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第二幕 天使の羽化 – 第一章

  1

 「奇跡の革命」の始まるちょうど一年前の冬。
 火影護は央夏の中心街の一角にある彼の家で、一人の男に会っていた。男は二十歳の彼よりはずっと年上で、鋭い眼差しは暗く、柔和に微笑んでいる護とは対照的だった。
 男は静かに部屋を見回す。狭くもなく、広くもない家のリビングルーム。機能的な家具。デスクの上に整然と置かれた新聞、書籍の類。窓にかけられたブラインドは申し訳程度に日光を送り込んできている。
 男は護の家に来るたびに感じる。――ここは人の生きる匂いがしない……。
「『仕事』ですか?」
 コーヒーを勧めつつ護が尋ねると、男はうなずいた。
「誰を?」
「王だ」
 即答した男に、
「それはそれは。また窃さんも大変な『仕事』を受けてきますね」
 驚いた様子もなく苦笑を浮かべて護は呟いた。
「今この国は大きく揺れている。お前も知っているだろう」
 窃は言葉を継いだ。
「王制打倒を目指す地下組織が動き出した。今回の依頼人はそこだ」
 事実上の独裁である王制に、不満をもつ者は多い。特に現王は徴兵を強化して税率を上げ、民衆の反感を買っていた。隣国、董との戦争も長期化し、国民は苦しめられている。護は疎いながらも国内情勢を鑑みて思った。――もう王制の時代ではない、ということだろうか。
 「歴史」がまさに動こうとしている。輝かしい、「自由」という名の光明を目指して。だが、同時に「歴史」の暗部で活躍してきた彼ら――「暗殺者」を必要としている、というわけだ。
 護は皮肉な笑みに唇を歪めたが、口から出たのは事務的なことだった。
「なるほど……。しかし、王家の跡取は? 確か王子が一人いたはずですが」
「彼はまだ十二歳で、母親ももういない。とすれば現王の死後の王家の弱体化は必然だ。殺すこともあるまい――だとさ」
「わかりました」
「受けるな?」
「はい」
 護は微笑した。屈託のない、だが何の感情もそこにはない笑顔。
「僕の『仕事』ですから」
 窃は唇をゆがめた。
「姉は――お前の母親は、お前に継がせたくなかったようだったな」
「そして、僕は母を殺さなければならなかった。あれは十三のときでしたか」
 護に見えないようにと目を伏せた、窃の瞳のかげりが増す。
「でも、母は僕を育てたわけではありません。ただ産んだだけで、会ったこともなかった。彼女のもとには僕の双子の姉さんがいたんですから、それで十分でしょう? 僕に対する情なども、特になかったでしょうから」
 ――そうでもなかったようだが。窃はいつも泣いていた姉を思い出す。そして、ぎゅっと拳を握り締めた。
 だが、彼が口に出したのは別のことだった。
「譲、といったか。お前の姉」
「ええ、一度だけ会ったことがあります。母を殺したときにね」
 正直、良く覚えてはいない。あまり自分と似てはいないな、と思った。
 冷たくなっていく母親の屍骸にとりすがり泣いていた姉。そうか、悲しいのか、とぼんやり考えた。
 ――自分とは違う。
 そう思うと、何故か変に落ち着かない気分にさせられたのを覚えている。
「彼女は王宮に勤務しているそうだ」
 窃はそう言って護の表情をうかがう。
「姉のことは、どうする」
「別に。特に何も」
 護は淡々と言う。
 彼は子供のころから徹底して「殺す」ための訓練を受けている。その標的は他人であり、同時に自分でもある。
 ――「人間」としての自分を殺してしまう、ということ。
 それはすなわち感情を捨て去るということだ。
「今回の『仕事』は依頼人の用意ができるのを待って行う。何やらいろいろ準備があるらしいし、組織内も今もめているらしくてな。暗殺などという手段には頼りたくないという一派もいるそうだ。もう少し話し合いに時間を掛けたいと聞いている」
 護は頷いた。細かいことは正直どうでもいい。「仕事」に関係のないことには興味を持たない。それが彼のいつもの姿勢だった。
「それまでは、一体どうすれば?」
「王宮に潜入していてもらう。いつでも行動が起こせるように、というわけだ。王宮はさすがに警戒が厳重だからな」
「どうやってです?」
 眉をひそめて護は問う。
「大丈夫だ」
 窃は口元を緩めた。
「依頼人が、王子の家庭教師の口を用意してくれたらしい。お前は央夏大学の出身だから学歴は十分というわけだな」
「……は?」
 そんな長期に渉る依頼など――しかも標的の家族と密に接する依頼など、聞いたことがない。珍しく驚いた表情をする護に、窃は強く畳み掛けるようにして告げた。
「子守も仕事だと思え。しばらくの間だからな、いいな?」
「分かりました」
 護は再び苦笑し、うなずいた。窃の態度はどこか不自然だったが、そんなことは――いや、全てが、どうでもよかった。

