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KNIFE

 窓の外、既に日は高い。轢はやや乱暴にドアをノックした。返事はない。
「いつまで寝てる気だ、あいつ」
 ぶつぶつとつぶやきながら、ドアを開ける。二つ並んだベッドの片方が毛布で盛り上がっていた。その中から、もごもごとつぶやきが洩れてくる。
「んー……もう食べられな……い……」
 轢は毛布を思いきり剥がした。
「もう何も食わんでいいから、起きろー!!」
「わあ!!」
 毛布の下からAzureが飛び起きた。鮮やかな金髪はあらゆる方向に跳ね放題だ。
「起きろ、もう昼になるぞ!!」
 Azureはまだねぼけているのか、ぼうっとした様子で辺りを見回している。
「あ、あれ? ぼく……」
「何だ。お前の大好きなニンジンの怪物に襲われてたのか? それともシチューに溺れたか?」
「違うよ。いろんな色のキャンデーが、空からいっぱい落ちてきて……」
 轢はぷっ、と噴き出した。
「それ、頭に当たったら痛いんじゃないか?」
「ううん。甘くって、美味しかった」
「……そうか。そりゃ良かったな。じゃ、早く顔洗って、飯食いに来いよ」
「はーい!」
 ばたばたと部屋を出て行くAzureの後姿を見送り、轢は腕を組んだ。
「そろそろ、この部屋も引き払わないといけないな。マオの情報じゃ、最近このあたりに妙なやつらがうろついているらしいし……。もしかしたらAzureを探してるやつらかもしれない」
 ――しかし、そいつらは何故Azureを探しているのだろう。Azureが持っていた大金と関係あるのか……。
 轢は首をひねる。
「まずい金だから表沙汰にはできないとか……いや、あいつが金を持ち逃げするようなやつか? まさか。金じゃないとしたら……あいつ自身に、何かあるのかもしれない。実はどこかの御曹司で、家族が手を尽くして探してるとか……。それにしちゃ手荒な風だったしなあ」
 バタン、と洗面所のドアが開いた。轢は声を掛ける。
「飯食ったら荷物まとめるぞ」
 顔を洗っただけなのに何故か服までびしょびしょに濡らして、Azureはきょとんと轢を見つめた
「どこか行くの?」
「そろそろ別の街に移動するんだ。そっちにもマオの持ってる部屋があって……。とにかく、やつらをまくにはその方がいいから」
「…………」
 Azureは深くうつむいた。やがて、ぽつりとつぶやく。
「……ごめんね、轢。僕のせいで……轢を巻き込んで」
 轢は笑った。
「何言ってんだよ」
 Azureの金髪を手荒に撫でる。
「俺、結構引越しするのは好きなんだ。気にするな」
「でも……」
「それに、お前は俺の初めての友だちだからな」
 Azureがはっと顔を上げた。
「トモ、ダチ?」
 轢は微笑む。
「ああ。マオとか、他のやつらも仲間だとは思ってるけど……、やっぱり所詮利用しあってる関係なんだよな。別にそれが悪いとは思わない。生きていくためにはお互いが必要なんだから。……でも、俺はAzureを利用したいとは思わないし、お前だって俺を利用してるつもりはないだろ?」
「うん……」
「だから……俺とお前は、友だちなんだと思う」
 Azureはやがて、透き通るような笑みを見せた。
「……そうだね。トモダチだね!」
 
 ――友だち。

 初めて手に入れたこの関係の心地良さに甘えるように、轢は現実から目を逸らそうとしていた。Azureの消えた過去なんて、どうてもいいと……しかし、やはりそれは許されることではなかったのだった。
 
 相変わらず、廃墟のような街に人影は少ない。
「ふう……」
 荷物をつめたバッグを肩に背負い、轢はぼんやりと灰色の空を眺めた。いつ見ても変わらない、不機嫌な表情。
 一箇所に落ち着いて暮らせないのはやはり不便だが、一人のときよりも今のほうが生きていて楽しいような気がした。不器用なAzureはドジを踏んで轢を苛立たせることもあるが、以前の自分にはそんな感情の起伏すらなかったのだと気付いて唖然とする。変わらない日々。変わらない自分。そんな自分の生活の中に飛び込んできたAzureは、まるで分厚い雲を切り裂いて地上に届いた一条の光だった。Azureと一緒にいるようになってから、笑う回数もずっと増えた。人はひとりでは笑えない。笑顔は誰かのためにあるものなのだと、そう思う。
「Azureは行ってみたいところ、あるのか?」
 ふと思いついて尋ねるとAzureは少し考えてから、
「どこでもいい」
 と明るい笑みを見せた。
「轢と一緒なら、どこでもいいよ」
「……そうか」
 轢は目を伏せて表情を緩める。

 きっと、この街のどこへ行っても同じ。
 この空の色は同じ。
 俺たちは、同じでいられるだろうか?

