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PROMISE

 ――頭が、痛い。
 轢は眼を覚まし、見慣れない天井が視界に入ってひどく戸惑った。
「ここは……?」
「轢」
 ベッドに寝かされたままの姿勢で顔を横に向けると、そこにはAzureが座っている。彼は心配そうな表情で、それでも少し安堵の色を浮かべていた。
「気がついて良かった」
「……えっと、あれ?」
 轢は頭に手をやってそこに巻かれた包帯に気付く。
 ――ああ、そうだ。Azureを追いかけてきた奴らに殴られて吹っ飛んで……頭を怪我したんだっけ。
「よく逃げられたな。怪我はなかったか?」
 手を伸ばしてAzureの腕を軽く叩くと、彼はあどけなく微笑んだ。
「うん、大丈夫。だって、轢は大切なトモダチだから」
 ガチャリ、と扉の開く音がした。轢は視線だけを動かしてそちらを見遣る。
「……気がついたか?」
「マオ……? じゃあ、ここはお前の?」
「俺の店の裏手にあるアパートの部屋だよ。いちおう手当てはしておいたが……」
「ありがとな」
「礼ならAzureに言った方がいいかもしれん。お前を俺のところまで運んできたのはAzureだから」
「ええ?」
 轢は驚いてAzureを見上げた。
「……重かっただろ」
「ううん、そんなことないよ」
「よく道を覚えてたな。助かったよ」
 轢に褒められたAzureは嬉しそうに微笑んだ。マオは少し複雑な顔でそんな二人を眺め、やがてAzureに向かい口を開く。
「Azure、悪いけどちょっと下から水を取ってきてくれないか。轢に痛み止めを飲ませたい」
「…………」
 Azureは黙って轢の顔を見つめる。その表情には少々不服の色があった。轢はAzureに頷いて見せる。
「頼むよ。頭がまだ痛むんだ」
 どうやらマオは轢に話があるらしい。そしてその場にAzureがいては都合が悪いのだろう。
「……わかった」
 Azureは轢の言葉に素直に従い、部屋を出て行った。
 扉の閉まる音を背中で聞きながら、マオは轢をじっと見つめる。その唇から出たのは意外な問いだった。
「……あの男は一体何なんだ?」
「は?」
 轢はぽかんとマオを見上げる。
「Azureのことか?」
「そうだ」
「俺も良く知らないし、俺の知っているだけのことはお前も知っているはずだけど」
「…………」
 マオは大きく肩で息をついた。
「そうか。そういえばお前は知らないのだな」
「何を?」
「気を失って怪我をしたお前を運んできたとき、あいつは全身血まみれだった」
「え……?!」
 息を飲んだ轢に、マオは首を左右に振って見せた。
「違う、あいつが怪我をしていたわけじゃない」
「じゃあ、誰の血なんだ……?」
「さっき、情報が入ってきた」
 マオは轢の視線を避けるように顔を背けた。
「とある路地裏で三人の成人男性の死体が発見された。全員服装は黒尽くめ。どれもナイフで滅多切りにされている。死因は失血死だそうだ」
「…………」
 轢はぽかんと間の抜けた顔でマオを見続けている。マオは厳しい表情になり轢を見つめ返した。
「……まさか」
 轢はぽつりと呟く。
「まさか、Azureが……?」
「あいつは俺のところに来たとき、血のついたナイフを持っていたよ」
「…………」
 轢はぐら、とベッドの上で体を折った。
「……何で……まさか」
 首を小刻みに左右に振る轢に、マオはその肩をつかんだ。
「あいつは何者なんだ、轢!」
「……だって、Azureが、そんな」
 信じられない。信じたくない。Azureがまさか、誰かを殺すなど……!
