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EX.3 ただ悲しくて

 筋はいい、とマオはまるで他人事のように思った。路地裏から飛び出してきたその少年は、しなやかな筋肉をバネのようにして彼に飛び掛かり、鞄の紐を小型ナイフで切り裂こうとしている。
(確かに、ひったくるよりも切り離したほうが効率は良さそうだからな)
 マオはそう冷静に考えながら、片手に持っていた杖を思い切り少年に振り下ろした。
「いって!!」
 声変わりを終えたばかりとでも言ったような、少し掠れた声。地面に這いつくばった少年を見下ろし、マオはやれやれと肩をすくめた。やはり、戦災孤児あがりのストリートチルドレンか。
「惜しい」
「はあ?」
 少年は涙目で彼を睨み上げている。先程少年を打ち据えた杖は護身用の少々特別性だから、さぞかし痛かったことだろう。
 少しつり上がった大きな目、気の強そうな口元――猫みたいだな、とマオは思った。
 そして気まぐれに、彼は告げる。
「金が欲しいならついてこい。仕事をやる」
「は? ……お、おい!」
 地面から跳ね起き、少年は、さっさとその場を歩き去ろうとするマオを追い掛けた。
「な、何言ってんだお前。俺に仕事?」
「使えんようなら切るがな」
「……は!」
 先ほどまで目を白黒させていた少年は一転、肝を据えたように頭をもたげた。その瞳には、大抵のストリートチルドレンにはない輝きが、自我の矜持が宿っている。悪くない拾いものかもしれない、とマオは思った。
「ありえねー。誰よりも上手くやってやるよ」
「上出来だ。口だけでなければ、だがな」
 ――この地区の裏稼業の元締めであるマオと、一風変わったストリートチルドレン、轢(キシル)。それが、彼らの出逢いだった。

 轢は器用な少年だった。マオの頼んだ仕事――たとえば運び屋だとか、買い付けだとか、そういったことを彼は難なくこなしてみせた。轢自身に自覚があるかどうかはわからないが、ふと人が心を許してしまう、隙をみせてしまう、彼はそんな人好きのする空気をまとっているのだ。彼の持つその独特の魅力は、大きな武器だとマオは思った。
 彼らが知り合ってしばらくした頃、マオは彼がいつも身につけているクロスについて、尋ねた。信仰があるのか、と。
 轢は笑って首を振り、そうして表情を消した。
「思い出せねーんだよ、俺」
「ん?」
「戦争で死んだ、家族のこと。忘れちまってるんだ」
「…………」
 マオは口をつぐんだ。不用意に踏み込んでしまったかと後悔した彼だが、轢はすぐにいつもの飄々とした顔を取り戻した。
「悪いなとは思ってるんだけどさ。このまま忘れておくほうが楽なんだろうって思う。そう思ってるから、思い出せないのかもしれない」
 轢はその生傷の絶えない指先で、錆の浮いたクロスをいじっている。
「これは、俺が『忘れてる』ってことを忘れさせないための、墓なの。俺が忘れた家族たちの――墓」
「そうか……」
 マオは短く答えた。――彼自身は、戦場を知らない。戦地から離れた場所で育ち、戦争が終わってから街に出てきた。美しい農場地帯である故郷を捨てたのは、実のところひどくくだらない理由だった……轢に話せばきっと呆れられるだろう。だが、若気の至りだと弁明しようにも、その頃のマオよりも今の轢の方が遥かに年若いのだった。それなのに……。
「いつか、思い出せるのかな」
 つぶやく轢の顔は、ひどく大人びている。マオはその横顔を眺めたが、何の言葉も浮かんでは来なかった。轢自身も、マオに返答は求めていなかったのだろう。
 少しばかり気まずい沈黙の後、轢はそれを破ろうとするかのように片手を突き出した。
「この間の仕事の報酬。くれよ」
「……ああ」
 マオは店のカウンターの下から硬貨の入った袋を取り出し、そのまだ幼い掌に載せてやった。
「おまけは?」
「なしだ」
「ちぇ」
 轢は袋を覗き込み、舌打ちする。
「おまえひとり、食うには困らない額だろうが」
「そりゃそうだけど」
「連れでもいるのか」
「連れ?」
 きょとんとしたあどけない眼差し。マオはやや気後れを覚えたが、それを隠し通すだけの狡さは持ち合わせていた。
「……いや、いい。子供にはまだ早い話だった」
「なんだよ、それ」
 轢は椅子に腰掛けたまま、ぶらぶらと両足を揺らした。そんな様子を見ていると、改めて――この少年がまだ十四五歳の子供なのだと、マオは気付かされるのだった。
 軽く咳払いをし、続ける。
「もっと実入りのいい仕事が欲しいなら、大人になってからにするんだな。今はまだ、危ない」
「危ない?」
「報酬が高いのは、難しいというよりも――危険な仕事なんだ。乱暴な奴らを相手にするような。自分の身を守ったり、時には他人を叩きのめしたりしないと……」
「じゃ、いい」
 轢はあっさりと引き下がった。マオは怪訝そうに轢を観た。轢は不機嫌そうに眉をしかめ、目を逸らしている。
「……危ないことが嫌なのか? お前、最初いきなり俺の鞄を奪おうとしてたじゃないか」
「危ないにもいろいろあるだろ。俺はあの時、マオのことを怪我させるつもりはなかった」
「…………」
「怪我とか血とか……苦手なんだ。すげえ、嫌な気分になる」
「……そうか」
 マオは短く呟いた。――それが轢のトラウマとでもいうべきもの、なのだろうか。記憶がないとはいえ、やはり無意識で轢は死を忌避しているのかもしれない。
 それは生物としてあるべき姿だ、とマオは思った。簡単に命を捨てたり、奪ったり――戦後はすっかりそんな世界になってしまった。轢はそれをひとり、拒否している。小さな身体で、真っ直ぐに立って。灰色の空に背中を向け、しっかりと前を見据えている。
 マオは今までたくさんの戦災孤児たちに触れてきたが、轢のような存在は稀有だった。誰もがもっと諦めていて、手放していて、牙を向いていた――灰色の世界に、染まっていた。
 轢が変わらなければ良いのに、とマオは思った。この下町で、彼のような存在はまるで一服の清涼剤だ。それなりに汚い仕事をこなすマオが、ほっと息をつける場所――それが、ここにはある。
「いつでも来い」
 マオは轢に言った。
「いつでも、お前には仕事を用意してやるから」
「本当? 助かる、ありがとう」
 にっと笑う轢。――本当に礼を言いたいのは俺の方なのにな、とマオは思った。

