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RAIN

 雨が振り出してから一時間。雨音は激しさを増し、世界を重く塗り潰していた。
 轢は青年を自分のベッドに寝かせ、自分は脇の椅子に座ってぼんやりと窓の外を見ている。何となく雨粒が灰色がかっているように見えるのは、気のせいだろうか。けれどこんなに暗い空なのだから、灰色の雨を降らせてもおかしくない……そう思う。
 ――ギシ、とベッドが鳴った。振り向くと、男が眼を開けて起き上がっている。
「気がついたか?」
 声を掛け、眼が合って――轢は息を飲んだ。

 閉ざされていた瞼の下にあったのは、
 目が覚めるほど鮮やかで、
 それでいて深く澄んだ青。
 見たこともない色彩。
 なのに……、
 何故こんなに、懐かしいんだろう?

「…………」
 黙って瞬きを繰り返している青年に、轢は当惑を振り払って問い掛けた。
「大丈夫か?」
「……え?」
 少年じみた、澄んだ高い声が聞き返す。彼はきょとん、と首を傾げていた。
「お前、道端に倒れていただろ」
「僕が……ミチバタに?」
「そう。雨も降りそうだったし、ほっとけなくて拾って来ちゃったんだけど……」
「…………」
 青年はぼうっとしたまま轢を見つめている。まだあまり意識がはっきりしていないのだろうか。轢はため息をひとつついた。――ただの行き倒れかと思っていたが、これは意外にやっかいな拾い物かもしれない。
「俺は轢。お前の名前は?」
「……Azure(アズーリ)
「あ、アズーリ?」
 変わった名前だな、と思いながら、轢は次の質問を口にした。
「それで、Azure。お前、どこから来たんだ? 見たところ、この辺りに住んでる人間じゃなさそうだし」
 こんな目立つ容姿をした人物が近所にいれば、轢にも何となく見覚えくらいはあるだろう。彼はこの街に住んで長い。
 青年は少し口をつぐんで下を向き、やがて首を横に振った。
「……覚えてない」
「え?」
「わからない。覚えてない……」
「名前は分かったんだろ? じゃあ、何で他のことは覚えてないんだよ?」
「…………」
 無言で俯くAzureに、轢はやれやれと肩をすくめた。彼は嘘をついているようにも見えないから、きっと本当に覚えていないのだろう。それなら、これ以上問い詰めて困惑させても仕方がない。事情は人それぞれ、いろいろあるものだ。下町に生きてきた彼はそれをよく知っている。
「もういいよ、飯にしよう。お前も何か食うか?」
 ベッドに座るAzureに、轢は先ほどの買い物の中からハンバーガーを取り出して渡した。
「……ありがと」
 轢は自分も同じものを口に運びながら、Azureと名乗った男を横目で観察した。眠っていたときよりも今の方が少し幼く見えるのは、目がぱっちりと大きく、そして青く澄んで輝いているせいかもしれない。元は白だったのかもしれない、汚れたグレイのシャツ。黒いジーンズもあちこちが擦り切れ、その右ポケットは妙に膨らんでいた。何か入っているのだろうか。無遠慮に見つめていた轢の視線に気づいたのか、Azureはパンを持ち替えて右手をポケットに突っ込んだ。彼が無造作に引っ張り出したのは――。
「げえっ?!」
 彼が手にしていたのは高額紙幣の束だった。轢の驚愕をよそに、Azureは首をひねる。
「これ、何?」
「いや何って……知らないのか?!」
 当惑もあらわに轢は聞き返した。Azureはただ首を横に振るだけだ。Azureにはああ言ったものの、彼自身もそれほど多額の金銭をこれまで見たことがない。一瞬強盗かとも思ったが、この反応ではあり得ないだろう。もしそうだとしたら、あまりにも間抜けすぎる。
「それ、お前のか?」
 尋ねるが、Azureは首を横に振る。
