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never love me

「私を愛さないで」
それが彼女の口癖だった。そう言われる度に男は微笑んだ。
「分かっている」
だが、彼が本当にその言葉の意味を理解したのは、彼らが最期に会った日のことだった。

滅多に二人でいることはなかったが、それでも男は割合と頻繁に彼女の元に立ち寄っていた。暗殺という「仕事」、その血生臭い枷から離れられる唯一の場所。そこで得る感情を何と呼べばいいのか、彼はまだ知らない。
夕闇に包まれた薄暗い部屋の中、ソファに並んで腰をおろす。
さやさん」
彼女の名前。それは彼が初めて覚えた他人の名前だった。
「何?」
彼女の入れるお茶は、いつでも暖かかった。
「今日、『仕事』してきたんだ」
淡々と語る口調に、彼女の肩がぴくっと跳ねる。
「その人は言っていた……『俺が死んだら女房が哀しむから、やめてくれ』って。初めてだったよ、そう言った人。きっと奥さんにすごく愛されていたんだね」
世間話のように言い、ふと思いついて尋ねてみる。
「貴方は僕が死んだら泣く?」
「泣きません」
――嘘だ。
男は苦笑した。彼女の嘘は分かりやすい。目を合わせないのだ。いつもは真っ直ぐに射抜いてくる黒の視線が、わざとらしいほどに逸らされている。
ゆずるは元気?」
話を変えた。彼らの間に生まれた娘の名前だった。
「ええ」
長い黒髪が覆っている肩が、強張っている。
「……まもるは?」
母親なのに会うことができない、譲の双子の弟。護は彼の後継ぎとして養育されている。彼のものではない手によって。
「元気だよ。多分」
「……会ったことがあるの?」
問い詰めるような口調。彼は苦笑のような微笑を浮かべる。
「いいや」
ありのままを答える。
「でも、見掛けたことならあるよ」
容貌を思い出そうと、眼を閉じる。
「僕に……似ていた」
呪われた血筋の印である赤い瞳。それは彼らの腕が血塗られたものであるという証――。
別に自分を褒めるわけではないのだが、綺麗な子供だった。ガラスで形作られた彫刻のような、そんな印象。そして、非常に優秀であるらしい。頭脳も優れ、格闘術においても「家」で既に適う者はいないという。だが、彼はまだたった十二歳――あと二、三ヶ月で十三歳になる、ほんの少年に過ぎないのだ。
グレーのスラックスに包まれた足を組み変える。と、莢が呟いた。
かげるさん」
「何?」
「護も……貴方と同じ道を歩むの?」
「うん」
「貴方が死んだ後に?」
「そうだね」
「……それは、いつ?」
「待ち遠しい? 僕が死ぬのが」
からかうような口調で尋ねると、莢が鋭い眼差しを投げてきた。小柄な彼女の顔を彩る、大きな眼。
「本気で言っているの?」
「同じことを僕から聞いてもいい?」
翳は隣に腰掛けている莢の頬に、そっと手を触れる。
「貴方は以前一度だけ……言った。『貴方を愛している』と。僕にそう言ったよね――」
それは莢の中に新しい命が宿る少し前のこと。莢は顔を俯かせた。
「本気? この僕を――人を殺める『暗殺者』であるこの僕を……」
翳は、珍しく笑っていなかった。
「…………」
「答えたくないの?」
莢は激しくかぶりを振り、翳の胸に額をぶつけた。
「だめ。それ以上聞いてはだめ」
「何故?」
「貴方に……死んで欲しくないから……」
「え?」
聞き返した翳の胸から、莢は顔を上げた。
「私は知っているの。貴方が死ぬとしたら、一体どういう理由で死ななければならないのか」
「…………」
「だから――」
莢は眼に涙を溜めた。
「私を愛さないで」
「莢……さん?」
翳は戸惑ったように彼女を見返した。――いつも聞いていたその言葉が、突然明確な意味を持って翳の胸を訪れる。
「…………」
翳は莢の長い髪を手に取った。「後継ぎ」を残すため、伴侶が必要だった。ただ、子供を産んでもらうためだけの存在だった。それなのに……。
その髪に唇を寄せる。ふわりと甘い微香が鼻をくすぐった。
――ああ……。
不意に、胸の中で何か硬質なものが弾ける音がした。翳は静かに納得する。――莢さんがいつもそう言っていた理由がようやくわかった。
「暗殺者」である翳には人を愛することは禁じられていると知っていたから。「暗殺者」である翳が人を愛せば殺されてしまうと分かっていたから。翳に死んで欲しくなかったから。
翳は眼を閉じて、それをゆっくりと認めた。
莢さんは――僕を愛している。
自分が愛されることよりも、僕が生きていることのほうを望んでくれている。
「莢さん……」
唇から押し出した声は、自分でも呆れるほど穏やかに動揺のない声だった。
「せっかくの貴方の頼みなのに……聞けそうにない」
「え?」
「莢」
翳は名前を呼んだ。初めて覚えた他人の名前。
「莢……」
目を見開いて震えている、彼女の細い肩を抱き寄せた。こうやって彼女を抱きしめたのは、二度目だった。
――いつのまにか夜が明けたらしい。
翳は身を起こし、ぼんやりと窓の外を眺めた。横で規則正しい寝息を立てている莢の髪を、そっと指で梳く。
「翳……さん?」
自分の名を呼ぶ彼女の声。
「何?」
囁きを返し、口付ける。その柔らかな甘さが翳の「心」を――暗殺者として失っていたはずの「心」を揺さぶった。
「どうして……?」
長い睫毛が、まだ続いている戸惑いを隠せないように震えている。
「さあ……」
彼女の尋ねている意味はわかっていたが、翳はわざとはぐらかした。
――ただ、嬉しかったんだ。胸中で呟く。
――僕を愛してくれていることが。生きていて欲しいと思ってくれることが。
「でも、僕は後悔しない。この夜のことは……忘れないよ」
「何言って……」
非難の声をあげる唇を、指でそっと押える。
「僕はきっと近いうちに死ぬ」
見開かれた黒い瞳が、揺らいだ。
「貴方の側では死ねないだろう。……だから」
「…………」
震えている唇を指先で優しくなぞり、
「今言っておくよ。……ありがとうって」
「…………」
――嬉しかったんだ。僕はきっと、これを求めていたんだ……。
子供のころ、一度だけこっそり会いに行った母が与えてくれた温もりを、莢に見出す。あのとき、母は冷たく彼を追い返した。あれもきっと同じことだった。彼が害されないように。母自身が辛くても、悲しくても、それでも愛する子供である彼が生きていくことを望んで――。
だが結局彼は母親を手にかけた。「暗殺者」としての掟の通りに。
あのとき、彼は「火影 翳」という一人の人間を殺し、「暗殺者」としての彼が生まれた。
そして今。「暗殺者」は、もういない。
翳は満ち足りた思いで彼女を抱きしめる。――僕は、莢を……。
「――…ているよ」
そっと囁くと、莢は糸が切れたように泣き出した。
「翳さん……!」
その背中を抱きしめてやりながら、繰り返す。

