instagram

Changing Same

 慌しい足音に続いて、執務室の扉がこれ以上ないというほどけたたましい音を立てて開いた。
「彪!」
 自分のことをこんな風に呼び捨てするのは彼女しかいない。彪は苦笑を浮かべながら目を上げた。視線の先に、想像通りの人影が立っている。――やはり。
花梨(かりん)
「貴方、どういうつもり?」
 そんな風に仁王立ちをしては麗しいワンピースドレスも台無しだ。
 彪は書類に署名するために手に持っていたペンを机の上に転がす。
「どうもこうも……そのままだけど」
「誤魔化さないで」
 花梨――羽多野(はたの)花梨は厳しい口調を崩さない。はしばみ色の瞳が彼を真っ直ぐに睨みつけていた。
「どういうことなのよ。私との婚約、一方的に破棄したそうじゃない」
「破棄したんじゃない。取り消したんだ」
「同じことよ」
「……ごめん」
 彪はあっさりとそう言って頭を下げる。その様子が花梨の神経を逆撫でしたらしい。細い整った眉がさらに急なカーブを描いた。
「別に謝って欲しいんじゃないの。私だって貴方のこと、弟にしか思えないし」
「あはは」
 彪は穏やかに笑う。花梨は彼より一つ年上だった。
「じゃあこれからも姉弟仲良くしようよ。それじゃ駄目なの?」
「だからっ……」
 彪と同じ金色の、だが彪とは違って綺麗にカールされた髪が、ふわりと舞い上がる。大きく一歩を踏み出して距離を詰めた花梨は、椅子に座ったままの彪を見下ろした。ばん、と机に片手を打ちつける。
「どうして婚約破棄したの? 他に好きな人でもいるの?!」
「い、いや、そういうわけじゃ」
 彪は剣幕に押されたように目を瞬かせた。
「じゃあどうして?」
「どうしてって……」
 彪は首を傾げる。
「この結婚は、親同士が勝手に決めたものだっただろ?」
 彪と花梨は従兄妹同士である。一人っ子の彪と、年の離れた兄が一人いる花梨。王族たちの中で年の近い者同士であった彼らは自然と仲良くなった。
 花梨は行儀悪く足を踏み鳴らす。かなり頭に来ているようだ、と彪は妙に冷静に考えた。
「私とか、羽多野家の体面ってものもあるじゃない! もうちょっとやり方を考えなさいよ!!」
 一方的に婚約を破棄されたという、そのことが花梨のプライドを傷つけたらしい。もしかすると親族の誰かに何か言われたのだろうか。彼らの口さがのなさは彪も良く知っている。
 彪は表情を改めた。
「ごめん。事情があるんだ」
「どんな事情よ!」
「…………」
 彪はカタン、と椅子を立った。
 そのとき、花梨は初めて気付いたようだった。彪はいつの間にか彼女の身長を追い越している。花梨は悔しげに彼を睨みつけた。
 彪はそれが花梨の怒りによるものだと思い、困ったように眉を寄せる。
「あまり詳しくは話せないんだ。だけど……」
 彪の手が伸び、その細い指先が花梨の髪に触れた。びく、と彼女は身を震わせる。
「僕はあと一年後に退位する。十八――そう、君と結婚するはずだった年齢で」
「どうして……」
 花梨は目を見開いた。噂には聞いていた。けれど、信じられなかった。――信じたくなかったのかもしれない。
「どうしてよ。みんな上手くいっているじゃない。羽多野の家も特権を失ったけれど、私はそれで良かったと思っているの。お父様は投資を始めて成功したし」
「聞いているよ」
 彪は微笑む。
 確かに貴族の特権を奪ったのは彼をはじめとする革命政府だが、財産没収は最小限にとどめ、彼らに実業家としての新たな道を示した。いつまでも地位と名誉に固執し続けて没落していった家もあるが、それは彪にもいかんともしがたい。花梨の家がそうではなかったと知って、彪も安堵したものだった。
「貴方は確かに昔泣き虫で弱虫だったけれど、今の王としての手腕は大したものだわ。お父様だってそう言ってる」
「……ありがとう」
「なのにどうして退位する必要があるの?! どうして――」
「『約束』なんだ」
 彪はきっぱりとそう言いきる。花梨は訝しげに眉をひそめた。
