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第一幕 奇跡の革命 – 第三章

  1

 評議会議員たちは皆仕事に追われる日々が続き、気がつくと先王の死から一年と少しが経っていた。
 改革は大筋でうまくいっている。内政は勿論、外交もこの国の存在が近隣諸国の対立に緩衝作用を働かせているようで、王自ら行う表敬外交の他、顕が中心となって進める実務外交も充分に機能していた。
 心配されたイデアリストたちの堕落――金銭絡みの汚職や背任――だが、徹底した情報公開と外部監査機関の存在によって、現在のところ未然に防がれているようだった。
 だがもしかすると、あの王の存在の影響もあるのかもしれない。いつまでたっても穢れを知らないまま、誰をも信頼してやまない彼。彼を裏切ることなど、少なくとも叶には出来ない。
 その日も叶は深夜まで法案文書に目を通す作業に追われ、王宮に設けられた執務室にこのまま泊まり込む必要がありそうだった。
 応接室を兼ねた執務室は、叶をはじめとして雪彦や顕などの評議会内の専門部会を束ねる立場にある者たちに与えられており、全部で十数カ所ある。それなりに上質のソファなども置かれていて、事実上仮眠室も兼ねているのだった。
 叶は毛布をソファに掛け、電気を消して眠ろうとしたのだが、窓から差し込んできた月明かりにカーテンを閉めていなかったことに気付いて身を起こした。
 叶は窓際に歩み寄る。二階の部屋からは中庭が一望できるが、月が照らし出す庭園は太陽の元で見るそれとは趣を異にしていた。
「ほう――」
 今夜は満月。白い月の表層が、無表情に世界を見下ろしている。
「我々は……小さいな」
 何となくそんなことを思い、叶は苦笑した。
 少し外に出よう。
 彼は裸足のまま靴をはき、シャツの上から薄いカーディガンを羽織って部屋から出た。

 中庭に備えられたベンチに腰を下ろし、青々と茂った藤棚を見上げる。さし込む月光が少し目に眩しいほどだった。
 初夏の夜は、まだ涼しい。昼間の汗ばむ陽気とは打って変わった冷ややかさが肌を包んだ。
「…………」
 叶は大きくため息をついた。静かな空間。肩の力が抜けていく。
 ――これが、しあわせなのだろうか。
 叶はぼんやりと思った。毎日忙しいが、今までになく充実している。新しい施策が功を上げれば嬉しい。失敗すれば大急ぎで改善する。目の前の書類の向こうには人々の暮らしがあって、そこにはたくさんの幸せが生まれている。
 ――私のしあわせは、きっと……ここにある。
 がさ、と茂みが音を立て、叶は驚いて立ち上がった。
「……あら?」
 声は聞きなれた女性のものだった。
「叶さん。どうなさったんですか?」
「あ……いや、譲さん」
 叶は慌てて座りなおした。
「散歩です」
「そうですか」
 譲は微笑んだ。
「月が綺麗ですものね」
「ええ。……貴方は?」
「私は……」
 譲は少し逡巡したが、
「そうね。散歩です」
 と答えた。
 譲は叶の側に腰を下ろし、ゆっくりと口を開いた。
「……私、叶さんに謝らなければならないことがあります」
「え?」
 叶は聞き返した。譲は目を伏せて囁くように言う。
「私、貴方を信じていなかった」
 譲の言っている意味が良く分からない。叶は眉を顰める。
「彪さんが貴方を評議会議長に任命して。彼は貴方を信頼しきっていたけれど、私は無理だった」
「…………」
「いつか、貴方は彪さんに害を成すんじゃないかって……そう思っていたわ」
 権力という名の麻薬に溺れ、自らが絶対者になろうとするのではないかと……。
 叶は口元だけで笑った。
「その危惧は良く分かります。私自身……、自分がそうならないようにと気をつけましたから」
「彪さんには何度か注進したけれど……、彼はそんなこと気にもとめなかった」
 ――もしも僕が裏切られるとしたら、それは僕の責任だから。叶さんは悪くない。
「『もしそうなったら、僕の理想が叶さんに協力してもらえるだけの力を持っていなかったということだ』って」
 譲は目を閉じた。
 口には出さず、その続きの言葉を思い出す。
 ――叶さんを僕が引きとめて置けないなら、僕にはあの人を変えることなんてできやしないよ。
 真っ直ぐな瞳。きらきらした輝きは褪せることなく彼を彩る。
 ――それでもまだ、あの子の持つ闇を晴らすには足りない……。
「彼は不思議な人ですね」
 譲ははっと顔を上げた。
「どうしたらあんなに純粋なまま生きていられるのか……私には分かりません」
 純粋なままでいればいるほど傷ついていく。だから、人は大人になるにしたがって狡さや疑い深さを身に着けていく。それは悪いことでもなんでもない。生きていくためには必要なことで、それが人間というものだ。
 傷つくことは怖いから。痛みに耐えるのは苦しいことだから。
 自分を守るために、そうやって防御することを学ばなければならない。そういうものだと思っていたのだが……。
「どうやら陛下には当てはまらないらしい」
「……そうですね」
 譲は頷いた。
「私より貴方の方が陛下といる時間は長いでしょう? 氷雁譲さん」
 叶はそう言って、譲を真っ直ぐに見据えた。
「央夏女子大学卒業後、王宮付の侍女として勤務、能力を高く買われて先王からの信頼も厚かった……」
 朗々と、彼女の略歴を語る。
「不思議なのは、その頃王宮に勤められるのは一部の名家だけだったはずで、氷雁家はそのリストには入っていなかったということです」
「…………」
 譲は無表情に沈黙していた。
「まあ、そのリストも表向きのもので……当てにはなりませんが」
 名家にも様々なものがあった。
 代々続く貴族の家柄。無視できないほどの経済力を持つ商人たち。王の寵愛を受けた妃――正妻かどうかに関わらず――の実家。そして……。
「決して、表には出ない『家柄』というのもある……」
 彼の言葉に、譲は小さく呟いた。
「貴方の言おうとしていることは分かりますけど……、氷雁家は違う」
「そうですか?」
 叶は厳しい視線を向けた。
「氷雁家は違うかもしれない。しかし、貴方が名乗っているのは母方の姓ですよね? 父方の家柄はどうです?」
「……よくご存知のようね」
「情報は貴重ですよ。特に今、王はこの国にとって大切な人物なのですから」
 譲の表情は動かない。
「誰が先王を殺したのかも、ある程度はわかっています」
 叶は膝の上で指を組み合わせた。
「ある『家』――というものがこの国にはある。いえ、この国だけの存在というわけではありませんが」
 どこの国にもおそらく似たような存在はあるのだろう。半ば公然と認められている殺人者――すなわち、「暗殺者」。
「その『家』の当主こそが、先王を殺した人物です」
 叶は少し口を閉じ、再び開いた。