「愛しているよ」

必死で引き止める莢を宥め、翳は彼女の元を去った。
「泣き顔を見ながら逝きたくはないから」
と笑って。
「貴方は僕が生き続けることを願ってくれたけど、僕にとってはこの終わりのほうが『しあわせ』なんだよ。貴方を想って死んでいけるほうが……ずっと『しあわせ』なんだ」
――僕は人間なのだから。
翳は名残惜しげに彼女の頬を撫でた。
「……『しあわせ』……?」
「そう」
どこか寂しげな微笑を浮かべ、
「護はきっと貴方を殺しにくるね……」
「そうね」
莢は頷く。目を伏せながら、
「だから、すぐ追いつくわ。貴方に」
「待っているよ」
そう言うと、彼は笑みを消した。
「……別に、僕は死にたいわけじゃない」
言い訳のように呟く。
「でも、僕はこんな方法でしか『暗殺者』としての『運命』から逃れられない……『しあわせ』になれない」
「…………」
「護も……そうなのかな……」
「……私はあの子に……『しあわせ』になってほしい……」
「…………」
翳はもう一度莢に口付け、微笑んだ。
「僕が死んだって聞いても泣かないでね」「……泣くわ」
早くも涙を溜めている彼女の髪を撫で、翳はさらに口付けた。
「ありがとう……それから、ごめんなさい」
――貴方を独り、遺して逝くことを…… どうか、許して――……。

その十日後。ぱあん、と莢の胸に赤い花が弾けた。降りしきる雨の中、彼女の意識が急速に薄れる。
愛した男の顔がよぎり――それが今自分を撃った少年のものと重なる。そしてさらに――自分と良く似た少女へと。
――譲、後は頼んだわよ……。
「ま……も……る……」
細い指が少年の服を握り締める。返り血を浴びつつ、少年は崩れ落ちる「彼女」を支える。
「あなたに……会えて良かった……。ずっと、会いたかった……」
――こんなにも翳さんに似ているなんて。
彼女よりも先に逝った夫を思い出す。綺麗な、赤い目。たとえそれが呪われた血筋の証だとしても、彼女はそれが好きだった。
「大きくなったのね……」
彼女はごぷり、と血を吐いた。泥の上に落ちた血がびしゃびしゃと音を立てる。
「大好きよ……。護……」
優しく微笑み――そして彼女の命は燃え尽きる。
その様を冷ややかに眺めていた少年は、かすかに眉を寄せた。薄い唇が、答える者のいない問いを刻む。
「何故……?」
――この日、護の「暗殺者」としての運命が始まった。
莢と同時に葬られた「火影 護」という人間。彼の時が動き出すのはこれから七年後のこと……。