  2

 現王の一人息子、清柳院彪。来春、十三歳になる。
 王宮の奥にある彼の部屋には初冬の陽光が暖かく降り注ぎ、それが彼の細い金髪を美しく輝かせていた。儚げで、華奢な体は何かの重圧に必死で耐えているようにも見える。――事実、彼の双肩には「王子」という肩書きがいつも圧し掛かっているのだが。
 侍女に丁寧に給仕されつつも一人で味気ない昼食を終えた彪は、また別の侍女に連れられて応接間へと移った。新しい家庭教師と会うためだ。
 彼は今まで多くの家庭教師を迎えているが、皆すぐに辞めてしまった。彪にはわからない。心から慕い、言うことも良く聞いたのに。彼はいつも彼らが去っていくとき泣いた。辞めた者は皆言う――「私は殿下の父君や母君ではないのです」と。
 会うこともできず、愛してくれない父親。愛してくれたけれど、いなくなってしまった母親。彪はその代わりを求めてしまっていたのかもしれない。だが、「王子」である彼にに強く慕われることは、他人にとっては重荷でしかなかった。将来の国王である彪に眼を掛けられれば、現在の王の側近からは後々地位を取って代わられるのではないかと思われ、疎まれる。
 だが、幼い彼にはそんなことは理解できない。「殿下」と呼ばれることさえも彪を寂しがらせた。
 誰も名前で呼んでくれない。誰も「僕」を見てくれない――。
 深く思考に沈み込むのと同じように、彼はソファへと深く身を沈めた。ぎしり、と音を立てる。
 ――そのとき。

「はじめまして、彪さん」

 その呼びかけに、彪ははっと顔をあげた。久しぶりに呼ばれた自分の名前。
 見開いた真っ青な瞳にうつった新しい家庭教師の顔。さらさらとした黒髪に覆われて、見たこともない綺麗な赤色の瞳が微笑んでいる。
 その青年は、ソファに腰掛けた彪の足元に跪いていた。彪は身を乗り出して彼に聞き返す。
「今、なんて……?」
「え?」
 護は澄んだ彪の瞳にじっと覗き込まれ、思わず瞬きを繰り返した。どこか自分の深いところを探られるようで、柄にもなく動揺してしまう。
「『はじめまして、彪さん』って言ったんですが……それが何か……」
 彪は顔を輝かせ、身を乗り出した。
「先生!」
「先生、はやめてください」
 護は困ったように呟いて、言い換えた。
「護、でいいですよ」
「じゃ……、護」
「ええ。結構です」
 護は微笑んで彪のふわふわした金髪を撫でた。長い指に絡まるブロンドの細さと柔らかさに、護は自分の手で――血で汚れた手で触れることに躊躇いをおぼえた。それでも彪は気持ちよさそうに護を見上げている。
 ――嬉しい。
 彪のどこか夢見がちな、現実離れした儚さを漂わせていた瞳がぱあっと輝きを放った。押し隠していた光をいっぱいに広げて。
「…………」
 護は少し、瞬きをした。
 こんな風に微笑む人がいるのだと、僅かに驚きを感じる。透明で、それでいながらきらきらした笑顔。こんな輝きが他にあるだろうか?
 そんな彪の放つ光が、闇に生きる自分には似つかわしくない気がして――少し、目を細めた。その表情は、少し眩しそうに見えたかもしれない。
 彪は期待に胸を膨らませていた。――この人は、今までの人たちとは違う、そんな気がする……。