「貴方の弟さんですね、譲さん」

  2

 彪は眼を覚まし、枕もとの時計を見遣った。ちょうど起床時刻の五分前だ。
 子供のころから寝慣れた、大きなベッドの上。昔よりは広く感じなくなったが、「彼」がいなくなった当初はなかなか寝付けなかった。もう「彼」は僕を起こしに来てくれない……悪夢を見ても守ってはくれない……。
 ――それでも、もう泣かないと決めたから。
 彪は身を起こし、ベッドから下りた。
 ベッドヘッドのサイドテーブルに置かれた花瓶には、もうあの花はない。譲にも知らせずにこっそりと活け、水を替え、一生懸命世話をしてみたが……やはり切花の命は短かった。それでも、花束に添えてあったカードとリボンは大切にとってある。
 花瓶の傍には伏せられた写真立てがあった。そこには「彼」が一枚だけ――すべての痕跡を抹消するようにいなくなってしまった「彼」が見落としたのか――残していった写真が入れてある。一体いつ撮ったのかも忘れたが、自分と「彼」とが仲良く並んで笑っていた。
 あの日を境に、何故か王宮の誰も「彼」のことを語らなくなった。まるで、最初からどこにもいなかったようだ。譲に聞くと、どうやら「彼」の後ろ盾の組織が何らかの方法で手を回したらしい。具体的な方法は、彼女も知らないようだった。記憶が消されているのか、それとも……。
 自分は忘れさせられなくて良かった。彪はそう思う。「彼」のことを忘れて生きていくことなど、彪にはできない。そんなことは、望まない。
「おはよう」
 その写真に向かって挨拶をして、彪は身支度をする。必ず忘れないようにあのブローチをつけて……。
「今日も頑張ろう」
 誰にともなく呟いて、彪は寝室を出た。

 朝食は大抵譲とともにとる。寝室の次の間にあるダイニングセットを用い、給仕は譲に任せていた。
「昨日の夜、叶さんと話をしました」
 譲の言葉に、彪は飲んでいたスープから眼を上げた。
「何のお話?」
「……叶さん、あの『家』のことを調べたみたい」
 カチャリ。彪のスプーンを持つ手が止まった。
「……それで?」
 まだ幼い声が、硬く強張っている。
「『火影(ほかげ)』のことまではさすがに無理だったようだけれど……、私が先王を殺した者の姉だってことまでは分かっているよう。もしかしたら私も疑われたのかもしれない。ひとまず、私と『家』が関係ないってことは分かってくれたみたいだけれど」
「…………」
「とりあえず、深入りはやめてくれるよう頼んだわ。叶さんの身が危なくなるから」
「……そうだね」
「一応それは了承してくれたのだけれど……でも叶さん、貴方のことを心配していた」
「それは僕が王だから」
 彪は微笑んだ。
「四年後には『王』は要らなくなる。そうしたら、心配をかけずに済むよ」
「私は……」
「それに」
 彪はきっぱりと遮った。
「もうそのことは十分話し合ったよね?」
「…………」
 譲は口を噤む。
「誰に何と言われたっていい。馬鹿だって言われても、わがままだって言われてもいい。それでも、僕にとってはあの人との『約束』が一番大事だから」
「…………」
「ごめんね、譲さん」
 譲は首を横に振った。
「謝らないで下さい。私も貴方に賭けているんです」
 ――弟に殺された母の願いを叶えるために。
「貴方を信じているわ」
 譲は優しく微笑んだ。
 彪はその笑みに「彼」の面影を見て――滲みそうになった涙を瞬きで誤魔化した。

