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第一幕 奇跡の革命 – 第二章

  1

 ――戦争は終わった。
 条約案を練って特使を各国に派遣すると、大抵の国が意外なほどすんなりと交渉に応じた。この国が中立国となるのは、小国の乱立するこの地方では良い選択だったのだろう。董もやがて交渉に応じ、結局領土の割譲も賠償金の支払いもなく戦争は終結した。
 待ちに待った平和。国民の喜びの声は評議会議員も肌で感じている。無論王もそれは同じだろう。彼に呼ばれ、今回の功労者は王専用の応接室を訪れた。外交部門のヘッドである、穂積(ほづみ)(あき)。王と一対一で話をするのは、初めてのことだった。
 以前から思っていたことではあるが、やはりこの王を見ていると何となく母性本能がくすぐられる。凛とした眼差しの強さの奥に、深い色がある。それはどこか絶望にも似た色でで彩られているようにも思われて……。
 ――絶望?
 顕は内心で否定した。まさか、絶望なんてこの人には似合わない。彼はこの国に希望をもたらす存在なのだから。
 ぼんやりとしていた彼女の目の前のティーカップに、譲が紅茶を注いだ。
「お疲れですか?」
 顕と同じ、セミショートの黒髪が揺れる。
「いえ」
 顕は首を振り、譲に微笑みかけた。年があまり変わらないせいか、譲には親近感を覚えている。
 この国に限ったことではないが、封建制度の弊害で女性の社会進出は進んでいない。評議会議員に占める女性の割合は比較的高い方だが、それでも数名である。
「お疲れ様でした。ありがとう」
 屈託なくそう言って笑う王に、顕は慌てて頭を下げた。
 人間は生来平等なものなのだと主張してみても、この王の持つ気品は誰とも違っていて、やはり別格なのだった。そのカリスマ性は高貴な血がもたらすものだ、とは思いたくない。だが、王の持つそれは叶のものとは明らかに違う、別種のものだ。人を惹きつけるという意味では同じなのだろうが、顕には王がまるで天から遣わされた者であるかのように思われる。――もちろん、そんなものは非現実的な空想に過ぎないとはわかっていても。
「疲れているなんて。やりがいのある仕事でしたから」
 彼女は心からそう言った。
「この仕事が国民の皆をしあわせにするんですもの。誰かのしあわせのお手伝いができるなんて、素晴らしいことです」
 王の表情に、ちりっとした何かが走った。痛み、のような何か。
「そうだね。誰かのしあわせの、手伝い……」
 搾り出すように呟かれた言葉は、いつもの声音とは違っていた。
 顕は内心訝しく思った。彼女が言ったことは大したことではない。無論本心から出た言葉だが、よくある正論だと思う。それなのに何故、王はこれほどまでに動揺を見せるのか……。
「顕さんの努力は報われましたか?」
 話をそらすような譲の言葉に、顕は王から視線を外した。
「ええ、勿論です」
 顕はカップを手に取った。
「ごめんね、忙しいのに時間をとってもらって」
 元の表情に戻った王は、すまなさそうに言った。
「本当に本当に、感謝している。どうしても直接伝えたかった」
「ありがとうございます。私はただ、プロとして職務を果たしただけです。それに」
 顕は微笑んだ。
「こうして陛下と話せるのは嬉しいことです」
「人間は平等なのに、ですか?」
 譲が茶化すように言うと、顕は首を横に振った。
「陛下が王だから嬉しいのではありません。『清柳院彪』様という、ひとりの人間とこうして話し合えることが、私の人生にとって有意義だと感じます」
「大袈裟だよ」
 ――また、王に痛みが走ったように見えた。
「でも、本当のことですよ」
 顕は熱をこめて言った。
「そう言ってもらえるのは光栄だけど……、でも僕は同じことを評議会議員の人たちに対して思うよ」
 先ほどと同じように、一瞬のうちに影は消えてしまう。
「叶さんも雪彦さんも、貴方も……みんな素晴らしい人たちだもの。僕は教えられることばかりだ」
「そんな……」
