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第一幕 奇跡の革命 – 第五章

  1

 羽渡雪彦は初代法務大臣を務め、その後一年間は首相付の事務官をしていたが、改革五年目にして再び法務大臣となった。相変わらず最年少の国務大臣ではあるが、国民からの信任は厚い。
 その彼がずっと気にかけているのが、この国随一の暗殺者の存在だった。どういった人物かは知らない。とりあえず、氷雁譲の双子の弟らしいということは叶から聞いた。しかし、別々に育てられたせいで彼女もあまり詳しく彼を知らないらしい。だが雪彦が一番気になるのは、王とその暗殺者との間に何があったのか、ということだった。いや、過去のことは良いとしよう。問題なのは今後である。先王が暗殺されたように、現王が殺されてしまっては大変だ。
 ――何より、あの王には生きていてほしい。生きて、しあわせになって欲しいのだ。
 そうはいってもあまり立ち入って調べるわけにもいかず――王にも危険だから深入りしないでくれと懇願されたこともあって――とりあえず、雪彦は己にできる範囲でその暗殺者に関する情報を集め続けていた。
 最初の一年は、ほぼ一ヶ月に一件のペースで「仕事」をしていたと推定される。改革が始まったばかりの頃で、守旧派と革新派が何かと衝突していた時期でもあった。どちらかというと守旧派の人間を多く殺していたようだ。――だからといって感謝する気にはなれないけど……。
 雪彦は顔を曇らせた。これまでの社会は「彼」のような暗殺者の存在を、必要悪だといって容認してきた。だがそれは違うと彼は思う。社会のどこかが機能不全をきたしているから、金を払ってまで誰かを殺すという手段を選ぶ人間が出てくる。社会が澱んでいるから、流れの中で良かれ悪しかれ異分子である存在を、強制的な手段で除去しようとする人間が出てくるのだ。
 その証拠に……、と雪彦は資料を繰る。二年、三年と改革が進むにつれて「彼」の「仕事」は減ってきている。四年目の下半期など一件しかないようだし、五年目の今年はまだ一件もない。
 企業も行政も風通しが良くなった分、陰湿な裏取引や癒着構造は徐々に廃れていっている。その分暗殺者を必要とする者もいなくなっているのだろう。かつてとは違い、わざわざそんな手段に頼らなくても、自分の目的を達する方法や自分の意見を主張する方法はいくらでもあるのだから。
 ――もうこの国には暗殺者など要らない。
 雪彦は一日も早くそう言える日が来て欲しいと思う。必要悪だろうが何だろうが、殺人は殺人だ。人間が人間を殺すことなど到底受け入れられるはずがない。
「でも……」
 雪彦はふと手を止めた。
 いつの間にか日が暮れ始めており、彼の執務室の中も薄暗くなっている。床に彼の影が長く伸びていた。
 窓を通して、真っ赤な夕焼けが見える。どことなく、その色は血を連想させた。
「もし、そんな日が来たら」
 暗殺者の必要のない社会ができあがったら。
 ――「彼」はどうなるのだろう。どうするのだろう。
 これまで犯した罪の数々をどう贖うのだろう。数え切れないほど沢山の人々を殺してきた代償は、どのように支払うのだろう。それほどの罪を、人は償うことができるものなのだろうか。
 雪彦はふ……と微笑んだ。不意に王の顔が思い浮かんだのだ。
「王ならきっと……」
 ――彼ならきっと……。
「『できる』って言うんだろうな……」
 どんな罪人でも、その罪を自覚して償おうとするのなら、きっと償えるのだ……と。自分の父親を殺した暗殺者にさえ、彼はそれが言えるだろう。偽善ではなく、心から。
 この国では死刑は廃止されているが、それに相当する罰として終身刑がある。
 ――どんなことがあっても、人が人の命を奪うのは嫌だ。
 その気持ちはこの国の大多数の国民に共通している。現在の平和な社会を貫いている共通理念といってもいい。
「それにしても」
 雪彦は呟いた。
「結局……、王と『暗殺者』の交わした『約束』とは一体……」
 王の言う「約束」の期限まで、あと僅かである。