  3

 雪彦の部局は法務省と呼ばれるようになっていた。
 裁判所は独立した司法権を持つようになり、公正な裁判が実現した。過去のように身分や経済力によって裁判が不当に歪められることもない。また、犯罪発生率はここ一年間で減少の一途をたどっていた。
 ――衣食足って礼節を知る、か。
 遠いどこかの大陸のある国で、太古の昔誰かが言った言葉だそうだ。雪彦はそれを叶に教えてもらった。叶は父親に聞いたといっていたか。
 ――そういえば、叶さんの父親は……。雪彦は思い出す。酩酊した貴族の子弟たちの一団に街中で因縁をつけられ、嬲り殺されたと聞いた。明らかに先方に非があったのに、真野家が平民であったために相手方はほとんど罪に問われなかったらしい。
 ――叶さんは、それで「改革」を志したのかな……。
 雪彦はぼんやりしていた思考を元に戻し、手元の書類に目を落とした。彼が調べていたのは、ここ一年間に起きた変死事件である。
「これもか……至近距離からの銃弾で即死、いちおう自殺として処理されているけれど……何となく不自然だ」
 雪彦は首をひねる。叶に言われて調べ始めたのだが、一ヶ月に一件ほどの割合で似たような事件が起きていた。
「遺言はなし……現場に残っていた拳銃が本人の所持品かは確認できず……動機も不明……他殺の可能性について捜査するも手がかりなし……」
 鮮やか過ぎる手際だ。雪彦はため息をついた。叶の言う通り、やはりこれは職業的な殺人者の仕業ということだろうか。
 先王を殺した――暗殺者。確かに手口は似ているが……。
 殺された者たちのリストを並べてみる。雪彦の眉が自然に寄った。
 ――隣国との密輸貿易が発覚した企業の重役。
 ――他国のスパイ疑惑を持たれていた男。
 ――独占企業のワンマン経営者。
 ――強硬なタカ派論を主張して外交問題を引き起こしかねなかった学者。
 いかにも後ろ暗いところのありそうな者たちばかりである。企業側の隠蔽工作とも考えられるし、商売敵からの恨みの線もある。が、どちらにせよ殺される理由に不自由しなさそうな者たちだ。こうやって並べてみると、暗殺者といえども一定のルールがあるのかもしれない。
「そういうの、俺は嫌だけどな……」
 たとえどんな悪人であっても、人間が人間を殺してよいものだとは思えない。人間を殺してよい資格を持つ人間などいるはずがないと思うのだ。
「暗殺者だって人間なんだから……」
 ――本当にそうなんだろうか?
 ちらりと胸によぎった疑問を自覚することもなく、雪彦は書類に眼を落とす。
「羽渡!!」
 不意に、雪彦の執務室の扉が勢いよく開いた。慌てて書類を持ち直す彼の眼に、彼よりもっと慌てた様子の同僚の姿が映る。外務省の事務局長をしている三田村(みたむら)だ。年齢は雪彦より少し上である。
「三田村さん? どうしました?」
「董から極秘裏に連絡があった」
 声を低めて三田村は言う。
(てい)が……」
「汀?」
 この国から少し離れているが、近隣地域で大きな影響力を持つ大きな王国である。最近は、近隣の小国全てとうまく折り合っていない。
「ああ。知っての通り、特に最近わが国を敵視している」
「はい」
 何が言いたいのかと彼の顔を見る雪彦に、彼は引きつった顔で告げた。
「実は、近隣の王国のほとんどがわが国に倣って共和制に移行しようとしている……。董などはクーデターが最近起こって新しい政権が建ったな。王は全権を手放し、国民に委譲せざるを得なかった。他国でも、王制派と共和派が衝突しているところがある」
「ええ」
「汀はそれをわが国の差し金だと思っているらしい。共和制を敷く国に対し、援助する代わりに影響力を行使するのではないか、と」
「は?」
 雪彦は聞き返した。三田村は言い直す。
「汀は危機感を持っている。わが国がこれ以上大きな影響力を近隣諸国に対して持つようになると、汀を脅かすことになるとね」
「それで……?」
「それで、だ」
 彼はさらに声を低め、雪彦の耳元に何か囁いた。雪彦の顔が強張る。
「叶さんに連絡は?」
「もちろん」
「緊急に警戒態勢を整えないと……」
「ああ。……しかし、ああいった者たちを止められるものなのか……」
「…………」
 ――「彼ら」に対抗できるのは、同じ呪いを受けた者たちだけではないだろうか。ふと、雪彦はそんなことを思った。