷いておいた。――きっと、その方が彼にとっては都合がいい。

  2

 彪は一人、バルコニーで本を読んでいる。その著者は真野叶という人物で、地下の王制打倒組織に属する人だと護に聞いた。
 王制を打倒したいってことは――僕のことも嫌いなのかな。
 そう思うと胸が痛んだが、それを護に言うと、首を横に振っていた。
『この人たちは貴方のことを知らないのですよ。知らない人を嫌うなんて、馬鹿げているとは思いませんか』
 それでは彼らは何が嫌いなのか。護はその問いにこう答えた。
『彼らが憎むのは、王制という制度です。一人の意思で国民全員の命運が決められてしまう、そういった社会を彼らは憂いているのですよ』
「僕は、皆のことなんて決められない」
 彪はつぶやく。
「だって、皆のしあわせが何なのかなんて……僕にはわからないから」
 ――国民のしあわせを願うこと。それこそが王にとって必要不可欠で、それでいて今までの王が持ち合わせていなかったものなのだということを、彪はまだ知らない。
 彪は腕の中の本を大切に抱えた。護が街で買ってきてくれた本だ。
 彼は時折休みを取って街に出ていくが、そういうときはいつも彪が興味を持っていた本や、欲しかった物などを買ってきてくれる。ちょっとしたときに発した言葉や感情の動きを、護はいつだって覚えていてくれるのだ。
 ――どうして、護は僕の心の中がわかるんだろう。
 彪は首をかしげた。
 自分の想いを読み取ってもらえるのは、とても嬉しいことだ。誰にも分かってもらえなければ、寂しい想いをする。彪はそのつらさを良く知っていた。
「僕も護のことを分かりたいなあ。……もらってばかりじゃなくて、護の欲しいものをあげたい」
 ――僕も、護をしあわせにしたい。生まれてきたことをしあわせだったと、心からそう想うようになって欲しい。
 国民全てのしあわせを目指す「イデアリスト」と呼ばれる人たちがいることを知って、彪は興味を持った。護も、その他の人も、みんなみんなしあわせになって欲しい。
 ――そうしたら、僕もきっとしあわせだから。ずっとしあわせでいられるから。
 彪のこころを一抹の不安が過ぎった。『誰かのしあわせを犠牲にした上で手に入れたしあわせは、きっといつか覆される』――この本にはそう書いてあった。
 今、国民の多くはしあわせでないという。それなのに、王子である自分がしあわせに浸っていていいのだろうか……。
 彪は空を見上げた。誓いを立てるように、つぶやく。
「僕が王になったら、きっとみんなをしあわせにしよう……」
 国民のしあわせのためにせいいっぱい尽くそう――そうしたら護もきっとしあわせで、僕もしあわせだ。
 そう全てがそう上手くいくかどうか、未だ幼い彪には良くわからない――それでも。
「何も努力しないより……きっと良くなるから」
 それも、本に書いてあったこと。
 ――だったら僕は努力する。このしあわせを守れるように、できる限りの努力をする。
「…………」
 青い空に薄く広がるうろこ雲。空の様子は晩秋の訪れを告げていた。
 護の誕生日は、もうすぐだということだった。彪は考える――何をあげたらいいんだろう。どうしたら喜んでくれるんだろう。
「護……誕生日祝ってもらったことがないみたいだった」
 子守唄も知らないと言っていたし、母親はどうやら早くに亡くなったのか、遠く離れたところにいたか、どちらからしい。あまり記憶もないようだった。
 その話を聞いたとき、彪は自分を恥じた――自分には母親の思い出がある。愛された記憶が残っている。自分のことを世話してくれる、たくさんの人がいる。それなのに、護に出会う前の僕は誰よりも孤独だと――世界で一番孤独なんだと思っていた。それはただの甘えに過ぎなかったということに、彪は今になって気付いた。
 どんな事情があったにしろ、自分がこころを閉ざしていたから、自然に一人ぼっちになってしまったのだ。王子である彪に声を掛けられると身構える者も多いが、それでもこちらから話し掛けている内に相手もこころを開いてくれる。そのことに、彪は最近になって気付いた。誰も彼の親代わりはしてくれなくても、話し相手にはなれるのだ。それで十分だと、彪は思う。
 ――これらは全て、彪は護とともにいるうちに学んだこと。だからこそ、彪は護の誕生日を祝いたい。こころからの「ありがとう」を込めて。
「誕生日のお祝いの基本は……やっぱり」
 彪は微笑んだ。頭に浮かんだアイディアに、彪はひどくわくわくした。
「護……喜んでくれるといいんだけどな……」
 彼の笑顔を見ていると、彪はとてもしあわせな気分なれるのだ。
 ――もしかして、護は僕と似ているのかな。
 不意に彪はそう思った。――護もお母さんがいなかったと言っていたし……寂しかったこともあったのかもしれない。
「だから、護は僕のことを理解してくれるのかな……」
 それはとても自分に都合のいい考えで、彪は思わず苦笑する。
 ――それでも、もしそうなのだとしたら、僕も護のことが分かってあげられるようになるはず。
「護のしあわせのために、僕に何ができるかな」
 彪は真剣な瞳を空に向けた。
「護は僕にしあわせをくれた。だから、僕も護をしあわせにしたいんだ」
 ――僕は護に何をしてあげられるの……?
 何度問い掛けても、胸の奥に浮かぶ護は首を横に振るだけで、何も答えてはくれなかった。

