instagram

閉ざされた瞳

 彼は、今日も目覚めない。――いや、今日こそは目覚めるかもしれない。
 僕は職務から解き放たれたお陰で有り余るこの時間を、眠り続ける彼の側で過ごすことに使っている。
 かたく閉ざされた瞳が、いつか開くことを願いながら――。
 
 
 彼は、最初から僕の特別だった。
 彼はきっとそんなこととは知らなかっただろうし、そんなつもりもなかったに違いない。けれど、彼は最初から僕を名前で呼んだ。「彪」という名で――昔母親が呼んだきり、誰も呼ばなくなってしまった名で、呼んでくれた。殿下、とは呼ばなかった。
 今ならわかる。僕が王子であることに彼が頓着しなかったのは、彼が僕という人間自身には何の興味もなかったからだ。「標的」の息子、あるいは「標的」を殺害するまでの間仕えるべき相手――その程度の認識に過ぎなかったのだと思う。
 彼は、別に僕をかわいがったつもりもないのだろう。それなのに――いや、だからこそ、彼は僕の特別だったのだ。僕は、彼の特別ではなかったから。だからこそ、逆説的に、彼は僕の特別となった。

 彼がいなくなってからの五年間、僕はいろいろと考えた。考え続けていた。何故、彼はわざわざ一年も前に王宮に送り込まれたのか。何故、たくさんの人間に顔を知られる危険性のある、王子の家庭教師などという役割を演じていたのか。彼のような暗殺者――職業的な殺人者にとって、一番望ましくないといっていい状況に、何故甘んじて身を置いたのか。
 正確なところは分からない。彼は何も語らないし――彼の姉である彼女も、やはり語ろうとはしない。隠しているのではなく、彼女はそこまでの事情を知らないのだ。きっと、一番事情をよく知っている彼らの叔父――彼を殺そうとしたあの男も、何も語らない。当たり前だ、あの男は彼女が殺したのだから。
 けれど、何となく想像することならできる。あの場で交わされた会話を元にして、類推する。――彼は、自らの母親を殺さなければならなかった。つまり、あの男は姉を彼に殺された。男は彼を恨み、そうして復讐を誓った。自らの手で、彼を殺そうと。だが、暗殺者は殺せない。殺せるときが来るとしたら、彼が暗殺者ではなくなってしまったとき。誰かを殺せなくなったとき、暗殺者は殺されるべき罪人となる。あの男はその時を待った。そのために――きっと、彼をここに放った。
 あの男の思惑だけで物事が進んだとは思わない。けれど、あの男はずっとその機会を狙っていたのだ。彼が人間に戻る瞬間を。復讐を成し遂げる、その日を。
 あの男が彼と僕と引き合わせることになったのは、偶然だったのだろうか。それとも――わからない。