  2

 評議会議員から国会議員になっていた者の一人が、突然議員を辞職したいと言い始めた。
 叶に近いポジションにいた男で、かつての汀との交渉では、今で言う外務大臣であった顕に同行する副使を務めた。顕の後任の外務大臣も務めたが、その後は様々な部署の事務方として手腕を奮い、各方面に極めて多才であると評判である。年齢は五十を超えているが若々しく、巷では叶の後に首相を務めるのではないかという噂――期待――もあり、国民に人気のある政治家のうちの一人だった。
 清水(しみず)英嗣(えいじ)
 慰留しようとした叶だがうまくいかず、王自らが英嗣を招いて話をすることになったのだった。
 王との夕食に招かれた英嗣は、どことなく緊張した面持ちだった。考えてみれば、叶や雪彦に比べて裏方の仕事の多かった英嗣は、王自身との接触は少ない。そのことに気付いた王は、柔らかな笑みを浮かべて席を勧めた。
「あまり豪華な食事ではないけれど……、緊張は胃に良くないですよ」
 年長者への敬意を込めた態度に、英嗣の表情も緩む。
「胃は以前随分悪くしましたが、最近は落ち着きました」
「この五年間、さぞかしお忙しかったことでしょうね」
 給仕する譲に、英嗣は軽く会釈した。
「いえ。やりがいのある仕事でしたよ」
 注がれたスープに口をつけながら、王は英嗣を見つめる。
「本当にそうお思いですか?」
「…………」
 英嗣のスプーンを持つ手が止まった。譲は黙って自席に着く。
「僕自身、今の自分の仕事がやりがいがあるなんて思っていない」
 意外な王の言葉に英嗣が眼を剥いた。改革の旗印的存在である王がそんなことを言い出しては、そのもとで死力を尽くしてきた彼らの立場がない。
「そ、それは陛下……」
「勘違いしないで、英嗣さん」
 王はやんわりと遮った。
「自分の仕事には誇りを持っている。今までやってきた仕事にも満足している。それは事実だから」
「では、どういう……」
「…………」
 王は慎重に言葉を選んでいるようだった。
「僕が王位についてからもうすぐ五年……僕が必要とされてきた時期は終わり。そして、それはとても喜ばしいことです」
 英嗣は困ったように言う。
「それについては、今しばらくの在位をと」
 ――五年後の退位を即位時に約束した王は、事実それを履行しようとしている。だが、それは多数の国民の望まないことだ。王には国家の象徴としてあって欲しいと考えている国民が多い。それは各種の世論調査でも明らかになっていることだ。
 しかし、王は首を横に振る。
「僕はそんな無責任なことは出来ません」
「無責任……?」
「そう」
 英嗣の怪訝そうな顔を見つめ、王は微笑んだ。
「たとえば僕の次の王が即位して……彼が僕とは違った考えの持ち主だったらどうしますか? 王政復古を目指し、今までの改革を骨抜きにするような考えの持ち主だったら」
「しかし王には実質的な権力などもうないのですから」
「議会の買収に動くかもしれませんよ?」
「…………」
 ――確かに……。
 英嗣は苦々しい気持ちで認める。そして、それは彼を今襲っている無力感の原因とも似ていた。
「極端な話ではありますけどね」
 王は表情を緩めて微笑んだ。
「でも、あり得ない話ではない」
「ええ」
「だとしたら、僕は自分の出来る範囲でそれを未然に防ぎたいと思うんです。もうこの国に王は要らない」
「だからといって、今退位されなくても」
 食い下がる英嗣に、王は少し弱ったように表情を変化させた。
「……それは僕のわがままですね。この時期がいいって、僕が判断したんです」
「何故です?」
「…………」
 突っ込んだ質問をし過ぎたかと思ったが、王は意外にもはっきりと答えた。
「もう、僕が『王』でいる必要がなくなったんです。僕にとって、ということですけど」
「…………?」
「最初から、僕にはある目的があった」
 王は食器を手から離して胸の前で軽く組んだ。
「そのための一つの手段として、『王』に即位しました。この国の改革に取り組んだのもそのためです。とても自分勝手な目的の為に……僕は手段としてこの国を利用した」
「陛下……」
 王は英嗣の言葉を聞いているのかいないのか、淡々と話を続ける。
「無論僕は一生懸命やりましたよ。王として、国民のしあわせを第一に考えてきたつもりです。でも……、もう僕にはそれができない。国民のしあわせよりも大切にしたいものがあるから……もう僕が王であることはできない」
「…………」
「分かっていただけるとは思いませんけど……」
 英嗣は深いため息をつき、首を横に振った。
「いえ……、興味深いお話でした」
 顔をまっすぐに上げ、王の青い瞳を見つめる。深く澄んだその色は、まるで英嗣の迷いを吸い込んでいくようだった。
「貴方は『天使王』と呼ばれる……しかし貴方は『天使』ではない。『人間』なのですね」
「…………」
「もう『王』ではいられない。一人の『人間』に戻りたいと、そう思われているのですね」
 王はにっこりと微笑んだ。
「……そうです。わがままで、本当にごめんなさい」
「そのお話を真野叶にもされた?」
「ええ」
「……そういうことだったのですか」
 英嗣は頷いた。
 最近彼はずっと迷っていた。王が退位した後、現在のこの国の在り方が維持され得るのかどうか。せめて今しばらく在位してもらったほうが良いのではないか。
 そう叶に告げても「王の自由だ」と取り合ってもらえず、不信の芽が芽生えた。もしかすると叶は王の退位を待ち望んでいるのではないか。その後に、違った形で独裁者となるつもりではないか。叶の人柄を良く知っているだけにそんなことはあり得ないとは思ったが、しかし確証はない。
 そもそもこの改革は、未来にその形を残していくことができるのだろうか。
 現在のこの国はまさに理想郷だ。しかし、理想は脆い。そのことを英嗣はよく知っている。叶や雪彦よりも長く生きてきた分、沢山の挫折を知っているのだ。
 今はいい。しかし、しばらくすれば汚職や背任といった事件もきっと出てくる。戦争すら再び起き得るかも知れない。
 理想を現実にするのは難しい。しかし、現実を理想から乖離させるのはとても簡単なことだ。
 そうしたら――自分たちの努力は一体何だったのか。無になってしまうのか。そう思うと英嗣はどうしようもない虚しさ、そして無力感に襲われる。どうせ壊れてしまう理想なら、一生懸命自分が身を粉にして尽くす必要もないのではないかと……。
 しかし――。
「現在に生きる私たちは、未来のことにまでは責任がもてない。それは当然のことですね」
 英嗣はぼそぼそと呟いた。
「だからといって現在を放棄してはならない。現在という時間の主は、誰でもない私たちですから……」
 王はにこにこと笑って英嗣を見つめている。
「真野氏は陛下の話を聞いて、陛下の退位に異議をさしはさまないようになったのですね」
「そうです」
「……そうですか……」
 英嗣は軽く目を閉じた。
 ――自分自身の目的。それは、愛する妻と子供、彼らがしあわせであること。自分の愛する、そして彼らの愛するもの全てがしあわせであること。
 改革はそのためにあったはずだ。全ての国民とその愛するものがしあわせでいられるようにと。
「もう少し、私もこの国の力になれそうですな……」
 英嗣の言葉を聞き、王は頷く。
「貴方はまだ、この国から必要とされていますよ。そして、貴方自身も」
「私も……この国を必要としている……ですか」
 ――王はもうこの国を必要としないと言ったけれど……。
「陛下」
 英嗣はふと真顔になった。
「貴方は退位された後、どうなさるのです?」
 まだ十八歳の王ではあるが、退位後普通の市民となって暮らせるのか、どうか。
「僕ですか? 僕は……」
 王の視線が宙に迷う。
「そうだな……。田舎に引っ込んで、花でも育てましょうか」
 冗談めかして言う王だが、その瞳は曇っている。
 英嗣の脳裏に再び蘇る言葉。
 ――全ての国民と、その愛するものがしあわせでいられるように――
「陛下の愛するものとは……一体……」
 とても小さな声で呟かれたそれは、王の耳には届いていないようだった。

