FLOWER
ガコン、ガコンと古い洗濯機が回っている。やがて回転数が徐々に減っていき、辺りは静けさを取り戻す。最後に調子はずれな電子音が鳴って、洗濯の終了を告げた。その一部始終をじっと見守っていたAzureが声を上げる。
「洗濯、終わったよ!」
ひょっこりと轢の顔が覗く。まだその頭には包帯が巻かれていた。
「風呂場に干しておけば夜には乾くだろ。ベランダは汚くって、使えたもんじゃねえよ」
「うん、わかった。……あ、轢は寝ててよ。まだ怪我治ってないんだから」
Azureに廊下を押し戻されながら、轢は怪訝そうな顔をした。
「怪我ったって……。別に洗濯くらいできるぞ」
「でも、手もすりむいてたでしょ?」
「あんなちっちぇえ傷、良く覚えてるなあ。とっくにかさぶた張ってるよ」
「とにかく、轢は何もしちゃ駄目なんだってば」
Azureは洗濯物をかごの中に放り込む。轢は苦笑しながらその様子を見守った。
「はいはい。……おい、落とすなよ。せっかく洗ったの床にぶちまけたら、洗い直しだぞ」
Azureは振り向き、悪戯っぽい笑みを見せる。
「だいじょうぶだよ。……そんな風だからあの三つ編みの人に『轢は心配性だな』って言われるんだよ」
轢は小さく舌打ちをした。別に本気で気分を害しているわけではないし、Azureもそのことはわかっているだろう。
「まったく、妙なことばっかり覚えるなよなあ。あと、『三つ編みの人』じゃなくてマオな。マオ。名前くらい覚えてやれ」
轢はふと部屋の隅にあるごみ箱に目を止めた。
「……あれ?」
捨てられていたベージュのシャツはAzureのものだが、一面に散る赤黒い染みでばりばりに固まっていた。
――これはあの時、着ていた服……。
「お前、この服……捨てたのか?」
Azureは屈託なくうなずく。
「うん、捨てたよ。だって、血がいっぱいで取れなかったから」
「そうか……」
Azureはかごを抱えたまま部屋を出て行き、轢はひとり取り残された。――Azureはあれから何にも変わっていない。だから、つい忘れそうになってしまう。
Azureがひとを殺したということ。
轢は彼を許すと決めた。その判断は、きっと間違っていない。Azureはもうしないと約束したし、彼の優しさを既に轢は知っている。今も怪我を負った轢を気遣い、できる限りひとりで家事をこなそうとしていた。不器用ではあるが、一生懸命頑張っている。
「だから――もう大丈夫だ」
それはまるで、自分自身に言い聞かせているようだった。
マオの勧めで、轢たちは少しほとぼりが冷めるまで隠れていることにした。しばらくの間仕事をしなくても支障はない程度には、蓄えがある。怪我が治るまではのんびりと構えていられるだろう。
毎日Azureと騒がしく過ごすのは、楽しいものだった。まるで弟ができたみたいで――家族がいた頃の生活はこんな風だったのだろうかとさえ思う。
――もう、何も悪いことなんて起きなければいい。その祈りに何の力もないと知っていても、それでも轢は祈らずにはいられなかった。
その日、Azureは一日中働き続けた。掃除、洗濯、そして轢に教わりながらの料理。彼なりに気を遣っていたのだろう。いつになく失敗は少なかった。
ベッドの上で大きな欠伸をしたAzureに、轢は笑いかける。
「明日はちょっとくらい寝坊しても許してやるからな。しっかり寝ろよ」
しかし、Azureは涙目で首を横に振った。
「駄目だよ、朝ごはんの用意しなきゃ……」
「それくらいは俺がやるよ。それに、今日の夕飯もちょっとあぶなっかしかったからな」
Azureは眉を下げた。
「だって、料理って難しいんだもん……」
「お前の味覚が難しいんだよ。……ま、それでも最初よりはだいぶ上達したんじゃねえか?」
轢はベッドに横になり、やがてふと思い出したようにAzureのほうを向いた。
「そういやお前、かなり寝相悪いぜ。たまにベッドから落っこちて、俺びっくりして飛び起きるもん」
Azureは意外そうに瞬きを繰り返す。
「本当? 僕全然気づいてないんだけど……」