「轢?」
 Azureが心配そうに俯いた轢を覗き込む。
「どうしたの?」
「どうもしねえよ」
 轢は顔を上げ、Azureの背中を軽く叩いた。
「行こう」

 ――ザッ、
 
 舗道の小石が鳴った。その音の方角に視線を向け、轢は絶句する。そこに、一人の男がいた。以前Azureを追ってきた男たちと同じ服装――同じ雰囲気。
「探しましたよ」
 穏やかに微笑んで見せるが、目は笑っていない。
「彼を返して頂きたい」
「…………」
 男の視線はAzureに向いていた。Azureは轢の腕に手をかけてぎゅっと握る。轢はAzureを庇うように立ち塞がった。
「……なんでAzureを探しているんだ」
「…………」
「Azureはどうして記憶を失っているんだ」
「…………」
「Azureを連れて帰ってどうするつもりだ」
「…………」
「お前たちは一体何なんだ」
「…………」
「何にも答えられねえのかよ」
 沈黙を守っていた男は、ふ、と相好を崩す。
「貴方こそ、彼の何なのですか?」
「え……?」
 轢は虚を衝かれたように目を瞬いた。
 ――道端に倒れていたAzureを連れて帰り、世話をした。追ってくる奴らから逃げて、それ以来一緒にずっと逃げ続けている……。
「貴方が何故彼のことに関わるのですか? 元々住んでいた家を捨てて、こんな流浪の生活を続けてまで」
「……轢……」
 轢は振り向かなかった。Azureの声が細かく震えている。見なくても、彼が今どんな表情をしているのか暗いはわかっていた。
「ごめん……迷惑かけて……」
「……謝るな」
 轢は短く言い、男を睨みつけた。。
「俺はどうも貧乏性でね。落ちてるもんを見ると拾いたくなるんだ。それに……」
 肩を痛いほど掴むAzureの手を上からぽんぽんと叩いて、

「こいつとは友だちだからな」

 Azureの声が、その言葉を小さく繰り返す。
「トモダチ……」
「…………」
 男はやれやれ、といったように首を左右に振った。
「困った人だ。できるだけ貴方に怪我はさせたくなかったのですけどね」
 Azureがはっと息を飲む。
「轢!」
 あっ、と思ったときにはもう遅かった。横手から突然なぐりかかってきた別の男の拳に吹っ飛ばされ、路地の壁に叩きつけられる。頭ががん、と音を立て、轢は痛みに声も上げられない。
 ――最悪だ……!
「轢!」
 Azureが青い顔をして轢に駆け寄る。
「逃げ……」
 脳震盪を起こしたのか、うまく喋れない。
「逃げ、ろ……」
 それだけを必死に告げて、それでもAzureは首を横に振って……。
 ――俺も馬鹿だけど、お前も馬鹿だよ。
 視界が暗転し、轢は意識を失った。

 ――カラン。
 小さく響いた金属音に、Azureははっと視線を向けた。大型のナイフ。轢が果物の皮をむくのに使っているのを見たことがある。やらせてくれと頼んだが、「指を切るのがオチだ」と触らせてもくれなかった。
「…………」
 Azureはそれを手に取り、指に這わせた。みるみるうちに赤い軌跡が生じ、粒がぷつぷつと湧き出る。
 ――轢の額から流れているものと同じ……赤い……。
 轢に怪我をさせてしまった。僕のせいで……僕を守るために、轢は血を流した。だから、今度は僕が轢を守らなきゃ……。
「保護者はもういないぞ」
 男の声が背中から聞こえる。
「さっさと帰るんだ。Azure」
 ――その名前を呼ばれたとき、ぞっとした。轢が呼ぶのとも、彼の友人という三つ編みの人が呼ぶのとも明らかに違う。冷たい声音。

 冷たい床。
 水。
 壁。
 食事。
 金属。
 コード。
 ベッド。
 
 そこに横たわっている、自分とよく似た誰か……。
「……轢」
 溢れそうになった言葉――記憶――を、Azureはその人の名を呼ぶことで封じ込めた。
「……轢」
 血の流れる轢の額を拭い、Azureはゆらりと立ち上がる。
「僕は、帰らない」
 手にはナイフ。男が怯んだ。
「あ、Azure……?」
「僕は、絶対に帰らない」

 ――人にはみんな、代わりが用意されているのよ、Azure。

 だからきっと、こいつらにも代わりがある。壊しても大丈夫。誰かがそう言っていたから……。
 でも、轢は違うよね。轢の代わりなんてあるはずない。轢は轢だもの。

 ――僕のトモダチだもの……。

 路地裏に響いた悲鳴。それを轢が聞くことはなかった。