instagram

Heaven’s Hell

 それはとても奇妙な依頼だった。
 今まで様々な依頼を――しかも暗殺依頼を受けてきたはずの窃でさえもが戸惑い、受けるべきか断るべきか悩んだ。結局彼が受けることに決めたのも、実際に手を下すのは自分でないからだ。
 窃は、あくまで仲介者に過ぎない。
 暗殺を実行する者は別にいる。
 火影護。
 血塗られた歴史を継ぐ、心のない暗殺者――。
 
 
 そこは、小さな楽園だった。
 白を基調とした淡い色彩の家具は子供向けに作られたものばかりで、ところどころに愛らしい動物のモチーフが見られる。部屋の奥に置かれたベッドの脇の、ごつごつとした機械さえなければ、誰もここが病室だとは思わないだろう。たとえここが病院の中ではなく、個人の邸宅の一室であるとしても。
「…………」
 護は後ろ手に扉を閉めた。音は立てない。部屋の主が眠っているかもしれないと聞いていたためでもあるし、そもそも彼には音を立てずに行動するくせがある。
「ここです」
 彼をここまで連れてきたメイドは小さな声でそう言うと、護を振り返りもせずにベッドの方へと歩みを進めた。護は立ち尽くしたままその後ろ姿を見送る。
 彼のまとう服は白とベージュのラフなもので、普段「仕事」に着ていく黒のスーツではなかった。こうしているとごく普通の少年に見える。背は高いが骨格はまだ少年らしい華奢なもので、十代の半ばを幾つか超えたくらいか。
「起きておられます」
 メイドは微笑しながら振り向いた。自分のことをどのように紹介されているのか、護は少し訝しく思ったが、口に出しては何も聞かなかった。
「分かりました」
「……お嬢様を、よろしくお願い致します」
 深々と頭を下げられて面食らう。自分を医者か何かと勘違いしているのではないか。自分はその「お嬢様」を殺しにきたのだというのに……。
 
 メイドが部屋を出て行った後、護は足音も立てずにベッドに近づいた。枕元には大きなテディベアが置かれている。それよりもずっと小さな頭が、白い枕に埋もれていた。
 金というよりも銀に近いような、薄い色のプラチナブロンド。日光を知らないのであろう肌は白絹のように儚げであった。
「はじめまして」
 護は屈み込み、微笑む。
「貴方を、連れて行くために来ました」
「…………」
 返事はない。口元を呼吸補助用具に覆われているから、声を出せないのだろう。こけた頬まで、すっぽりとそれをかぶっているのだ。
 護はベッドカヴァの上に置かれた小さな手に、そっと自分の手を重ねた。燃えるように熱い。
「もうすぐですよ」
「…………」
 ほとんど瞬きもしなかった薄水色の瞳が、かすかに微笑んだ。そのように見えた。
 
 大貴族である藤苑(ふじぞの)家の末子、真琴は生まれながらにして何か重い疾患を抱えているという。心臓だかどこだかの臓器に原因があって、現在の当主である藤苑(はるか)の姉もそれで若くして亡くなったという話を聞いたような気もするが、護は詳しい事情は知らないし聞こうとも思わない。――ただ一つ、彼が誰を殺せばいいのかということさえ分かっていれば良いのだから。
 藤苑真琴。今年で八歳になる少女である。
 今まで護が殺した中で一番年若かったのは三歳になったばかりの幼児だった。確か、どこかの豪商一家の惨殺を請け負ったときのことである。背後から頭を撃ち抜かれた母親の絶命に気付く間もなく、子供は母親の腕の中で逝った。子供だと的が小さいのだな、と思った記憶しかない。
 ――今回の依頼人は、藤苑遥であった。直接話をした訳ではないから良くは分からないが、父親が娘の死を望むとは余程のことなのだろう。
 先ほど彼を案内してきたメイドがぽつりともらしたところによると、真琴の病はどのような方法をもってしても治すことができないらしい。そして彼女が必ず二三日に一度は起こす発作は、誰もが目を背けたくなるほど悲痛なものであるそうだ。
 ――だから、死なせるのか。護には良く分からない。
 この少女自身が、死を望んでいるのだろうか。

 この依頼を彼に告げるとき、窃は妙な顔をしていた。
「お前に、天使になって欲しいそうだ」
 何の冗談かと思って見返したが、窃は笑う様子もない。
「お前にはわからないだろうがな……死を自ら望む者は珍しくない。わざわざ職業的暗殺者を雇うやつは少ないが」
「そうですか」
 護は、それだけだった。しかし窃は言葉を続ける。別に彼に聞かせているつもりもないのだろう。
「まあ、確かに自殺よりも苦痛が少ないかも知れんな。ことによると、恐怖も」
「…………」
 護は何も言わない。
 ――いつか自分が死ぬときは、怖いと思うのだろうか。そんなことを思う。
 自分が殺してきた者たちは、死の運命を悟ると誰しもが怯えた。死は、恐ろしいものなのだろうか。護には分からない。
 生きていることと、死んでいること。何が違うのだろう。
 
