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EX.2 STRAY CAT

 ──何だそれ、と言いたいのを轢はぐっと我慢した。Azureと出会ってから、自分はずいぶん気が長くなったと思う。そう、たとえば仕事の間 Azure を待たせていたらいつの間にか泥だらけになっていて、しかも腕に妙な生き物を抱えていても思わず怒鳴りつけたりはしないくらいに。
「轢、仕事終わった? お疲れ様!」
 呼応するようにニャア、と鳴いたのは、Azureが抱えていた生き物だ。泥にまみれていて一見しただけでは良くわからなかったのが、どうやらそれは猫らしい。生きているそれを間近で見るのは初めてだった。
「お前、それどこで拾ったんだ?」
 触れないように指を差して尋ねる。Azureは朗らかな笑顔で答えた。
「轢を待ってたら近付いて来たんだ」
「へえ」
 猫はAzureの指先に首元をくすぐられ、ぐるぐると喉を鳴らす。目を細めたその様子には、何ともいえない愛嬌があった。轢がそうっと手を伸ばした、そのとき。
「あっ」
「…………」
 轢は唖然と手の甲を見下ろす。赤い三本の線──それはみるみる太くなり、ぷつりぷつりと玉になってにじんだ。ひっかかれたらしい。
「あ、こらダメだろ!」
 Azureに叱咤され、猫は弱々しくミャアと鳴いた。
「ごめん、轢……大丈夫?」
「別にお前が引っかいたわけじゃないだろ」
 轢は傷を軽く舐めた。口に広がる血の味にむかつきを覚える。
 猫を抱いて突っ立っているAzureに、轢は尋ねた。
「お前、それどうするつもりだ?」
「え……」
 目を見開いたのが、サングラス越しでもはっきりとわかる。轢は苦笑した。
「そいつを連れては行けないぞ」
「うん、そうだね……でも……」
 Azureは顔を伏せる。
「こいつね……ずっとなめてたの……もう動かないのに、ずっと……」
「何をだ?」
 ガラス玉のような猫の瞳は澄み切って、何かに似ていた。
「ボロボロで良くわからなかったけど、こいつの親だと思う……オカアサン、かな」
「…………」
 轢は大きく息を吸い込み、やがて勢い良く吐き出した。
「行くぞ、Azure」
「でも」
「お前はずっとそいつの面倒を見てやれるのか?」
 轢はサングラスの奥をじっと覗き込む。Azureは困ったように瞬きを繰り返していた。
「たとえば追っ手が迫ってきて急に逃げ出すことになっても、お前はそいつを置いていかずにちゃんと連れて行けるか?」
「……ちょっとの間だけ、は?」
 轢には懐かなかった猫が、何故かAzureには大人しく抱かれている。桃色の舌がチロリと覗いて、Azureの指先を舐めた。
 轢はため息をつく。
「子猫のうちに甘やかすと、こいつは自分で餌をとれなくなるぜ」
「え?」
「お前がいないと生きていけなくなっちまうんだ。お前はその責任を取れるのか?」
「…………」
 Azureは何か言いたげに唇を震わせたが、結局何も言い出すことなく俯いた。
「行くぞ」
 轢はもう一度言い、Azureに背を向けて歩き出す。背後で猫がニャアと鳴いた。数歩進まないうちにAzureが横に追いついてきた。
 ──その腕に、猫の姿はなかった。

 翌朝。Azureが目を覚ますと、横のベッドに轢の姿はなかった。慌てて飛び起きる。
「轢?!」
「しっ。静かにしろ」
 押し殺してはいるが確かな返事が返ってきて、Azureはほっと胸をなでおろす。どうやら轢は隣の部屋にいるらしい。
 そうっと足音を立てぬように気をつけながら移動すると、轢の後姿が見えた。窓の外を眺めているようだ。静かに横に並ぶ。
「どうしたの?」
「あれ、見てみろよ」
 轢は外を指差した。Azureはその指先を追い、小さく息を飲む。
「昨日の……?」
「そうだよ」
 薄汚れた塊は、ベランダの手すりの上をじりじりと移動している。それが目指しているのは──。
「あれ?」
 Azureは小さく呟いた。アパートの壁沿いに張り出した細い木の枝の上、見覚えのあるものがからまっている。
「カラアゲ……?」
 そうだ、昨日二人が夕食に食べた唐揚げだ。それが何故あんなところに……?
 振り返ると、轢は妙に憮然とした表情をしていた。
「一晩中玄関の前でにゃーにゃーうるさかったんだよ。仕方がないから唐揚げを一個遠くに放ってやったんだ。今は取るのに夢中でうるさく鳴いてないだろ。これですっきりだ」
「…………」
 ──だったら何故こんなところで心配そうに猫を見守っているのかとか、あんなところに唐揚げが自然とからまるだろうかとか、気になることはいろいろあったのだが……Azureはただくすりと笑っただけだった。
「そっか」
 やがて、無事に唐揚げをくわえることに成功した猫は、そのまま駆け去り姿を消した。振り向きもしない──その姿を、Azureは少し名残惜しげに見送った。
「さて、朝メシにするか」
「うん!」

 ──青い目の猫を拾ってしまった自分は、もしかしてあの時選択を誤ったのかもしれない。
 轢の脳裏にふとそんな考えがかすめたことを、Azureが知るはずもなかった……。