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VOYAGE

 ――この街を離れる日が来た。轢とAzureは連れ立ってマオの店を訪れる。これがもう、最後になるだろう。店にいた彼は二人を交互に眺め、穏やかに微笑んだ。
「行くのか」
「ああ」
 轢は頷いた。
 相変わらずAzureの手は轢のシャツのすそを引っ張っていて、そのためにすっかりその部分は伸びてしまっていた。けれど、彼にはそうしていなければならない理由があるのかもしれない。――そうでもしなければ轢の側にとどまれない、そんな理由が。
「そろそろ駅に向かわないと」
「夜行列車だったな」
「ああ」
 轢は清々しい顔をしていた。この街での生活に未練はないのだろう。確かに、轢はこの街には似合わない。彼はこんな灰色に埋もれた街ではなく、もっと光の溢れた明るい場所で、伸び伸びと生きていくほうがいい。
「荷物もこれしかないし」
 轢は足元のボストンバッグをふたつ、掲げて見せた。
「身軽なもんさ」
「大きな荷物があるじゃないか」
 マオがAzureの方を視線で指して見せると、轢は笑った。
「いいんだ、これは」
「何の話?」
 Azureがその青い眼をきょとんとさせて轢とマオを見比べる。
「気にするな」
「うん」
 Azureは素直に頷き、にっこりと微笑んだ。
「僕、ぶどう楽しみだな」
「そうか」
 マオは子供っぽい彼の仕草に笑みを零す。得体の知れない男だという警戒感も、この笑顔の前ではかすんでしまう。ただ、Azureは無知で純粋なだけなのではないかと、マオは思った。だからこそ、自分や轢に害をなすものをただ単純に排除してしまったのだろう……。
「感謝してるぜ、マオ」
 轢は右手を突き出した。マオはその手をぎゅっと握る。
「Bon voyage」
 かつて覚えた異国の言葉が、彼の口から零れ出た。――どうか彼らの前途に幸がありますように。店を出て小さくなっていく二人の背中を、マオはただじっと見送っていた……。

 彼らが駅に着いた時には、列車が来るまでまだ随分余裕があった。彼ら以外に乗客の姿はないが、もっと時刻に近づいたら増えるのかもしれない。
 風に髪をなぶられるまま、彼らは木のベンチに腰を下ろした。壊れないかとびくびくしたが、意外に頑丈なようだ。
 轢は空を見上げて吐息をつく。
「この街を離れるなんて思ってもみなかった……」
「本当は行きたくない?」
 Azureが眉を陰らせて尋ねた。轢は笑って否定する。
「違う。多分俺は……ずっと、遠くに行きたかったんだ」
「遠くに?」
「ああ」
 眼を細めた。
「ただ、一人では行く決心がつかなかった。それだけさ」
「…………」
「だから、お前と会えて良かったよ」
「……うん」
 Azureはそう言って微笑んだ。
 もう金髪を隠すニット帽も、碧眼を覆うサングラスもない。さらさらと流れる光は少し赤みの差した白い頬に零れている。薄ぼんやりとした陽光を受けた青い瞳は澄んだ水のような色を湛えていた。
 ――不思議な色だ。
 轢はその瞳をまじまじと見つめる。この色をどう形容したらいいのか、彼にはわからない。純粋で美しい、しかしどうかするとすぐさま濁ってしまいそうな危うさを持つ……この色をどうしたら守れるのだろう。
 ――だが、こいつは人を殺した。
 轢はぎゅっと拳を握った。冷たい汗を背中に感じる。あのことを、忘れたわけではない。人を「殺した」といわず「壊した」というAzure。人には代わりがあるのだと、予備が用意されているのだと、当たり前のようにそう語った。

 Azureのことは良く知っている。
 彼が好きな色は白。好きな食べ物はシチューや甘いもので、緑の野菜は嫌い。いつもきょろきょろしていてふらふらと歩いていくが、そのくせ轢の姿が見えないと大慌てで探し回る。甘えん坊。動物好きらしく、野良犬や野良猫とすぐに仲良くなる。気が合うのだろう。

 けれど……。

 Azureのことは何も知らない。
 彼がどこで生まれたのか、どうやって育ったのか。どうして記憶をなくしたのか。誰に、どうして追われているのか……。

「轢?」
 黙りこんだ彼を不思議に思ったのか、Azureは轢の額に軽く触れた。汗ばんでいる。
「どうしたの?」
「……どうもしない」
 その手をそっとつかむ。細い白い指はひんやりとしていた。
「お前は……」
 轢はぽつりと呟いた。
「どこから来たんだろうな」
「え?」
「俺は、ずっとひとりで生きていけると思っていた」
 家族の思い出などない。仕事を共にする仲間はいても、人生を共にする相手はいない。そう思っていた。恋人に殺されて金を奪われた事件など、ありふれている。友人に裏切られたものも数知れず見てきた。あの街で他人に迂闊に心を許せば、それはすなわち死を意味する。轢がマオを信頼しているのはそれだけの理由があってのことで、彼のような存在は例外なのだ。
「けどさ」
 轢は照れたように笑ってAzureを見やった。
「なんか……、お前がいるのが当たり前になっちゃったよ」
「…………」
「お前は俺の友達で、たぶん家族のようなもので……だから」
 ――だから……。
「お前は……お前はずっとこのまま」
「うん」
 突然の声に驚いて、轢は言葉を途切れさせた。目の前でAzureが微笑んでいる。
「そうだね」
「…………」
「このまま……一緒に」
「…………」

 ――だから……、

 カツ、と固い音が響いた。轢はびくりと顔を上げ、音のした方角を見遣る。そこに佇むのはグレイのスーツを着た男だった。年齢は轢よりもずっと年上だろう。シルバーフレームの眼鏡をかけていて、表情は良く見えない。ただ、その視線が彼らに向けられていることは明らかだった。
「困った子だ」
 低い声が、轢に不吉な予感をもたらす。
「Azure」
 側の彼がびくりと震えた。
「いい加減に帰って来い。渚が死んでしまう」
「…………」
 Azureの手が轢のシャツのすそを握り締める。
「……僕はあんたを知らない」
 小さく、それでもはっきりした声で彼は言った。
「だから僕は、どこへも帰らない」
「……記憶をなくしたというのは本当だったわけか」
 男はやれやれ、というように首を横に振った。
「どこまでも手を掛けさせるやつだな、お前は」
「……ナギサってのは誰だ」
 轢が押し殺した声で尋ねた。男は興味もなさそうに彼を見遣る。
「お前がAzureの飼い主か?」
「……飼い主じゃない」
 轢は立ち上がった。Azureを庇うように一歩前に出る。

「友だちだ」