「寝たままベッドによじのぼってる。結構怖いぞ、あれ」
「ご、ごめん……」
「謝らなくていいけど、ま、気をつけろよ。頭打ったらヤバいだろ」
「そうだね。……ベッドに縛っとく? そうしたら落ちないよ」
轢は慌てて跳ね起きた。
「し、縛る?! 何だそりゃ」
視線の先のAzureは、どこかうつろな表情をしていた。――あの、以前の夢を見たときと同じだ。轢は胸騒ぎを覚える。
Azureはぼんやりと答えた。
「うーんとね……暴れると、たまに縛られた、気がするんだ」
「暴れた……? お前が?」
「よく覚えてないけど……」
つぶやき、轢を見つめる。その瞳は不安そうに揺れていた。
「無理して思い出すことはない。気にするな」
轢の言葉に、Azureは明るく微笑んだ。
「……そうだね」
電気を消した後も、轢は眠れずに暗い天井を見上げていた。暴れて、ベッドに縛り付けられるとは、一体どんな状況なのだろう。――やっぱりあの男の仲間がやったのか。そんなの、人間に対する扱いじゃない。……許せない。
きっとAzureの過去は辛いものなのだろう。だったら思い出す必要などない。轢が子供の頃を忘れてしまったように、Azureも忘れてしまえばいい。
「忘れて、また新しく生き直せばいいんだ。……そうだよな、Azure」
Azureは既に眠っているのか、それとも聞こえなかったのか。轢のつぶやきに、返事が帰ってくることはなかった。
翌朝、轢が起きると、部屋にAzureがいなかった。慌てて跳ね起きる。記憶を取り戻したのか、それとも自分が寝ている間に追っ手に連れて行かれたのか――轢はくしゃくしゃに乱れた茶髪を指で梳きながらベッドから立ち上がった。
「Azure?」
とりあえず呼んでみるが、返事はない。洗面所にもキッチンにも、もちろんシャワールームにも。Azureの姿はどこにもなかった。
轢はふと自問する――俺は何故こんなに焦ってるんだろう。Azureが危険だから? ……それだけじゃない。さびしいんだ。Azureがいないと。
「ついこの間まで、俺は一人で生きていたのに……」
戦争孤児の轢は、ずっとこの街で生きてきた。違法な仕事に手を染めもしたし、それなりに修羅場をくぐってきた。そんな轢と同年代なのに、対象的なほど子供じみたAzure。記憶をなくしたせいなのだろうか、轢に無限の信頼を寄せて疑うことを知らない。
確かに、Azureが轢を疑う必要などなかった。最初の追っ手から逃げたそのときから――いや、路地裏に倒れていた彼の、あの瞳を見たときから、一緒に生きていく覚悟は出来ていたように思う。
あの瞳――世界中の青という青を全て集めたような、深い色。
「くそ――」
焦燥の色を吐息に滲ませ、轢は窓際に歩み寄った。路傍に佇む人影に気付き、眼を見開く。
「あ、」
濃紺のニット帽に覆われた鮮やかなブロンド、濃い色のサングラス。グレーのジャケットはかつて轢のものだった。
「Azure」
彼は追われる身であるにしては、目立ちすぎる外見だった。記憶のない彼には追われている理由すら定かではないのだが。
「何やってんだ、あいつ。あれだけふらふら出歩くなって言ってるのに……危機感ねえのかな、あいつは」
轢は安堵に口元を緩ませながらも舌打ちをし、家を飛び出した。
「轢!」
彼が声をかける前に、Azureが満面の笑みで振り向く。
「おはよう!」
「……おはよ、じゃねえだろ」
轢は笑っているのか怒っているのか良く分からない表情になって、Azureの額を指で小突いた。
「いたっ」
「いきなりいなくなったから、驚いたんだぞ」
「あ……、ご、ごめんなさい……」
Azureは身体を小さく縮こませる。その肩を、轢は軽く叩いた。
「もういいさ。遠く離れてたわけじゃないだろ?」
「うん。近くを散歩してただけ」
轢は手を伸ばしてそっとAzureのサングラスを外してやる。思ったとおり、青い瞳は薄曇の朝日の中でも鮮やかに煌いていた。
この色が、好きだ。
どんな言葉で表せばいいのかわからない、この色。
青なんて言葉じゃ足りない。
Azureの眼の色。
「あのね」