「知らない」
「……あんまり人に見せんなよ。()られるぞ」
 Azureは札束をまじまじと眺めていたが、やがてそれを轢の目の前に突き出した。
「な、何だ?」
 Azureはふわりと微笑む。
「あげる」
「……は?」
「あげる。僕を助けてくれたから、お礼に」
 轢は苦笑し、札束を掴む彼の手を押しのけた。
「……ばか。貸しベッド代と飯代にしちゃあ、全然釣り合ってねえだろ?」
「でも、僕要らないから……」
「これから要るようになるって。これ使って何でも買えるんだからな」
 ――これから、と言って気がつく。
「お前、どうするんだ。行くあてあるのか?」
 尋ねると、Azureは目を伏せて首を横に振った。
「ううん。何にも……わからないし……」
「お前……」
 まるで捨て犬のようにしょげるAzureの肩に手を置こうとした、その時。
 ドンドンドンドン!! 大きな音をたて、ドアが乱暴にノックされた。
「……誰だ?」
 心当たりのない轢はつぶやきながら、玄関に向かう。覗き穴に目をあてると、体格のよいスーツ姿の男が数人こちらを伺っていた。
「…………?」
 轢は眉をしかめた。――嫌な予感がする。ドアのチェーンをかけ、鍵を閉めたまま轢は外に声を掛けた。
「誰だ?」
「人を探している」
 正面にいる背の高い男が、一歩進み出た。
「人? どんなやつだ?」
 まさかAzureのことではないだろうな、と轢は警戒を強める。男はすぐさま答えを返した。
「金髪の、青い目をした男だ」
「…………」
 ――ビンゴかよ。轢は舌打ちしたくなった。
「お前がここに連れて帰ってくるのを見たと聞いたぞ。渡してもらおう」
「…………」
 背後に立つAzureをちらりと見遣る。彼は不安げにも見える無表情で、首を横に振った。知らない、と言いたいのだろう。轢自身も、男たちにはいい感じを受けなかった。高価そうなスーツを着込んでいるから、という理由ではない。確かに金持ちは下町で反感を買いやすいが、それ以前に男からは何となく嫌な雰囲気が漂っていた。人と人とも思っていないような、そんな不遜さが。
「あー……」
 轢は一瞬逡巡した後、きっぱりと答えた。
「知らねえな」
「とぼけるな。知らないというなら中を見せてもらおうか」
「いや、俺知らない人をいきなりうちに入れるほど警戒心薄くないわ。ごめんな」
 轢と男を隔てる薄いドアでは、たいして防護壁の役には立たない。向こうがそのつもりなら、すぐに突破されてしまうだろう。
 轢はAzureに窓を開けさせる。すぐに、冷たい雨が部屋に降り込んできた。この部屋は二階だし、天井の低い安アパートだから地面まで大した高さはない。飛び降りたところでせいぜい捻挫するくらいですむだろう。先程買い込んだ荷物と、Azureが手にしたままだった紙幣を受け取り抱え込む。
「轢?」
 Azureは小さな声で不安そうに彼を呼んだ。
「何してるんだ、逃げるんだよ」
 耳打ちして、轢はAzureに窓から飛び下りるようにと指で指し示した。
「俺もすぐ行くから」
「……うん」
 一瞬の躊躇の後に頷き、Azureが身を翻す。
「おい、開けろ。開けないか!」
 ドアが乱暴に叩かれ始めた。ガタガタと音を立てている。
「ちょっと待てって、ドア壊れるぞ! 壊れたら弁償してもらうからな!!」
 轢は怒鳴り返すと、窓から軽く身を躍らせた。膝のばねを利かせて着地する。
「轢!」
 Azureは足をくじきもせずに轢を待っていた。その腕を引っ張って、轢はすぐに走り出す。その直後に、鍵を撃ち抜いたのか、辺りに拳銃の音が響いた。
「……逃げられたか」
 踏み込んだ部屋が無人であることに気づいて舌打ちをし、彼らは開いたままの窓に駆け寄る。その時には、Azureと轢は既に雨の路地角を曲がって姿を消していた。