 顕の言葉を聞き終わる前に、王は席を立って窓際に歩み寄った。
「僕は、貴方たちを信じている」
「…………」
「僕が信じた人は、皆信じるに値する人だった。僕はそういうの、間違えたことないんだ」
 ――振り向いた王の顔は逆光で見えなかった。それでも、声音から……また同じ痛みを顕は感じ取る。同時に、譲がひどく辛そうな顔をしているのも視界の端で捕らえていた。
「もうすぐ春だね」
 くるりと身を翻し、王はソファへと戻ってくる。その時には、既にいつも通りの毅然とした表情をしていた。
「その頃には憲法も発布できそうだし……、地方首長の選挙もしなければ」
 今までは世襲制の領主が地方を治めてきたが、今後は違う。成人全員が選挙権と被選挙権を持ち、自らの力と意志で市長や知事を選び、また選ばれるのだ。
 権利は与えられた。あとは行使するものの自覚次第である。
「自分のしあわせは自分で行動しなきゃ掴めないんだ、って叶さんがよく言うんです。昔からの口癖のようで」
 顕がそう言うと、王は微笑して頷いた。
「そうだね……」
 ――僕も、今僕のしあわせの為に行動している。王はそう言う。
 彼の指先は胸元のブローチをなでていた。その指がかすかに震えているのに気付く。天使のブローチ。純金にサファイアが嵌め込まれている。
 顕はふと気付いた。――そういえば、いつも王はそれを身につけている……。
「その、ブローチ」
 王が驚いたように顕を見た。その視線の強さに顕は少しひるむ。
「大切なものなんですか? いつもつけていらっしゃいますけど」
「気付いた?」
 冗談のように笑って、王は頷いた。
「どなたかの、形見で……?」
 控えめに尋ねると、彼は首を横に振った。
「違うよ。……大切なものではあるんだけどね」
 両手でそっと包みこむように触れる。その仕種の優しさに、顕ははっとした。
「そう……とても大切なものなんだよ」
 それは独り言のようだった。切なげな声は、幸せなようでいて、辛そうでもある。長い睫毛は今にも涙を湛えそうな青い瞳を隠していた。
 ――同じ色だ。ブローチを飾るサファイアの青と王の瞳。限りなく同じ色に近い。おそらくそれを贈った人は、彼の瞳の色を良く知っていたのだろう。良く知っていて、わざわざ似た色を探してきたのだ。
「贈り主はきっと、貴方を良く知っている方なんですね」
 顕は微笑んだ。それが誰かはわからない。誰でも良いとさえ思った。
「どうして?」
 王は不思議そうに首を傾げ、尋ねる。
「その天使は、貴方に似ているんです。きっと贈った方も、そう思っていたはず」
「まさか」
 笑って否定する彼に、顕は言葉を重ねた。
「いえ、本当ですよ。貴方の髪と、眼と……良く似ています。それを見たら誰だって貴方を連想するでしょうから」
「…………」
「陛下はご存知ですか? 国民は今、貴方を『天使王』と呼んでいるんですよ?」
 王は複雑な色の入り混じった表情をした。悲しみと痛みをじっとこらえているかのような、そんな笑顔。
「だから、きっとそれを贈った方も貴方を天使だって、思っていたのかもしれませんね」
「……ありがとう」
 不意に王は立ちあがり、後ろを向いた。
「彪さん」
 譲がそっと彼の名を呼ぶ。王は困ったように首を横に振って、振り向かない。
「あ……」
 顕は不意に悟った。王は泣いている。きっと王にそのブローチを贈った人は今遠くにいて、会えなくて……王はその人に会いたいのだろう。
 ――その人こそが、王の「しあわせ」なのだろうか……。
「陛下……、あの」
 顕は譲をちらりと見て立ちあがった。
「長々と居座ってすみませんでした。そろそろ会議もありますし、お暇させていただきますね」
「あ、うん」
 王は慌てたように目をこすり、振り向いた。少し目元が赤い。
「ごめん、なんだか変な話になってしまったね」
「いいえ。私こそ失礼を。申し訳ありませんでした」
 立ちあがった顕は深々と頭を下げ、そのまま視線を落として部屋の扉まで進む。もう、王の顔を見てはいけない。
 顕はようやく思い出していた――「清柳院彪」はまだ、十三歳の少年なのだと。