  3

 実際、護が来てから全てが変わった。彪はすぐにそう思うようになった。
 護が来て一ヶ月した頃。真冬とはいえ天気が良い日で、二人は中庭に出ていた。
 昔、ここを母に手を引かれて散歩したことを覚えている。優しく、美しかった母。母がいなくなった後は、ひとりで歩くようになった。こうやって隣に誰かがいるのは久しぶりのことだ……。
「何を考えてるんですか?」
「え? いや、何にも」
「うそでしょう」
 彪はうろたえ、護の視線を避ける。
「別に……何でもないから」
「…………」
 護は少し考えていたようだが、やがて口を開いた。
「彪さんがお花が好きなのは、お母様の影響なのでしょうね」
「良く、わかったね」
 彪は驚いて顔を上げる。護は微笑を浮かべて彪を見下ろしていた。
「ええ。庭師の方に伺いました。この辺りの花壇に植える花を決めておられたのは、全部彪さんのお母様であったと」
「……うん」
 彪は懐かしそうに頬を緩めた。
「今も同じものを植えてもらえるようにお願いしてるんだ」
「ここに、生きておられるのですね」
 冷たい風。護はさりげなく立ち位置を変えて、彪の風上に回る。
「お母様の想いが――生きている」
「…………」
 彪は顔をゆがめた。涙がこみ上げてくる――悲しいわけではない。むしろ、嬉しかった。
「……ありがとう」
 護はただ、優しく笑っているだけだった。
 
 護は今までの家庭教師とは違っていた。彪の求める、家庭教師にしては少し近すぎる距離感にもうまく対応してくれる。媚びるのとは違う、突き放すのでもない。そう――まるで父親のように導き、母親のように見守ってくれる。
 また、護は教師としても優秀だった。嫌いだった算術も、護が教えてくれるようになって好きになった。元々興味のあった歴史や政治経済でも、護は今までの家庭教師なら決して教えてくれなかったようなことまで教えてくれた。
 これまでの家庭教師たちは貴族の子弟が多かったせいか、権力者側に都合のいいことしか教えようとはしなかった。しかし護は違う。どうやらそういったしがらみとは無縁であるらしく、彪が知りたがることなら何でも答えてくれた。やがて、彪は今この国が置かれている状況を何となく知るようになった。
 ――今、この国はおかしいんだ。
 ぼんやりとではあるが、そう思う。しあわせではない人がとても多いらしい。
 ――そういうのは嫌だな。皆、しあわせになって欲しい。僕が王になったら、できるだろうか……。

 中庭から部屋に戻る途中、彼らはひとりの女性とすれ違った。彪も知っている。
 氷雁譲。王の側近の一人である。短い黒髪と同じ色の瞳で、長身。
 こちらを見てはっとした顔をする。いや――むしろ護を見て驚いたようだったが、すぐにその表情は消えた。護は一向に顔色を変えていない。
 彪はとりなすように口を開いた。
「譲さん、あの……」
「新しい家庭教師さんですね」
 譲は微笑んで見せた。その笑顔が、どこか護と似ているような……。
「はじめまして」
 護は頭を下げた。譲の瞳がゆれる。
「――はじめまして」
「彪さん、部屋に帰ったら暖かい紅茶をいれますね」
 護はそういって彪に微笑みかけると、一瞬だけ視線を譲に投げた。赤い瞳が不気味に光り――ぞくり、と冷たいものが彼女の背筋を伝う。
 譲は拳を握り締め、二人の後姿を見送った。
「――七年ぶりね……護……」
 自室に戻った譲は、小さな写真立てを見つめた。照明も点けず、暗い部屋に譲の影だけが延びている。写真の中で美しくも寂しげに笑う女性。彼女に似た面影で、黒髪の長い――。
「母さん」
 譲は呟いた。
「やっと会えた――」
 目を閉じて母の言葉を思う。死の直前、譲を呼んで告げた言葉――『護を、宜しくね』、と。
「こんなところにいるなんて……誰を殺すつもりなの? 護……」
 下手に手を出せば自分も殺されるだろう。さっきの眼は暗にそう彼女に告げていた。
『あの子は『自分』を殺してしまった寂しい子なのよ。だけど、あの子のこころを本当に理解してくれる人が現れたら――』
 ――護も変わるかもしれない。そうだったよね、母さん。譲は胸中で呟いた。
『あの子を見守ってやってね――』
 護に殺された母。それでも母は護を愛していた。手放したことを後悔していた。「暗殺者」としての殻に閉じこもってしまった護の「感情」を哀れみ、一人泣いていたこともあった。――護は知らないのだろうけれど。
 あの子のこころを本当に理解してくれる人が現れたら――。彼は出会えるのだろうか。出会えたとしても、彼は変わることができるのだろうか。
 問いかけても、それに答えることのできる人間はどこにもいない。
 譲は眼を閉じ、写真立てを倒した。

