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NIGHTMARE

 街の外れの安宿に着いたのは、すでに夕暮れ時だった。雨はようやく上がり、相変わらずの暗い空の色も夕日に染められて赤みがかっている。
 部屋の中でようやく着替えた轢とAzureは、幾度となくくしゃみを繰り返した。
「あー寒い。すっかり身体冷えちまった」
 轢は身震いしてベッドにかけてあった毛布を剥がし、背中からすっぽりと被った。
「Azure、大丈夫か?」
「……うん」
「無理すんなよ。顔、真っ白だぞ。そこにメシまだ残ってるから。腹が減ってたら食え」
「うん」
 うなずきながらも、Azureに何かを食べようとする様子はない。轢もそれ以上彼を構うことはなかった。轢自身、ひどく疲れている。
「じゃ、俺寝るから。おやすみ」
 轢はごろりとベッドに横になった。うとうととしかけた頃、その背中をAzureが揺する。
「何だ?」
 振り向いた轢に、Azureは言った。
「僕も寝る」
「ああ。そっちで寝ろよ」
 指で空いた方のベッドを指し示すが、Azureは首を横に振る。
「ここがいい」
「あ?」
 轢は呆れて起きあがった。
「場所変われってことか? 俺に向こうで寝ろって?」
「違う」
 Azureはさらに首を横に振った。
「轢の横がいい」
「……なんで?」
 怪訝そうな表情の轢に、Azureは視線を落として呟いた。
「ここがいい……から」
「だから、なんでだよ。俺、男と同衾する趣味はないぜ?」
「でも……」
 茶化す轢の言葉にも、Azureは唇を少し開けたまま黙り込む。記憶をなくして不安なのだろうか。その気持ちがわからない轢ではないが、あまりに意表をついた申し出に少し驚いた。Azureは叱られた子犬のような表情で、上目遣いに轢の顔を窺っている。轢はため息をついた。
「……仕方がないな、今日だけだぞ。そっちから毛布持ってこい」
「うん」
 Azureは素直に起き上がった。もう一つのベッドから毛布を引き剥がし、床の上をずるずると引きずりながら戻ってくる。
「ちゃんとくるまれよ。風邪引いたら厄介だからな」
「……わかった」
 みのむしのようにぐるぐる巻きになって、Azureはごろんと横になる。言われたとおりに振舞う彼に、轢はくすりと笑った。
「おやすみ」
 轢がそう声を掛けると、Azureはようやく安心したように微笑んだ。
「……おやすみ、轢」
 ほどなく安らかな寝息が聞こえてきた。寝顔まで子供のようにあどけない。――変なやつだぜ、まったく。唇の端に笑みを浮かべたまま、轢もまた眠りに落ちた……。

 ――その夜、轢は夢を見た。
 
 空を埋め尽くす爆撃機の群れ。
 容赦なく降り注ぐ砲弾。
 引き裂かれる街。
 叩き割られる窓。
 そして、
 千切れとんだ体……。

 甦った光景が、スライド写真のように視界を埋め尽くす。

 腕。
 焼け焦げた髪。
 虚ろな眼窩。
 溶けた皮膚。

 ――これは……これは何だ?

 白い骨。
 焼けた肉の匂い。

 轢の耳元で、誰かが叫ぶ。

 見るな!
 忘れろ!
 思い出すな!

 ――これは……一体……?

 キシル!
 
 また別の誰かが、彼を呼ぶ。
「……る、轢!!」
「…………ッ?!」
 轢ははっと眼を開ける。仰向けの彼の上にAzureが覆い被さっていた。
「だいじょうぶ? 轢」
 彼の澄んだ瞳が、轢の蒼白な顔を映している。
「…………」
 轢は荒い息をつきながら、そのすべてを見透かすような視線から眼をそらした。動悸が激しく、息苦しい。
「……ん。大丈夫だ」
 Azureをやんわりと押し退け、轢は起きあがる。
「なんか、苦しそうだった。どこか、痛かったの?」
「……そうかもな」
 あの日、轢は奇跡的に一命を取りとめた。だが、数え切れないほどのものを失ったことにはかわりがない。自分はあの時、何歳だったのか……。轢にはあの日より以前の記憶がほとんどない。幼かったということもあるし、きっとショックなものを見過ぎたせいだろう。両親の死に顔も、はっきりとは覚えていない。――きっと、思い出さないほうがいい。
「Azure」
 側で心配そうに座っている彼に、轢は声を掛けた。
「なあに?」
「お前、俺を呼んだか?」
「うん……」
 Azureはうなずく。
「なんか、轢、苦しそうで、うなされてたから……。起こした方がいいかなって、思って」
「……ありがとな」
 轢はAzureの金髪をぽんぽん、と叩く。
「俺な、悪い夢見てたんだ」
「ユメ……?」
「ああ。昔の夢だ」
「…………」
 轢がもう一度ゆっくりと横になると、Azureも彼の隣で腹ばいになった。轢はただじっと、薄暗い天井を見つめる。
「俺、お前のこと言えないな。俺も昔のこと、かなり忘れてるから」
「轢も……?」
「お前、きっと戦争のことなんて覚えてないだろ? それとも元々知らないか」
「うん……。僕、知らない……覚えてない」
 轢は囁くようにつぶやいた。
「俺の家族は、戦争で死んだんだ」
「…………」
 Azureは、黙って轢の言葉に耳を傾けている。
「俺たちの住んでた街は国境からも遠くて……戦場とは関係ない、普通のところだったらしい。けど、俺たちも知らないうちに街の地下に軍事施設が作られていて、それを狙ってある日爆撃機が飛んできた。……まあ、俺も後から聞いた話で、どんな街だったかも全然覚えてないんだけどさ」
 轢はそのままゆっくりと眼を閉じる。だが、闇の中には何も浮かんでこない。そのことに少し安堵した。やはり自分は忘れている。だからこそ、生きていける。
「街は壊滅して、家も消し飛んで、家族も消えた。俺だけが――生き残った。気がついたら、俺はひとりで灰色の空の下をあてもなくさまよってた」
「…………」
「なんで俺だけ生き残ったのかはわからない。きっと、たまたまだと思う。でも……俺はまだ生きてる」
「……うん」
「辛いことも苦しいことも、たくさんあった。だけど、俺は一度だって生きることを諦めたことはない。何にもなくても……生きていける」
 轢は寝返りを打ち、Azureの方へと向き直った。
「だから、Azure。お前もこれだけは覚えとけ」
 Azureの瞳は深く、轢を映し込んでいる。その奥に語りかけるように、轢は告げた。
「お前は絶対に生き抜ける。何があっても、諦めさえしなければ」
「…………」
 Azureの静かな瞳が瞬く。轢はその眼を真っ直ぐに見つめて、
「記憶なんかなくても、意味不明な奴らに追われてても、絶対生きていける。お前が生きてく手伝いなら俺がするから。昔、ガキだった俺を助けてくれた人がいたのと、同じようにな」
「……うん」
 Azureは穏やかな、暖かい笑みを浮かべた。轢はそんな彼の頭をごしごしと撫でる。
「起こして悪かったな。まだ夜中だ、寝ようぜ」
「うん」
 Azureは瞼の下にその青を隠し、そして尋ねた。
「もう悪い夢、見ない?」
「…………」
 轢はしばらく考えて、答えた。
「……多分な」
 ――それに、もし見たとしてもきっと大丈夫だ。悪夢を見ても、お前が起こしてくれるから……。轢は泥のような眠りに引きずり込まれ、そしてそのまま夢を見ることはなかった。
 空っぽで平和な、眠りだった。