  3

 それから一週間ほど後の昼下がり。王宮内は騒然とした。
 侍女の一人から報告を聞いた譲は色を失う。王子が庭の池に落ちたというのだ。王子は一通り泳げるはずが、あまり得意ではない。それもこんな晩秋の冷たい水の中――危険だ。
「それで、殿下はご無事?!」
「はい、家庭教師の方がすぐにお救い申し上げたそうですから……とっさのことで誰も動けないうちに、飛び込まれたそうです。気絶なさっていたようですけれど、生命に別状はないって」
「…………」
 ――護が助けたのね……。
 複雑な心境ながら、ほっとする。
「王子様、あの家庭教師の方ととても気が合われるようですね」
 侍女は微笑んで言う。利発で素直な王子は、実のところ皆から好かれていた。厳格で高圧的な王よりずっと親しみやすいし、何より彼はとても優しい。身分による差別もしない。
「以前はもっといつもお寂しそうだったのに……。明るくなられました」
「……そうですね」
 譲も力無く微笑んだ。
 一体いつ、終わりが来るのだろう。護の「仕事」には必ず終わりがある。「標的」の死という、終わりが。
 そして、その終わりが来たとき。私には何ができるだろう――。

 ――落としてしまった母親の形見の指輪を追いかけているうちに、気が付くと冷たいものに体を包まれていた。胸がぎゅっと痛くなる。
 ずうっと沈んで、息ができなくて、いくらもがいても楽にはなれなかった。苦しい。足をとられ引きずり込まれるような感覚。
 ――助けて!
 声は息となって彪の肺を締め付けた。
 たすけて――たすけて、護!!
 
「――っ!!」
 彪は目を開けた。自分の部屋の中だ。服は着替えさせられ、毛布に包まれている。
「大丈夫ですか?」
 護はぐっしょりと濡れた服のまま、彪の顔を覗き込んでいた。意識が戻るまで、自分は着替えもせずにずっと彪に付き添っていてくれたらしい。
 ――そうだ。あの時僕の体を引き上げてくれたのは護だった。水に飛び込み、抱き上げてくれた……。
「大……丈夫……」
 体が冷えたせいか、唇が強張ってうまくしゃべれない。
「大丈夫……だから。護も、風邪ひいちゃう……」
「僕は大丈夫ですよ」
 護は笑ってくれるが、彪の表情は冴えない。
「ごめん……迷惑、掛けて……」
「迷惑だなんて思っていません。でも」
 護は屈み込み、彪の目を覗き込んだ。赤い瞳は、少し厳しい色を湛えていた。
「気をつけなければ駄目ですよ。お一人のときでしたら、本当に危険でした」
「うん……ごめんなさい」
 彪は俯く。本当に、護の言うとおりだった。そしてこんな状況でもただ自分を心配してくれる護の言葉が、涙の出るほど嬉しい。
「指輪は、後で僕が探しておきますから」
「いいんだ、指輪は、もう」
 彪は顔を上げた。
「護も落っこちたら危ないし……もういいよ。仕方ない」
「僕は貴方と違っておっちょこちょいじゃありませんよ」
 茶化したように笑いながら、護は首を横に振った。
「大事なものなんでしょう?」
「……それは、そうだけど」
「だったら無理しないでいいんです。……もちろん、見つからない可能性はありますけどね」
「うん。……本当に、ごめん」
「僕が好きで探すんです。気にしないで下さい」
 ――さすがに寒くなってきたので、部屋に帰って着替えますね。護はそう言った後、思い出したように付け加えた。
「お風呂の準備もしておきましたから、落ち着いたら体を温めて下さいね」
「あ……ありがと」
 彪は目を見開く――本当に、この人は……。
 何故そうまで彪のことを優先してくれるのだろう。彪のことを大切にしてくれるのだろう。彪はまだ、護に何もしてあげられていないというのに……。
「本当に――ありがとう……」
 一人になった部屋の中、彪は小さくつぶやいた。

  4

 窓の外は、雨が降り出していた。
 護は髪をぬぐいながら、外を見やる。シャワーを浴びたおかげで、体は随分温まった。まだ芯のほうが冷えているが、それは何か温かいものを飲めば何とかなるだろう。
 響き渡る雨音が、別の記憶を呼び覚ます。
「あの人を殺した日は雨の日だったな……」
 護は小さくつぶやいた。
 