 彼の幼いころの境遇は、彼女に教えてもらった。とはいえ、彼女自身も彼とはほとんど会ったことがないというから、ほとんどが曖昧な情報に過ぎないものだった。
 彼の父親は、先代の暗殺者。母親は、その被害者の娘だった。彼は生まれてすぐに両親と引き離され、次代の暗殺者となるべく訓練を受けた。暗殺者は心を持ってはならない。暗殺者は誰かを愛してはならない。憎んではならない。ただ淡々と、依頼をこなし標的を殺し続けるのみ。
 やがて、彼の父親が殺される日が来て――彼が父親の後を継ぐことになった。彼は暗殺者となるために、母親を殺した。自分に繋がる人を、彼の特別になり得る存在を、遺しておくわけにはいかないから。それなら、彼の双子の姉である彼女が見逃されたのは、どういう理由だったのか……それはわからない。生まれてすぐに離れて育ったから、という理由で見逃されたのか。それとも、彼女も何らかの駒として使われる予定だったのか。それとも、彼のスペアとして残されたのか……わからない。
 とにかく、彼はそうして暗殺者になった。家族もなく、友人もなく、ただ淡々と生きた。生きながら、殺した。彼にとって、生きることは殺すことと同義だったのだ。殺したくなければ、死ぬしかなかった。けれど、彼は死ななかった。――そのことをどんなに僕が嬉しいと思っているか、彼はきっと知らないだろう。数々の死を生み出して彼が生きてきた、その結果僕と彼は出会った。
 僕は罪深い人間だ。彼の殺した人々のことは痛ましいと思うし、遺された人々のことを思うと、胸のつぶれるような思いがする。それでも、代わりに彼が死ぬべきだったとは、決して思えないのだ。
 たとえば、亡き父――父や祖父の時代には、戦争が行われていた。王の命令のもと、たくさんの兵士が戦地に向かい、敵を殺し、そして死んだ。兵士だけではない、民間人もだ。彼が殺したよりももっと多くの人々が、戦争に巻き込まれて死んだ。その死の罪は、誰にあるのだろうか。歴代の王にあるでのはないのか。それなら、彼は――暗殺者の殺人は、本当に暗殺者の罪なのだろうか。彼らに依頼した、殺意ある人々のものではないのか。暗殺者は、いわば銃であり、剣なのだ。そこに意思はない。彼らの意思は、「殺されて」――否、「眠らされて」いるのだから。彼らの意思が「目覚める」時、それはすなわち彼らが「死ぬ」時なのである。
 ――僕はただ、彼をかばいたいだけなのかもしれない。そう言われても、否定はできない。それでもいい。
 世界中が彼の罪を糾弾したとしても、それでも僕は彼の味方でいたい。彼自身にはそのつもりはなかったとしても、あの一年間、彼は紛れもなく僕の父であり、兄であり、つまりは僕の家族だった。僕に家族を教えてくれたのは、家族を知らないはずの彼だったのだ。
「ありがとう」
 僕はつぶやく。
「僕を殺さないでくれて、ありがとう」
 あの時――父を殺したとき、彼は僕の言うままに僕を見逃してくれた。彼女の脅しもあったけれど、本当にあの時、彼は僕を殺せなかったのだろうか?
「約束を守ってくれて、ありがとう」
 五年間、彼は僕を待っていてくれた。一体、どんな気持ちで過ごしていたのだろう。毎年誕生日に届けられた花を、彼は何を思って用意してくれていたのだろう。
 そしてあの日、彼はどんな気持ちでここに来てくれたのだろう。
「――生きていてくれて、ありがとう」
 失われていく体温と焦点を失う彼の瞳。青ざめた唇で、それでも貴方は僕を安心させようするかのように微笑んで。貴方の身体とそこから溢れる血を抱えて泣きじゃくる僕を見つめて、貴方はつぶやいた――死にたくない、と。
 その一言こそが、貴方の本当の言葉だったんだと。生まれ落ちてから今まで、ずっと「他人を殺し続けること」と「自分が死に続けること」を強制されてきた貴方の、心からの一言。
 だから、僕は貴方を死なせないと誓った。あの言葉がなければ――諦めていたのかもしれない、と思う。
 彼の容態は落ち着いている。医師は、いつ目が覚めてもおかしくないといっていた。――ただし、目が覚めなくとも不思議はないと。意識なんてものはそんなにあやふやなものなのだと、僕は初めて知った。
 僕にできることは、ただ信じて待つこと。彼が、僕の起こした革命を待っていてくれたように。

 貴方がいつか目覚めたら、貴方は何と言うのだろう。
 僕は貴方に何が言えるだろう。
 貴方に見せたいものがたくさんある。この国の美しいものを、貴方には知って欲しい。貴方に辛い運命を課したこの国を、貴方がいつか愛せるように。
 それに、会わせたい人もいる。貴方のお姉さんだけではなくて、貴方の過去を知ってなお貴方の生命を祈ってくれた、僕の同志たち。貴方がもう、孤独に生きなくとも済むように。
 何よりも、僕は伝えたい――「おかえりなさい」、と。

 ――気のせいだろうか、彼がほんの少し、微笑っているような気がするんだ。
 閉ざされた瞳の向こうで見る夢が、彼に優しいものでありますように。そうしてちゃんと、その夢が現実に続いていますように。
 僕はまた、夜明けに祈る。