 ――あれから、数年。
 変わらない場所で店を営むマオの元に、一通の郵便が届いた。シンプルな白い封筒。差出人の名は、見なくともわかる。
「…………」
 マオは封を破り、便箋を取り出した。そこには読みにくい、癖のある文字――かつて彼が教えてやった、文字。
『はながさいた』
 たった、これだけ。それから、封筒から零れ落ちた一輪の押し花。真っ青な、花。
 マオはそれを手に取り、目を細めた。
 ――轢!
 甘えるようにその名を呼んでいた、過去のない少年。輝く金髪と、何よりも目を引いたのはあの瞳だった。あおというあおを染め抜いたよりももっと鮮やかなのではないかと思うような、そんなあお。
 結局彼が何だったのか、何から逃げていたのか、何故逃げなくてはならなかったのか――マオには何もわからない。ただ、轢が向かった先の義兄からの手紙では、「轢は一人で来た。友人は途中で亡くなったようだ」とのことだった。彼を追っていたという連中の手に掛かったのだろうか。何かしら後ろ暗いところのある連中だったようだが、その正体はマオの情報力をもってしても判らなかった。マオの思うよりも、もっと大きな組織が絡んでいたのかもしれない。人身売買を疑ったこともあるが証拠はないし、もしそうであるならばなおさら少年が――Azureが死ななければならなかった理由がわからない。死なせずに連れ帰らなければ、「商品価値」はないはずなのだから。とにかく、轢だけでも無事で良かった、というべきなのだろうか……。
 青い花。丁寧に処理されたそれは、鮮やかな色を残したまま。
「今度は、忘れられないだろうな」
 マオはつぶやく。轢はかつて、家族を忘れることで過去を乗り越えた。今度はきっと、忘れまい。忘れる気もないだろう。現に十回ばかり会っただけの自分ですら、Azureと名乗ったあの少年を忘れられそうにはなかった。天真爛漫で、それでいて寂しがりやで子供じみた、かと思えば人を人とも思わぬような、「代わりがある」と言い切ってしまうような、どことなく不気味さをも併せ持つ、轢の特別な「友人」。
 彼はもう、どこにもいないのか。
 死別になど、轢よりもずっと慣れているはずなのに。それほどまでに、彼は――否、彼らはマオに鮮烈な印象を残していった。
 ――ああ、会いたいな。
 マオは思った。一度、故郷に帰ってみようか。あれからもう、何年が経つのだろう。もうおぼろげにしか思い出せない景色――そして、空の色。
 彼の名の、色。
 青い花が、呼んでいる。
 マオは意を決して、ペンを手にとった。近いうちにそちらに帰るということを記し、宛先は、迷ったが義兄にした。轢とは、直接話がしたい。
 
 だが、
 もう、
 彼の側にあの少年はいないのだ……。
 
 兄弟のような、
 親子のような、
 親友のような。
 あのふたりには、
 もう会えない。
 
 そのことが、自分でも意外なほどに、
 ただ、
 悲しくて。