 護はベッドの側の椅子に腰掛けた。
「お別れを言いたい人はいませんか?」
「…………」
 少女は首を横に振る。彼女にはもはや喋ることはできないのだ、ということを思い出す。テディベアの横にメモの束が置かれていて、彼女はどうやらそれで筆談をしていたらしい。だがあの熱っぽかった手の感触を思うと、既に彼女にはその体力すらも残っていないかもしれない。
「今は、どこか痛むのですか?」
 護の問いに、少女は再び同じ方法で答えた。今は痛みはないらしい。
「…………」
 護は話すのをやめ、何となく彼女の額の辺りを撫でることにした。ひんやりとした彼の指が心地良いのか、真琴は目を細める。
 ――彼女に、自分の姿はどのように見えているのだろう。護はぼんやりとそう思う。銀糸のストライプの入った白いシャツ、ベージュの柔らかなスラックス。「天使」は金髪碧眼でなければならないのかと思っていたが、自分はあいにく髪も黒く、瞳にいたっては鮮やかな赤だ。――闇と血の色。そんな自分を、彼女は本当に天使だと思っているのだろうか。
 護は左腿にあたる拳銃の感触を意識した。彼女のか細い命の灯火を吹き消すための、仰々しい道具。
「では――」
 言った瞬間、彼女の顔色が変わった。白から赤へ、そして青へ。激しい水流の中に絵の具を流したかのように、めまぐるしく変化する。
 護は思わず立ち上がった。
 ぜえぜえ、と激しい呼吸音。細い喉を破りそうなくらい、強い音だ。彼女は苦しげに眉をひそめた。彼女の額に触れていた護の指に、彼女の指がからみつく。
「…………」
 護はわずかに眉を寄せた。真琴の手は信じられないほどの力で彼の指を締め上げている。
 彼女の足がシーツを蹴った。息が苦しいのだろう。
 護は片手を握り締められたまま立ち尽くす。皮膚に彼女の爪が食い込むのを感じるが、止める気はない。
 メイドを呼ぶべきなのだろうか。しかし、彼女はこれから死にいく者なのだ。
 ――もしかすると……。
「今?」
 端的に尋ねる。
「…………」
 少女は彼を見上げた。瞳が濁った白目の中で滲んでいる。青ざめた頬は汗か、それとも涙か――びっしょりと濡れていた。
 そして、頷く。
「…………」
 ――本当にいいのか。護は少し躊躇った。真琴は彼の指を握り締めている。きっと爪で彼の皮膚は破れ、血が滲んでいるだろう。――本当は……、
「死にたいのですか」
 尋ねる。真琴の肩がぴくりと震えた。少しずつ、呼吸のリズムが戻ってきている。発作のピークは過ぎたようだった。
「僕は」
 護はじっと真琴の瞳を見つめた。
「貴方を殺すことができる。痛みも感じなくて済むほど、一瞬に」
「…………」
 少女は瞬きもせずに彼を見つめている。
「貴方が望むのなら――今すぐにでも貴方を死なせることができる」
「…………」
「死にたいですか」
「…………」
 少女の瞳が揺れた。
「…………」
 護は黙って彼女の答えを待った。
 長い沈黙。
 真琴の目に涙が浮かぶ。やがてその滴は頬を伝って落ちた。次々に零れ落ちていく。嗚咽もない。しゃくりあげることもない。ひどく静かに、少女は泣いていた。
 
 どれくらいの時間が経っただろう。扉が開き、先ほどのメイドが姿を見せた。
「…………」
 護は黙って立ち上がる。真琴が視線で彼の姿を追っているのを感じた。
 恐々といった様子のメイドに、護は言う。
「彼女の意思が確認できませんでしたので、お父様をお呼びいただけますか」
「え?」
「意思の疎通はできるのでしょう? もう一度良くお考えになって下さい。お心が決まれば、その時はもう一度ご依頼を」
「え、そんな」
「僕は失礼します」
 部屋を出ようと身を翻した彼のシャツの裾を、何かがとらえた。
「…………」
 振り向くと、真琴がそれを握り締めている。何かを訴えかけるような瞳。頬は涙の跡が何筋もくっきりとついていた。
「…………」
 護は身を屈め、ハンカチを出して頬を拭いてやる。真琴は目を大きく見開いたまま、彼をただ見つめていた。
「…………」
 そのまま、護は何も言うことなく藤苑邸を立ち去った。
 
  
「どういうことだ?」
 窃は首をひねる。
 真琴本人の意思の確認ができなかった、という前代未聞の理由で護が任務を延期してから数日。藤苑遥から依頼の破棄が伝えられ、それでいて前払いの代金の返還は一切求めないとのことだった。
「そもそも何故お前は藤苑真琴本人の意思を確認したんだ?」
「…………」
 護は手の甲の絆創膏を張り替えていたが、窃の声に目を上げた。
「手を」
「?」
「掴まれたんですよ。彼女を撃つ予定だった方の手を。血が出るほど強く」
「…………」
「だから」
 ぼそり、と呟かれる声は年相応の少年のものである。それきり護は手の甲の治療に専念してしまった。
「…………」
 窃は黙って護の横顔を眺めた。静かで、冷たい眼差し。
「……そうか」

 それ以後、窃が藤苑家の話を持ち出すことはなかった。
 
 ――数年度。
 藤苑真琴の死がひっそりと報じられた。あれ以来様々な治療を受け、ベッドの上で起き上がって話ができるくらいには回復した時期もあったらしいが、やはり根本的な治癒には至らなかったのだという。
 王家からは真琴とほとんど年の変わらぬ王子、彪が参列し、葬儀はしめやかに行なわれた。
 生前、真琴は母や父に言い残したという。
 “地獄にいた私を助けてくれたのは、「死神さん」だった”――と。