  2

 その日、雪彦は久しぶりに町に出ていた。憲法制定作業も一段落がつき、あとは国民投票によって承認を受けるのを待つばかりである。
 首都央夏は以前と比べて一段と活気を増していた。――やはり改革の成果が上がっているということか。そう思うと何となく嬉しくなる。
 冬の風はまだ厳しいが、もうすぐ春だ。
「春といえば……」
 王の誕生日は春だった。雪彦はふと思い出す。
 今年はどのようにして祝うのだろうか。王が即位して初めての生誕祭である。とはいえ以前のように豪華に祝うとも考えられない。生誕祭、という言葉を耳にした王は、胸元を飾る天使のブローチに指先で触れながら、どこか寂しげな瞳を見せていた。
 ――王には何か秘密がある。それは彼だけが感じていることではない。
 何か……、何か辛い思い出がある。大切な誰かを失くした。もしくは遠くに行ってしまった。そういったことだというのは何となく分かる。だがそれ以上のことはどうしても立ち入れなかった。
 ――おそらく譲さんは知っているのだろうけれど……。
 雪彦はため息をつく。
 叶の言うとおり、考えてもどうしようもないことではあった。詮索するのも気が引ける。それに、それは我々の仕事ではないのだから……。
 足の向くまま、街角のカフェに入る。混雑した店内をかき分け、端の方のカウンター席に座った。
「コーヒー」
 雪彦はそうオーダーして、テーブルの上に肘を載せる。
 隣りに座っている男の新聞に、ちらりと目を落とす。そこには毎日のように紙面を飾る王の柔らかな笑顔がプリントされていた。相変わらず、まるで天使のような……。
「『天使王』――ですか」
 低い艶やかな声に、雪彦は驚いて隣りの男の顔を見遣る。まるで彼の心のうちを読んだかのようなタイミングだった。
 目元は濃い色のサングラスで隠されていたが、それでもぞっとするほど端整な顔立ちの青年だ。とても美しいのに、どこか影のある雰囲気を纏っている。年齢は雪彦と同年代だろう。
 ――どこかで見たような……。
 雪彦は眉を顰めた。
 ――いや、誰かに似ているのか……。
 黒い髪を指で軽く払いながら、男は雪彦の方を見てくすりと笑った。笑顔なのに明るくない表情。不思議な男だと思った。
「貴方、羽渡雪彦さんでしょう? 評議会議員の」
「え?」
 度肝を抜かれて聞き返すと、男は笑みを深めた。雪彦は男の掴み所のない雰囲気に、柄にもなく戸惑う。
 だが、男の次の台詞で雪彦はようやく我に返った。
「この国は変わっていきますね」
 雪彦は重々しく頷いた。それだけは断言できる。
「勿論です。そのための改革ですから」
「……変わらないものなど、何もないのでしょうか」
「…………」
 まるで独り言のように男は呟いた。雪彦が答えを見つけられないうちに、男は新たな問いを発する。
「王はお元気ですか?」
「…………」
 どこか、親しそうな口ぶりだ。この男は王と知り合いなのだろうか。どうも解せない。雪彦は警戒の色を顔に浮かべた。
「貴方……一体何者ですか?」
「僕? 僕は別に、ただの一市民ですよ」
「本当ですか?」
 険しい眼光が男を射る。だが、彼は何ら痛痒を感じていないようだった。
「本当ですとも」
 男は微笑んだ。
「一国民として、王はお元気かなと思ったんですよ。何かおかしいですか?」
「い……いえ」
 ――何もおかしくはない。おかしくはないが……。
 何かがひっかかる。この男はきっとただの一市民などではない。雪彦は確証もなくそう思った。まるで鋭い刃を柔らかな布で覆い隠したような、そんな愛想の良さを感じる。
「そうだ、気になっていたんですけれども」
 男は雪彦の逡巡には気付かない様子で新聞をめくった。
「この、王のつけているブローチ」
 新聞の粗い画像では分かりにくいが、雪彦には何のことかすぐわかった。男のすんなりした長い指が指しているのは、顕も気にした天使のブローチだ。
「これ、いつもつけておられるんですか? 写真ではそうですよね」
「いつもですよ」
 男は少しだけ、表情を揺らした。
「……そうですか」
「きっとお気に入りなんでしょうね。肌身離さずつけていらっしゃいますから」
「…………」
 男は微笑んだ。――多分、雪彦に対してのものではなかった。写真の向こうの、王に向けられたもの。それは、ひどく柔らかな微笑。
「……変わりませんね」
「え?」
 雪彦が聞き返しても、男は何も言わなかった。伝票とお金をカウンターに残し、新聞は雪彦の手に渡したままで席を立つ。
「僕は――変わるのか。変わらないのか。……変われないのか」
 その言葉は、雪彦には聞こえない。
「ちょ、ちょっと貴方……」
 追いかけようとする雪彦だが、男の身のこなしが素早すぎてついていけない。長身のくせに、人ごみの中へとさっさと紛れ込んでいく。雪彦は呆然と、その背中を見送った。
 