「約束……?」
「そう」
「退位することが?」
「ううん、そうじゃない」
 彪は微笑む。
「だけど、僕が今王位にあるのはその『約束』のため。それが終わったら、僕には王位なんて何の意味もなくなる」
「何なのよ、その『約束』って!! 誰としたの?!」
「…………」
 彪は考えるように視線を落とした。
 花梨が沈黙に焦れてきた頃、ようやく彪は顔を上げる。
「しあわせを」
「――え?」
「しあわせから一番遠いところにいる人にも、しあわせを届ける。そういうことかな」
「しあわせから」
 花梨は鸚鵡返しに呟く。
「一番遠いところにいる人……?」
「…………」
 彪はそれ以上何も言わない。
「じゃ、じゃあ」
 花梨の声が震えた。
「私の……私のしあわせは、どうなるの?」
「花梨ちゃん?」
 花梨は顔を伏せて上げようとしない。
「貴方は私を」
 握り締めた拳が震える。
「しあわせにしてくれないの?」
「花梨ちゃん……」
 ――言ってしまった。
 花梨はともすれば泣き出しそうになる自分を必死で戒める。泣いてはいけない。彪を困らせてはいけない。泣き虫で弱虫で、でもそれ以上に繊細で優しい、この従兄弟を苦しませたくはない。
「花梨ちゃん」
 彪が名前を呼び、彼女の体が傾いだ。
「?」
 ぽす、と軽い音と共に体が止まる。目の前には彪の白いブラウスがあった。
 抱きしめられている。そのことに気付いて花梨は悲鳴を上げた。
「あ、あや……!」
「あのね」
 彼の声はひどく静かで、花梨は息を呑む。
「僕は、きっと花梨ちゃんをしあわせにできない」
「ど、どうして」
 重々しい調子で呟かれたその言葉に、花梨は動転した。
「どういうことなの?!」
「僕は……」
 いつの間に、彪はこんなに大きくなったのだろう。身長だけではない。肩幅だけではない。全てがこんなにも暖かくて、心地良い……。
「僕は、今の仕事に命を賭けている」
「え?」
「五年後無事に退位できるのかも、僕には分からない――」
「彪!」
 花梨は顔を上げる。
 彪は厳しい顔で、彼女の背後をじっと見つめていた。
「もし花梨ちゃんと一緒にいたら、危ないことに巻き込むかもしれない」
「…………」
「だから、ね」
 彪の視線が花梨をとらえて和らいだ。手が伸び、彼女の頬をぬぐう。自分がいつの間にか泣いていたことを、花梨は知った。
「危ない目に……」
 花梨は呟く。
「危ない目に、遭ったことがあるの?」
「……うん」
 彪は頷く。
 彼の脳裏には赤い髪の女が思い出されていた。「あの人」に殺された、他国からの暗殺者――。
「それでも……」
 花梨は真っ直ぐに彪を見つめた。
「それでもいいって、私が言ったら?」
「駄目だよ」
 彪は穏やかに首を横に振った。
「絶対に、駄目だ」
「…………」
 あくまでも優しく、しかし誰よりも厳しく。
「彪……」
 花梨は呟いた。腕を彼の背中に回す。
「あんた、馬鹿よ」
「……うん」
 彪は優しく花梨の髪を撫でる。
「こんないい女ふって。もったいないと思わないの?」
「思うよ」
「でも……駄目なんでしょ?」
「…………」
 彪が答えられずにいるうちに、花梨はばっと体を離した。
「いいわ」
 彼女は微笑む。
「許してあげる」
「……花梨、ちゃん」
「でも」
 ぴし、と人差し指を突きつけた。
「私の結婚式には必ず参列しなさい」
「え?」
 彪が目を瞬かせる。
「必ずよ。いいわね?」
 花梨は言い募る。
「それが一年後か、三年後か、いつになるかは分からないけれど。必ず来なさい」
「……あ」
 何か言おうとする彪を制して、花梨は身を翻す。――彼女は振り返らなかった。
 
 
「参ったなあ」
 彪は天井を振り仰いだ。――つまり、死ぬなということではないか。
「花梨との『約束』も守りたいけど」
 胸元のブローチに手を触れる。精細に天使を象った、サファイアのはめ込まれた金細工。
「…………」
 彪の唇が声にならない声を刻む。
 
 ――「約束」の日まで、あと一年。