  4

 
 央夏は比較的温暖な気候だが、それでも真冬には雪のつもるときもある。
 彪は護と共に夕食を取った後、激しくなった雪の降る様子を窓から眺めていた。窓は白く曇っていてよく外は見えない。だが、雪明かりでぼんやりと地面が光っていた。
 十分に暖かいにも関わらず小さくくしゃみをした彪に、護はそっと上着をかけてやる。彪はソファに座り、食後のお茶をいれる護の肩に凭れて顔を見上げた。
「どうかしましたか?」
「ううん……」
 眼を伏せる彪に、気分でも悪いのかと額を押さえてみる。熱くはない。
「でも、元気がないですよ。今日の昼過ぎからずっと」
 昼過ぎに何があったかを思い返す。
 ――そうだ。
 護は彪の顔を覗き込んだ。
「お父様とのお話は、いかがでしたか」
 直接会って一緒に過ごすのは半年ぶりだと言っていたか。彪の元気がなくなったのは、父親との時間を過ごした後だったように思う。
「相変わらずだよ。特に話すことなんてないし……。でも」
 長い睫毛が震えていた。
「父様に言われた。『ひとに甘えるのもいいかげんにしろ。少しは王子らしくなれ』って」
 護はそっと彪の髪を撫でる。そうしながら、護はひどく冷静に彪のことを分析していた。
 彪には年齢の割に大人びている部分と、逆にひどく幼い部分が混在している。母親の亡き後、厳格な父親に認められようとずっと無理をしているうちに、どこか歪になってしまったのだろう。甘えたい盛りの頃に甘えられなかった、その喪失感をずっと引きずっているように見える。
「叱られたんですね?」
「『お前がそんな風だから家庭教師がみんなすぐ辞めていってしまうんだ』って……」
 護よりも背は低いのに、ずっと強く威圧感を感じるのは何故だろう。確かに血の繋がった親子なのに、少しもあたたかくないのは……。
「護も、いつかは辞めてしまうのかな……僕が、しっかりしていないから」
 護は黙って彪の涙を拭った。ようやく、彪は自分が泣いていることに気付いたらしいく。
「あ……」

 いけない。泣いちゃいけない。
 僕は「王子」だから。
 皆が僕を置き去りに何処かへ行ってしまうから。
 だから、僕は強くいなくちゃ。強く、強く――。

「彪さん」
 耳に護の声が触れた。柔らかく、包み込むような温度で。
「泣いてもいいんですよ」
 涙腺が緩む。

 ――駄目だ――駄目なのに――

「っ……ぇ……」
 喉が勝手に鳴咽を漏らす。彪は護の袖をつかみ、目元に押し当てた。
「ずっとずっと頑張るなんて、無理ですよ」
 護は、優しく彪の肩をなでた。
「貴方はまだ子供なんですから――泣きたいときも、甘えたいときもあって当たり前です」
「でも、僕は王子だから……」
「僕にとっては、貴方は生徒さんの『彪さん』です」
「…………」
「だから構わないんですよ、僕の前では――泣いても、甘えても、わがまま言っても」
 彪は静かに呼吸を整えた。護の手に背を撫でてもらいながら、ゆっくりと。護はただ黙って待つ。――もう大丈夫。彪はきっと、自分で泣き止むだろうから。
 やがて、彼は顔を上げた。微笑む。
「ありがとう」
 護も優しく微笑みかえす。
「顔、洗ってらっしゃい。涙でかぶれちゃいますよ。ついでにお風呂も。お湯はさっき僕が張っておきましたから。きっとすっきりします」
「うん。本当に、ありがとう……」
「どういたしまして」
 眼元をまだ少し腫らして、それでも彪はにっこりと笑う。素直な、透明な笑み。
 護は思わず息を呑んだ。――ああ、またあの光……。
 時折見せる輝きが、護のどこか深い場所に触れていく。だが、その戸惑いの理由が彼にはわからない。それでも、護は一瞬遅れて笑みを返した。
「…………」
 そして、背後の窓の方へと振り向いたときには――その顔から笑みは消えていた。

「窃さん」
 窓を開き、声を掛ける。先ほどから気配でその存在を感じていた。
 闇から浮き出るように人影が生まれる。夜と同じ色のコートに身を包んだ窃だ。
「準備が整うのは多分来年以降になるだろうということだ。決まり次第また連絡に来る」
 来年と聞いて護はぴくりと眉を動かしたが、表情は変わらなかった。
「――わかりました」
「仲間割れが続いているらしくてな……ひとまず、意見が統一されるまで待って欲しいと。それまでは」
「わかっています。これまでどおり、ですね」
「ああ。ただし、王以外の保守系有力者を殺す仕事は先にやって良いそうだ。そちらも連絡する」
「はい。分かりました」
「何か口実を設けて王宮を出てもらうことになるが、それはこちらで手配し、追って指示する」
「はい」
 窃は口を閉じた。探るような視線を護に向ける。
「何です? そろそろ王子が戻ってくると思うのですが……」
 護が苦笑して先を促すと、窃は眉を顰めて口を開いた。
「護。まさかとは思うが――」
「え?」
「王子に情など移りはしまいな? あまりに長くいれば――そういう危険もある。大丈夫だな?」
 それは否定の台詞が出ることを確認しているようでいて、どこか肯定を期待しているような、妙な口調だった。
「…………」
 護は一瞬目を見開き、やがて笑いはじめる。声を押し殺しながらも、おかしくてたまらないといったように。
「まさか、そんな……」
 窃に肩をすくめて見せ、窓を閉めた。カーテンを引きつつも笑いがとまらない。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
 「情が移る」――? 「情」なんて、もう僕にはない。
「僕が『殺した』んですから――」