  3

 王の退位は改革五年目の春先が予定されている。
 初冬に入った頃からその話題で各所がもちきりになり、やはり国民は王の在位を望んでいるようであった。それでも王の決意が固いとなると、彼の今後に注目が集まるようになった。
 若き「天使王」。「天使」はどのような「人間」に戻るのか。
 しかし王はそれについては口を閉ざし続けた。ただの一国民に戻るのだと。一人の青年に戻るのだと彼は言う。
 ――これからは、自分の為に生きさせて欲しいと。

 
 雪彦は一人でぶらぶらと央夏の街を歩いていた。法務大臣を務める者が軽々しく一人で外出するものではないと言われることもあるが、こうして直に街の雰囲気を感じるのが彼は好きだ。
 それに今は何となく寂しい。王が去るということがこれほど心細く思われるものだとは、彼は予想だにしていなかった。
 清水英嗣が議員辞職の考えを取り下げたとき、王は言った――これが最後の一番大きな仕事かもね、と。
 そのとき雪彦はたまらない寂しさに襲われ、気付いたのだった。この王が好きだ、と。親しい友を想うように、いや弟を想うように。彼が好きだ。話を交わしたり共に仕事をしたり、そういうことがとても楽しかった。
 そう王に言うと、彼は少し眼差しを揺らした後微笑んだ。
「ありがとう。僕も雪彦さんが好きだよ」
 右手を差し出しながら、
「みんなに会えて、本当に良かった」
「……今生の別れというわけでもないんですから」
 叶が苦笑して言葉を挟むと、王はぴくりと肩を震わせ、そしてそうだね、と頷いた。
「退位した後も、また会えますよね?」
 雪彦の問いに、しかし王はあいまいに笑うだけだった。