「うっ」
 猛烈な嘔吐が襲ってくる。目の裏がちかちかと瞬いた。その場にありもしない死の匂いを嗅いだようで、涙がこみ上げる。
「轢、現実から目をそむけるな。あいつがやったんだ。間違いない。さっき『お前が刺したのか』と聞いたらあっさりそうだと答えた」
「……だって、Azureにそんなことできるわけ」
「あいつは何者なんだ、轢!!」
 カチャ、とドアノブの回る音がして、マオはさっと体を引いた。
「轢、水持ってきたよ」
 Azureが部屋に入ってくる。ベッドの上で体を折っている轢を見て、慌てたように駆け寄った。
「どうしたの、轢。どこか痛いの?」
「Azure」
 轢は手を伸ばし、顔を覗きこんでくるAzureの腕を強く掴んだ。
「何?」
 Azureはきょとんと首を傾げる。轢はその無邪気な表情を見ないようにと、俯いたまま詰問した。……見てしまえば、信じてしまう。
「お前……自分を追いかけてきた奴らを殺したのか?」
「さっきの男の人たちのこと?」
 Azureは心外そうな顔をした。
「殺してなんていないよ」
「本当か?」
「殺してないよ。壊しただけ」
「え?」
 轢は顔を上げた。Azureは何の屈託もない表情で轢を見つめている。
「代わりがいるもの。いくらでも代わりがいるから、大丈夫なんだよ?」
「代わり? 何のことだ?」
 轢は眉を寄せる。Azureは説明を求められ、困ったように首を傾げた。
「うーん、誰かがそう言ってたの……人間には代わりがあるって。壊れてもいいように、ちゃんと用意されてるんだって」
「誰がそんなこと言ってたんだ!」
 轢は叫んでAzureの肩を揺すぶった。
「い、痛……」
 Azureは苦痛に顔を歪めながらも抵抗はせず、その青い瞳で轢をじっと見つめる。
「どうしたの、轢」
 轢はぎっと唇を噛み締めた。
「じゃあAzure、俺の代わりもいるのか?」
「それはいない」
 Azureは即答した。
「轢は轢だもん。他にはいないよ」
「俺とあの男たちと何の差があるんだよ!」
「でも!」
 Azureは轢の手を振り払ってきっと眉を険しくした。
「あいつら、轢に乱暴したんだよ? 僕のトモダチの、轢に」
「だからって殺すことはなかっただろう?!」
「殺してない!」
「人間は壊れるとは言わないんだよ!! そういうのを殺すって言うんだ!!」
 Azureは首を左右に振った。
「わかんない……わかんないよ!」
「……Azure……」
 轢は絶句した。Azureはその青い瞳に涙を溜めている。
「僕は何も悪いことしていない。襲われたからやり返しただけだよ? それに先に乱暴してきたのは向こうじゃないか。 轢とあの男の人たちのどこが違うって、全然違うよ。轢は親切だし優しい……でもあいつらは違った。僕のこと無理やり連れて行こうとしたんだもの。それとも」
 Azureは青い瞳に傷ついた色を浮かべた。
「轢はあのまま僕が連れ去られた方が良かったの?」
「……そんなことは言っていないだろ?」
 轢は深呼吸をして冷静さを取り戻す。マオは言葉を失っている様子だった。
「ただな……、人は死ぬと元にはもう戻れないんだ。壊れても元に戻るモノとは違うんだよ。死人を生き返らせることは誰にも出来ない。だから、Azureが殺したあの三人は二度と生き返らない」
 ――そう。轢の家族が生き返らなかったのと同じように……。
「…………」
「お前が連れて行かれずに済んだのは嬉しい。それは本当だ。でも……でもやっぱり人が死ぬっていうのは嫌なことだ」
「……なんで? 代わりがあるのに。予備がちゃんと用意されてるのに」
「代わり?」
 轢はAzureが震わせている拳にそっと触れた。
「何なんだ? その代わりって」
「代わりは代わりだよ……。僕も良く覚えてないけど……誰かがそう言っていたの」
 Azureは困ったように首を横に振った。
「じゃあそいつが間違ってたんだ。Azureは俺を信じるだろう。だったら……」
 轢の言葉をさえぎるように、Azureは首を縦に何度も振った。
「わかった……轢が嫌なことだっていうなら、もうしない。約束するよ」
「……Azure」
 轢ははっと息を呑む。Azureの瞳は、透明な涙を溢れさせていた。
「だから、もう怒らないで」
「…………」
「僕のこと置いて行ったりしないで。嫌いにならないで。トモダチでいて……!」
 轢はAzureの両肩に手を置き、彼の目を覗きこんで大きくうなずいた。
「……わかった。約束しよう」
「……キシル……」
「お前はもう誰も殺さない。俺はお前を置いていかない。嫌いにならない。ずっと友達でいる」
「……うん」
「約束するな?」
「……する」
「分かってくれたらいい。もう、泣くな」
 ――俺は甘すぎるんだろうか。Azureは確かに人を殺したのに、俺は許そうとしている。
 マオに視線を投げると、彼は肩をすくめただけだった。
 ――だって、捨てられない。
「轢、ごめんね。僕……僕、ごめんね」
 轢は彼に頭を撫でられながらぼろぼろ泣いているAzureを見つめた。――まるで子供のように轢に頼り切っている彼を、突き放すことはできない。
「ああもう、泣くなってば!」
 轢は着せられていた寝巻きの袖で、涙と鼻水で汚れたAzureの顔をぐいぐいと拭いた。
「もう、誰も殺すんじゃないぞ」
 念を押されたAzureはぐすぐす鼻を鳴らしながら頷く。
「轢と、約束したから」
「……そうだな」
 轢は微笑んだ。
「だから、ずっと友達でいよう。な?」
「…………」
 Azureは一度眼を大きく見開き、やがてぶんぶんと顔を上下に振る。その仕草は本当に小動物のようで、轢は思わず笑みを零した。
「…………」
 マオはそんな二人の様子を見ながら複雑な表情を浮かべる。
 ――あんなに人が死ぬのを嫌がっていた轢が、曲がりなりにも殺人を犯したAzureをあっさり許してしまうなんて。結局彼が何者なのか、何もわかっていないというのに……。
 Azureは轢を信じきっているし、轢も彼に対して無防備すぎる。すべてが、もろい。そんな危うさを感じてしまうのは、考えすぎなのだろうか……?