 ――秋の終わり頃。彼は十三歳になったばかりだった。そう、今の彪と同い年の時。
 真っ赤な紅葉が舞い散る中で、それよりも真っ赤な――血。
『ま……も……る……』
 細い指が彼の服を握り締める。彼のものと同じ黒い髪が濡れて顔に張り付いていた。返り血を浴びながら、護は崩れ落ちる「彼女」を支える。
『あなたに、会えて良かった……。ずっと、会いたかったの……』
 あの頃の護よりもさらに背の低い、小柄な人だった。
『大きく……なったのね……』
 「彼女」はごぷり、と血を吐いた。泥の上に落ちた血がびしゃびしゃと音を立てる。その血が妙に熱くて――そう。その熱さが記憶に強く残っている。
『大好きよ……。護……』
 彼を産んだ人の最期の言葉だった。
『何故……?』
 何故貴方を殺す僕を、貴方は好きだと言うのだろう。護の問いには答えられぬまま、彼女は逝った。姉と会ったのはその直後だったように思う。
 名前も知らない――二三度だけ、「母さん」という名で呼んだひと。
 護の父――先代の「暗殺者」は、母を愛したせいで粛清されたと聞いた。
 「暗殺者」は「人間」であってはいけない。だから、誰かを「特別」に想ってはいけない。もしそんなことが起こったときは――父のようにサポーター、つまり監視人に殺されることになる。護の場合は窃だ。
 ――つまり、「暗殺者」は今の僕のように生きていかなければならないというわけだ……生きていたければ、の話だけれど。
 護は皮肉に唇を歪めた。
 
 あの後、着ていた服が血と雨とで濡れて重量を増し、彼の体に纏わりついてとても気持ち悪かった。姉の泣き声も耳について嫌で。
 木々は高く黒く聳え立ち、護を取り囲んでいた。そこだけ外界から切り取られたような、そんな錯覚。いつまでたってもこの時は終わらないのではないかとさえ思った……。
 暫くして、「家」の者が姿を見せた。
『終わったか』
 窃ではなかった。確か、何故窃ではないのかと思ったのを覚えている。今護に殺されたこの女は、窃の姉なのに。
 男は護を見遣り、言った。
『まさかと思うが……、泣いているのか?』
 護は顔を上げた。そして、唇を弓なりにそらす。
『いいえ』
 その微笑みに容赦なく降り注ぐ雨。冷たくて、頬が痛いほどだった。
 ――そしてその中に佇んでいた僕。真っ赤に手を染めたまま……。
 護は小さく笑った。
「そんなこともありましたね」
 彼が母親の話を彪にしてから、彼はとても護に気を遣うようになった。それが護には皮肉に思えて仕方がない。
「僕が殺したんですよ? 僕の母親を」
 窓を走る雨粒の軌跡に指を滑らせ、護は囁く。
「貴方は……それを知ったらどうするんでしょうね?」

  5

 ――彪は闇の中にいた。
「どこ? ここ……」
 本能的な恐怖が彼を襲い、一番頼りにしている人の名を呼ぶ。
「護?」
 彪の声に応えるように、闇の中に光が生まれ人型を形作る。
「彪さん」
「護、ここにいたんだ……」
 いつものように、ふわりと微笑む護。彪は彼の差し出す手を取った。そのとたん、不安は跡形もなく消えて、ただ暖かな安心感が彪のこころを満たす。
 護はいつも側にいて、僕を守ってくれる。支えてくれる。だから僕は、王子として頑張れる……。
 ――ざああああああ。
 不意に吹き抜けていく風に、彪は眼を細めた。一体何が起こったのだろう。
 瞬間、彪の腕の中に護が倒れ込む。
「え?」
 手にべっとりとつく赤いもの。
「これ……血……?」
 護の背からその赤いものが流れ出している。
「護?!」
 悲鳴に近い叫び声をあげた彪に、護は顔を上げた。
 痛そうに、眉を寄せて――それでも唇はいつものように優しい円弧を描いて。
 自分の血で汚れた手を、彪に差し伸べながる。
 唇が動く。なのに声は聞こえない。

「          」

「護…………」
 ゆっくりと目を閉じる護。
 赤い瞳が閉じられると同時に、護の姿が掻き消えるた。
 手の中に残る温もりと――熱い血。
「まもる――――!!」
 彪は絶叫した。

「――彪さん!」
「…………っ」
 べっとりと汗をかいて、彪は目を覚ました。風呂からあがって、ソファの上でうとうとしてしまっていたらしい。護が驚いた顔で彪を抱き起こしていた。
「どうしたんです? ひどくうなされていましたよ」
「護……」
 夢への恐怖心からか、それとも護が無事だったことへの安心感からか、彪は両手を瞼に押し当てて涙をぬぐった。
「悪い夢をご覧になったんですか?」
「……護が、いなくなってしまう夢だった」
 さすがに護の流した血のことは言えなかった。それでも、彪の背中を撫でていた護の手が一瞬止まる。
「それが――悪い、夢」
 護は独り言のようにつぶやいた。
 僕が「仕事」を終えていつかここを去るとき、彪さんは泣くのだろうか。今のように……僕のために……。
 そう思うと笑いが込み上げてきた。彪には決して聞こえないよう、声を押し殺しながら笑う。
 ――そんなわけがない。きっと彼の父親のためには泣くだろうけれど、僕のためになんて……。僕のために泣く人なんて、誰もいない……。
 それでいい。

 ――それでいい。