 賑わう街の中、彼はぼんやりとショウウィンドウなどを覗き込んでみる。
 ふと、結婚したいな、などという考えも浮かんで一人でくすりと笑った。まだ相手がいないではないか。仕事に追われ、ゆっくり誰かと知り合う時間もなかった。しかし一段落した今後なら、きっと……。
 誰かと共に生き、次世代の命を生み出すというしあわせ。それを得たい、とそう思った。
 いつの間にか商店街を抜け、少し開けた広場に出ていた。
「ふう……」
 冬の風は冷たいが、比較的今日は日差しが暖かい。そのためか、吹きさらしのこの場所にも今日は多くの市民がいた。
 人ごみを避けて広場の隅に移動し、忘れ去られたような場所に置かれたベンチに眼を止める。日陰でもなく、暖かそうだ。既に誰かがそこに腰を下ろしていたようだが、雪彦は気に留めることなく隣に座った。
 ぼんやりとグレイがかった空を見上げていた彼の耳に、心地よい低音が聞こえた。
「また、お会いしましたね」
「え?」
 はっと横に眼を向けると、そこに座っていたのは男だった。長い足を緩く組み、目元はサングラスで隠されている。だが、彼の纏う冷ややかな雰囲気には覚えがあった。
 雪彦は記憶を探る。思い当たって、雪彦は声を上げた。
「あの、昔喫茶店で……?」
「ええ、そうです。覚えていていただいたんですね」
「四年前になりますか」
「そうですね、随分前のことです」
 男のくだけた雰囲気に、雪彦の肩の力も少し抜ける。
「しかし偶然は重なるものですね。驚きましたよ」
「偶然? そうお思いですか?」
 男の返答は彼の予想外のものだった。軽く眉を寄せ、聞き返す。
「そうではないのですか?」
 男は手を顔の前にかざし、サングラスを取り去った。彫りの深い端正な造形――そして、隠れていた瞳がまっすぐ雪彦を射る。
 真紅の瞳。強い力と――深い闇を宿す色。
 何だこれは。こんな目の色の人間など見たことがない。緩んだ緊張が一気に増した。
「貴方は……」
「貴方は僕をお探しなんだと思ったんですけど」
 男は微笑んだ。
「法務大臣、羽渡雪彦さん」
「…………」
「ずっとお調べになっていたでしょう? 僕のこと」
 ――不意に雪彦は悟った。目の前のこの男が誰であるのか。
 この国随一の殺人者。――「暗殺者」。
「貴方は……まさか」
「貴方は僕の名前――いや、『家名』すらご存じないようで」
 男は淡々と語る。
「姉さんから聞かなかったんですか?」
「……それは」
 ――譲は言おうとしなかったのだ。家名まで聞いてしまえば巻き込まれる、雪彦の身に危険が及ぶから、と言って頑なに拒んだ。
 ひんやりした風が通っていくにも関わらず、雪彦の額に汗が浮かぶ。
「まあ、それはどうでもいいことですけど」
 男はそう言って雪彦から視線を外した。雪彦はほっと小さく息をつく。猟銃の照準から外された。そんな心地がした。
「五年……長かったような短かったような」
 独り言のように男は呟いた。
「始めるときは長いなあと思ったんですけどね……」
 雪彦は強張る舌を無理やりに動かし、彼に尋ねた。
「貴方は……王とどういう関係なんです? 王は一体貴方と何を『約束』したんです?」
 ――この場で殺されるのかもしれない。その恐怖がないわけではなかったが、それでも聞かずにはおられなかった。
 ――僕はあの王が好きだ。生きていて欲しい。
「…………」
 男は黙って雪彦を見遣った。しかし、彼が口にしたことは全く関係ないことだった。
「貴方は何歳ですか?」
「……え? 二十八ですけど」
「そうですか。僕と同い年なんですね」
「…………」
 答えが見つからない雪彦に、男は続けて言う。
「彪さんとは、十離れている」
「…………」
 ――王を名前で呼ぶのは、譲だけだと思っていた。
 彼の声は王の名と良く馴染んで、きっと呼び慣れていたのだろう。雪彦の胸に戸惑いが広がった。この男は、一体……。
 不意に、男は雪彦に向き直った。
「『約束』の内容を、貴方は知らないんですね?」
「え……ええ」
「わかりました」
 男は頷き返し、雪彦に言った。
「もう二度とお会いすることはないと思いますよ。羽渡さん。もしあるとすれば、それは――いえ」
 立ち上がり、男は微笑む。それは――「暗殺者」にはひどく不似合いな、満足げな笑みだった。
「多分、僕はもうすぐ終わる……」
「……終わる……?」
 それはどういうことか、と尋ねようとして雪彦はやめた。あまり立ち入ると本当に命を落とすことになるかもしれない。
 男は雪彦に軽く会釈する。
「僕の名前をお教えしますよ。五年間も僕の情報を集めていた、その労力に敬意を表して」
 男の赤い瞳が冬の陽光に煌いた。その不吉な色が何故かとても暖かそうに見えて、雪彦は戸惑う。
 男は身を翻しざま、雪彦に告げた。
 