 男が店を出ようとしたとき、店先に貼られたタブロイド紙に再び王の姿があった。彼は一瞬それに目を止め――やがて再び歩き出す。
「――『約束』。……忘れてはいませんよ、彪さん」
 彼の呟きは、自分の耳にさえ届かないような小さなものだった。

  3

 春。彪の誕生日はひどく簡素に祝われることとなった。
 バルコニーから短い演説をして、広い前庭に集まっていた国民たちから歓声を受けて。夜は一通り晩餐会の予定が組まれているが、それもごくごく少数で開かれる。
 彪は落ち着かない様子で前庭に集まった人々をじっと見ていた。バルコニーからでは一人一人の顔など見分けられないのに、まるで誰かを探すように。
「彪さん」
 諭すような譲の声に、彪はわかっているというように頷いた。
「あの人がいるはずがない。わかってるよ」
 哀しげな微笑。譲は辛そうな顔で眼を逸らした。
「…………」
 彪はそのまま黙ってバルコニーから室内へと入る。譲は少しその場に残り、ふと人ごみの中に眼をやった。
 ――不意にそこに開いた闇。髪も服も全てが黒。纏う雰囲気さえ深い闇色。ただ瞳だけが赤く――微笑んで――。
「……っ!!」
 驚愕に思わず瞬きを繰り返す。
「まも……」
 もう一度彼をこの眼に捕らえようとするが、
「え……?」
 それは一瞬のうちに消えてしまっていた。
 ――でも、あれは……見間違いじゃない……。
 見間違うはずはない。もう一度目を凝らすが、彼の姿はどこにもなかった。――しかし、彼はあの時確かにいた。
「見間違うはずなんて、ない……」
 譲は身を翻してバルコニーから離れる。彪はもう自室に帰ってしまっているようだった。
 このことは彪には言えない。彪は彼の名前すら口にせず、ずっと待っているのだ。「約束」の五年間が過ぎるのを。自分を殺しに来るかもしれない彼を、ずっと待っている。ほんの僅かな可能性に命を賭けて。
 ――何のつもりなの……何で……ここにいるの……。
 譲の手が震えた。
 変わらない微笑み。変わらない冷たさを纏って、彼は確かにいた。
 ――でも、でも本当に変わっていないの……? 一年前から……彪さんと出会った時から、少しも変わっていないの……?
 ――いや、違う。八年前から、だ。
 譲から母親を奪った――いや、彼自身の母親を彼が殺した時から。
 ――貴方は何も変わっていないの……?
「じゃあ、どうしてここに来たの」
 譲の唇は噛み締められて白い。
「彪に会いに……彪を見に来たの……?」
 ――何故……?
 いつまでたっても来ない譲に業をにやしたのか、彪が譲の元に戻ってきた。
「どうしたの? 譲さん」
「いえ」
 強張っていた顔で無理矢理に微笑む。
「少し眩暈がしたのよ。たいしたことないわ」
「そう」
 彪が心配そうに顔をしかめて頷いた。
「ちゃんと寝てる?」
「ええ。貴方の方こそ心配よ」
「大丈夫だよ、僕は」
 彪は屈託ない様子で笑う。
「僕が病気になるわけにはいかない。ちゃんと、僕は元気でいなきゃ」
 ――それも「約束」のため、なのね。
 譲は胸に突き刺さるような痛みを感じた。彪を苦しめるのは、自分の半身である彼。それでいて、彪にしあわせを与えることができたのも彼だけ。
 ――私は、……私にできることは、一体……。
「僕は、大丈夫」
 言い聞かせるように彪は呟き、また笑った。譲も応えるように微笑む。
 ――そうよ、見間違うはずなんてない……。
 彼の面影を瞼の裏に宿す。
 ――だって彼は、私の弟だもの。世界でたった一人の、双子の弟なのだから……。
「さ、戻ろう」
 促す彪に伴われ、譲は部屋を出た。

  4

 ――もう二度と戦争が起きないように。
 誰かと誰かが殺し合わなくてすむように。誰かの命が理不尽に奪われることがないように。誰かの心が殺されてしまうことのないように。
 僕らは努力しなければなりません。
 自分のしあわせを守りたいなら。大切な誰かをしあわせにしたいなら。他人任せにするのではなく、精一杯努力しなければなりません。
 僕はただ――そのお手伝いしか出来ないけれど。
 革命評議会の皆さんに力を借りて、国民の皆さんの声に後押しされて、僕は僕に出来ることを一生懸命しています。
 僕のしあわせのために。僕の大切な人のしあわせのために。