Azureは轢が怒っていないと見て取ったらしく、彼の袖をつかんで引っ張った。
「なんだ?」
「僕、いいもの見つけたの」
「いいもの?」
「うん」
Azureの指差す方には瓦礫の山があった。轢は眉を寄せる。
「あれが、いいものか?」
記憶のないAzureは知らないのだろうが、この街はかつて戦場だった。いや、戦争において一方的な空襲によって破壊された街だった。戦争以来見捨てられたこの街には、未だにああいった瓦礫の山が残っている。ほとんどが空襲によって破壊された家屋の残骸だ。
かつて轢が家族と共に住んでいた家も、あのような姿に変わり果てているのだろう。そしてゆっくりと、朽ち果てていく。
「いいものって、あれか?」
「ううん、違う」
Azureはさらに轢の腕を引っ張った。
「見て、そこ」
「……?」
Azureに引っ張られるまま数歩あゆみ、瓦礫の前で足を止めた。
「そことそこの、間」
指し示されるまま、コンクリートとコンクリートの間を覗き込む。ちょうど瓦礫が覆いになっていて、中はとても暗い。
「なんか、土から生えてるでしょ」
「……ああ!」
しゃがみこんで眼を凝らした轢は心からの嘆声をあげた。それは名もなき雑草――。
「これ、何ていうの? クサとかキじゃないよね?」
好奇心に眼を輝かせているAzureに向き直り、轢は微笑んで見せた。
「これはな……」
――「花」っていうんだ。
この街に花など咲かない。戦争が終わって随分経つ今でも、死の雨は延々と降り続いているから。それは世界規模で起きている現象ではあるけれど、この街は特に汚染がひどいという。戦場となった場所の、宿命だ。
「それなのに……」
こんな場所でひっそりと、花が咲いていた。まるでこの地で散った命を悼むかのように。
「…………」
黙りこんだ轢を、心配そうにAzureが見つめていた。
「轢?」
「……そういや」
轢は立ち上がり、灰色の空の向こうを眺めた。方角は――かつて彼の家のあった場所。胸元に垂れ下がる十字架のペンダントを握り締める。
「……そういえば、家族の墓に花なんて持ってったことねえなあ。墓っていったって、単に家の跡ってだけなんだけどさ。こんな風な、瓦礫の山で……そこで過ごした記憶も、ほとんど残ってないし」
「轢」
不意に呼びかけられ、轢は振り返った。
「何だ?」
Azureは静かな表情で轢の胸元を指差す。
「轢がいつも首にしてる、それ」
「……ああ、これか?」
首に掛かったペンダントを掲げて見せると、Azureはうなずいた。
「それ、お墓と同じ形だよね」
「ああ……これは、墓の代わりだからな」
轢は飾り気のないその表面に、指先を滑らせる。――顔も思い出せない家族をせめて追悼するために、彼はずっとこの十字架を持ち歩いている。
「もしかして……あの場所にも咲いているかもしれないな」
きっと咲いている。そう思い込もうとした。
「こんな花が……ひっそりと」
誰に知られることもなく、彼らの死を悼んで――。
「そうだね」
Azureが不意に同意した。轢は弾かれたように彼の顔を見る。珍しく大人びた表情で、Azureは轢を見つめ微笑んでいた。力を抜いた、自然な笑み。
「きっと、咲いてるよ」
「…………」
轢は何も言わず頷いた。何も言う必要がなかった。
「轢」
Azureはサングラスを掛け直し、改めて轢に向き直った。口元は微笑んでいたけれど、そのときの彼の本当の表情は分からなかった――後に轢はこのときのことを、そんな風に思い出す。
「僕のお墓にも、花が生えるかな」
「何言ってんだよ」
轢は軽くいなそうとするが、Azureは繰り返して言った。
「生えると思う?」
「…………」
轢は一瞬言葉に詰まったが、やがて微笑んだ。
「そうだな」
きっと生えるだろう。世界で一番綺麗な、青い青い花が……。
――俺はそれを……眼にすることになるのだろうか。
軽く身震いした轢の手を、Azureが握る。
「行こう」
「……ああ」
轢は強く強く握り返した。
どんな戦争にだって、
どんなに放射能にだって、
手折れぬ花が、ここにあった。