「僕の名は――火影、(まもる)

  4

 ――彪は自室に戻る廊下を歩んでいた。
 雪彦が護らしき男に会ったと聞いてから十日あまり……「約束」の期限は近日中だろうと思っている。そういえば、期限を何月何日とは決めていなかった。
 雪彦はさすがにあの後彪を問い詰めたが、それでも彼は何も言わなかった。
 ――「あの人」も何も言わなかったのだから……。
 五年間はあっという間だった。
 いろいろな人に出会って――それでも彼は変われなかった。この国が変わって、いろいろなものが変わって――それでも彼は護と出会ったときと同じ、寂しい「人間」だった。
 ――でも、貴方のほうがもっと寂しい……。
 彪はいつの間にか自室の居間を通り抜け、寝室の扉の前に立っていた。
「……僕は、貴方に」

 ――「しあわせ」になって欲しいんだ。

 扉が開く。彪は一歩踏み出し、そしてそのまま凍りついた。寝室に置かれた籐椅子に腰掛けた、一人の男。
「……彪さん」
 柔らかな声が彪の耳に届く前に、彼の眼は涙を溢れさせていた。
 頬が熱い。
 ――涙が、熱い。
 駆け寄りたいのに膝が言うことを利かない。男は――護は苦笑して彪の側に歩み寄ってくる。
「ま……」
 護の手が彪の肩に触れた。
「護……」
 舌がもつれてうまくしゃべれない。五年ぶりに呼ぶ名前が、耳に懐かしい。護は昔と同じように黙って頭を撫でてくれた。
「護」
 彪は護の胸にしがみつく。涙が流れて彼の名前しか言えない。
 五年間のいろいろな思い出が涙となって溢れ出してくる。悩んだこと、苦しんだこと、辛かったこと。記憶の奔流を、止められない。
「護……」
「……大きくなりましたね」
 護が呟いた。昔は護の胸元までくらいしかなかった身長が、今は肩を少し超えている。それでも護は彪よりずっと大きいけれど……。
「だって……だって五年も」
 大きく波打つ背中を撫でてくれる護の大きな手を感じながら、彼の顔を見上げる。
「僕は……ずっと会いたかった」
「…………」
 護は彪の見たこともないような表情をしていた。微笑んではいるのに、眼はどこか曇っている。それでも優しい声で、
「貴方は変わりませんね」
 と囁いた。
「いつまでたっても……貴方は」
「護は……変わったの?」
 彪はすがるような眼差しで彼を見上げる。だが、見つめ返すその視線からは何も読み取ることができなかった。
「……彪さん」
 護の声が少し強張る。
「『約束』を……果たしに来ました」
 護の眼は彪をまっすぐ捉えていた。彪の好きだった赤い瞳は、昔と同じルビーのきらめきを放っている。――けれど……やはりどこか曇っているような……。
「終わるのは僕だと思っていたのだけれど……」
 ――何を言っているのか、よく分からない。
 不意に、彪は自分の体が小刻みに震えていることに気付いた。護はそれを止めようとするかのように彪の両肩に掌を置いて、囁く。
「僕は貴方を終わらせなければならないようです」

 ――どうして、

 彪はぼんやりと思った。

 ――どうしてそんな顔で、

「彪さん……僕は」

 ――どうしてそんなに、

「貴方を殺しに来たんです」

 ――泣かないで。

 彪は眼を閉じた。

 ――泣かないで、護。