  5

 トン、トン。
 その夜、なかなか眠れないでいた彪の部屋に、ノックの音が響いた。
「はい」
「彪さん? まだ起きておられますか」
 護の控えめな声に、彪は驚いて飛び起きた。何故わかったのだろう。
「う……うん。起きてる。眠れないんだ」
 ドアが開き、護の長身が滑り込む。ベッドヘッドの柔らかなライトに照らされた彼は、手にティセットを持っていた。
「今日は寒いですからね。体を温めるときっと良く眠れますよ」
「……うん。ありがとう」
 ふつうのお茶ではないのか、少し変わった匂いが部屋を満たす。護はサイドボードの上にポットを置いて、彪にカップを手渡した。
「熱いから気をつけてくださいね」
「うん」
 少し緑がかった、不思議な色のお茶だった。
「ハーブティなんですよ。お口に合うといいのですけど……」
 彪は湯気の立つ表面をふうふうと冷ましてから、そっと口に運んだ。ミントのような爽やかな香りとともに、オレンジの風味がやわらかく舌を包む。
「おいしい」
 ぽつりとつぶやいた彪に、護は微笑んだ。
「それは良かった」
「変わった味だね。僕、初めてだよ」
 それはそうだろう――このハーブは彼の「家」に代々伝わるもので、本家の屋敷に自生している葉を加工したものだ。元々は無味無臭で、香り付けはフルーツやハーブを混ぜることで行う。暗殺の標的やその周囲を眠らせるために、鎮静と催眠効果を持つこのハーブを用いるのだった。
 こういった特殊なハーブの類を、彼は種々知っている。その中には薬草も毒草もあり、さまざまな効能を持つものが含まれるのだった。
 彪の手が、空になったカップを下ろした。今回は、いつもよりもずっと少量のハーブしか混ぜていない。軽い睡眠導入効果程度しか呈さないだろう。
「どうです? 眠れそうですか?」
 護の手がそっと彪の額に触れた。
「うん」
 彪はもそもそと羽根布団にもぐりこむ。
「何かあったら、僕を呼んでくださって構いませんからね」
「ありがとう……」
 彪は目を閉じる。闇は嫌いだった。母親の遺体を見せまいとする誰かに、無理やり目を塞がれていたことを思い出すから。あれは一体何故だったのだろう……母親はそんなにも苦悶のうちに亡くなったのだろうか。お陰で彪の思い出の母は、いつも美しく儚く笑っていた。
 そういったことも、いつもは忘れていられるのに、父親と会うと思い出してしまう。――やはり、父親と相対することで、自分が父親から妻を奪ったものと見なされていることを、感じ取ってしまうからだろうか。もう少し彪が敏感でなかったなら――そんなことも気取らずに済んだかもしれないのに。
 きつく閉ざした瞼の上に、護のひんやりとした指先が触れた。力を緩めさせるように、そっと撫でる。
「大丈夫。今日は貴方が眠るまでここにいます」
「え……?」
「明日寝坊したり、勉強中にお昼寝されては困りますからね?」
 茶化すような護の言葉。だがそのうちに潜む気遣いが、彪は涙が出るほど嬉しかった。
「ありがとう……」
「どうしたしまして」
 護の指が離れていく。それでも、彪は穏やかな気持ちで目を閉じていることができた。
「朝が来たら、ちゃんと起こしに来ますからね」
「本当? 約束だよ?」
「ええ。約束します」
 ――護は、大丈夫。僕は「僕」のままで……無理して「王子」でいなくても、大丈夫……。
 彪はほどなく寝息を立て始める。そこは悪夢のない、穏やかな眠りの国だった。

「…………」
 護はそんな彪を何か不可解なものを見るような――そしてどこか体の奥が痛むような顔つきで、じっと見つめていた。