 ――彪は廊下を歩いていた。長い一日だったが、ようやく自室へと戻ることができる。
 不意に、去年の誕生日が思い返されて、ぎゅっと胸が痛んだ。
 襟元には、あの天使のブローチ。
 眼を伏せた彪の脳裏には、彼の姿が思い浮かぶ。
「通じたかな……」
 言葉は基本的に無力なものだ。彪はそのことを知っている。
 言葉は受け手の気持ち次第で力を増すが、その逆もまたあり得る。そして、発言者にはどうすることもできないこともある。
 彼には通じだろうか。
「今はまだ、通じなくてもいいけど……」
 あと五年。いや、四年と少し。
「待っていて」
 ――「約束」したのだから。
「忘れないで」
 ――ちゃんと会いに来て。
「それが僕を終わらせることであっても……それでも、僕は……」
 良く、変わったと言われる。
 晩餐会に同席した叔母にも言われた。
「私の記憶にある彪ちゃんは、とても泣き虫さんで気弱だったのに。随分立派に……しっかりなさったのね」
 可愛い顔は相変わらずだけど、と言って上品に笑う。亡き母の妹である叔母の笑顔に、おぼろげに母親の面影を感じたが、昔ほどそれが辛くはなくなっていた。
 届かない過去を追い求めるより、変えられる未来を信じていたい。
 厳格で自分を愛してくれない父親に、おどおどしていた時期がある。亡くなった母親への追慕の情から、逃れられなかった頃がある。
 他人の顔色をうかがい、誰からも嫌われてはいけないと思いつめていた。自分が王になったって大したことはできないんだと、そう思いこんでいた。だから、せめて誰も傷つけないように。誰にも傷つけられたくないから、だから……。
 結局のところ、寂しかったのだろうと思う。
 あの頃の自分の優しさと大人しさは、他人に媚を売っていたのと大差ない。泣き虫だったのも、気弱だったのも、他人に対して強く怯えていたから。恐ろしい他人――その筆頭が、父親だった。
 父親は彪を愛さなかった。愛した妻を彼から奪い、妻に良く似た面影を宿す、自分の息子を。愛することができなかった。
 今なら父親のこともそうやって冷静に分析できる。生前、ただ怯えていただけの自分とは違う。
 
 ――変わったのだろうか、僕は。
 
 もしそうだとしたら、それはあの人が変えてくれたのだ。しあわせとは何なのかがわかったから。僕にとってのしあわせの意味を知ったから。
「だって、あの人は僕を」
 僕を、とても――。
 彪は自室のドアを開けた。鼻を掠める甘い香りに眼を瞬く。
「え……?」
 部屋の中央部に置かれたテーブルの上。小さなブーケのような花束が置かれていた。彪はそれに駆け寄る。そっと胸の中に抱き上げると、パサリと何かが床に落ちた。
「…………」
 震える指で拾い上げると、それは一枚の白いカードだった。白い花の甘い芳香を胸一杯吸い込みながら、彪はその文面を目で追う。心臓が怖いほど早鐘を打った。
 流れるような綺麗な文字で書きつけられた短い言葉。それを読み上げる声は、細かく震えていた。
 
「お誕生日おめでとう。これは、貴方との『約束』を忘れていない証です」

 記名はない。だが、この筆跡を見間違うことはあり得ない。
 彪の眼から涙が零れた。窓は鍵がかかっていたはずだとか、どうやってここに入ってきたのかとか、そんなことはどうだって良かった。
 彼なら何としてでもここには来れる。彼はここを良く知っているのだから。
「そう……貴方は知っているよね……」
 彪は花束を胸に抱いて、膝から崩れ落ちるように床の上に座り込んだ。
 彼は知っているのだ。彪は白い花が大好きだということを。
 ――ずっと枯れなければいいのに。彪は思った。彼が僕のために持ってきてくれた花なのだから、枯れなければいいのに。
「来年も……来てくれる……?」
 彪は震える声で呟いた。
「来年も……その次も」
 「約束」を彼が覚えている限り、来てくれるのだろうか。
「………………」
 声にならない声で彼の名を呼ぶ。何度も何度も、繰り返し……。

 ――今はまだ、届かない。