instagram

EX.1 SMOKY

 ベルの音と共に店内に入ってきた轢は、カウンターの上にどさりと荷を下ろした。
「ほらよ」
 マオは黙って中を改め、やがて微笑を浮かべて頷く。
「ご苦労さま」
 轢はちらりと荷を見やり、つぶやいた。
「しっかしそうまでして吸いたいもんかねえ、煙草って」
 マオは苦笑を浮かべながら、轢の買い付けてきた煙草を店の奥の棚に仕舞い込んだ。
「ニコチンには身体依存性があるからな。いくら値が高騰しても買うやつは買うのさ」
「そんなもんか」
 戦後、煙草や酒などの嗜好品は政府によって一元的に管理されるようになった。だが抜け穴をくぐって取引するものは、マオに限らずどこにでも存在している。
「お前は吸わないよな」
 マオの言葉に、轢は肩をすくめた。
「昔一本吸ってみたんだけどさ、真っ黒な煙にむせてもう死ぬかと」
「それは粗悪品、俺の店で扱うのはもっといいやつだ。……でもまあ、無理して吸うものでもないな。俺も吸わないし」
「あの……ねえ」
 黙って轢の背後に立っていたAzureが、突然口を開いた。
「ん? 何だ?」
 振り向いた轢とマオの視線を一身に浴びながら、Azureは首を傾げる。
「タバコって、なに?」
「吸ってみるか?」
「おい、マオ」
 制止しようとする轢に、マオは言った。
「一度くらいは構わないだろう?」
「お前、これでAzureが喫煙者にでもなってみろよ。俺が煙い思いをするだろうが」
「Azure、吸ってみないか?」
 轢の抗議を無視し、マオは真新しい包みを開けて白い紙に巻かれた一本の煙草をAzureに差し出す。Azureは迷ったように轢を見た。
「轢はこれ……嫌い?」
「ん……まあ、好きじゃあねえな」
「じゃ、やめとく」
 瞳に好奇心を浮かべながらも、残念そうにAzureは首を横に振った。マオはため息をつく。
「轢の言うことは、そんなに絶対か?」
 轢も気が引けたのか、軽く促した。
「別に構わねえよ、一本くらい吸ってみたって。何事も経験だろ」
「…………」
 Azureはマオの指先に摘まれた煙草を見つめた。
「そういえば……僕、これ見たことあるかもしれない……」
「へえ?」
 轢は小さく眉を跳ね上げた。
「お前、何か思い出したのか?」
「別に、そういうわけじゃないけど……」
「匂いを嗅いだら思い出すかもしれんな」
 マオはマッチを擦り、煙草に火を点けた。白い煙が店の中に細くたなびく。Azureはそれをぼうっと眺めていた。青い瞳の中に、ゆらゆらと炎が揺らめいている。
「何か、思い出したか?」
 尋ねた轢に、Azureは首を横に振った。轢はそれを見てがっかりしたような、安心したような、複雑な表情をした。Azureの記憶が戻ることを望んでいるのか望んでいないのか、最近では轢自身にも良くわからなかった。Azureが記憶を取り戻したら、ふたりの逃避行は終わるのかもしれない。そうすればもう身を隠して生きる必要はなくなる。だが、轢はまたひとりきりの生活に戻らなければならない……。
「一口、どうだ?」
 マオに勧められ、Azureはちらりと轢を見た。轢が頷いてやると、Azureはおずおずと煙草に手を伸ばし、口を付けて軽く吸った。
「?! ……けほ、ごほ」
 むせかえったAzureに、轢は笑った。
「な? やっぱりむせるだろ」
「……うん。僕もこれ、嫌い」
 涙目で轢を見た後、Azureはにこりと笑った。
「轢と一緒だね」
 マオは苦笑を浮かべ、火のついた煙草を空き缶に突っ込む。
「何だか兄弟みたいだな、お前ら」
「キョウダイ?」
「何でだよ。全然似てないじゃねえか、俺たち」
「見た目の問題じゃないのさ」
「ねえねえ」
 Azureが声をあげた。
「キョウダイって、何?」
「……へ?」
 轢がきょとんと目を瞬く。
「お前、兄弟を知らないのか?」
「知らない……僕と、轢がキョウダイ、なの?」
「…………」
 轢とマオは黙ったまま顔を見合わせた。
 Azureは、確かに記憶を失っている。だがそれは自分の過去に関することだけであって、自分やものの名前であるとか、食事や着替えなどの日常的な動作であるとか、そういった知識には全く障害がない。煙草の名前は知らなかったかもしれないが、Azureはそれを手にして吸うことはできた。つまり、Azureは煙草を見知っていた。その名前を耳にしたことがなくとも、誰かが吸う姿を目にしていたのだろう。――だが、Azureは兄弟という言葉を知らないという。
 轢はゆっくりと問い掛けた。
「じゃあAzure、両親って言葉はわかるか?」
「リョウシン?」
「家族は?」
「カゾク……前、轢が言ってたよね」
 それはAzureと出会った日に、悪夢を見た轢が語った話だ。戦争で家族を亡くしたと。
「ああ、そうだな。でもそれが何のことか、お前はわかってるのか?」
「ううん、よくわからなかった。でも、轢が苦しそうなのはわかったから……」
 轢は深いため息をついた。……Azureの過去の境遇がどんなものであったのか、轢にはわからない。だが、Azureは家族を知らない。両親も、兄弟も知らない。その概念すら持たないままに生きてきたのだとしたら――それがしあわせな環境だったとは、轢には思えない。
「世の中には男と女がいるだろ。それはわかるよな?」
「うん」
 Azureは興味津々といった様子で青い瞳を輝かせている。
「で、結婚して……子供が生まれるだろ」
「ケッコン?」
「一緒に生きていきますって誓うんだよ」
「誓うと子供が生まれるの? じゃあ僕と轢が誓っても生まれる?」
 轢はげっ、とうめいた。
「俺もお前も男だろ?! 生まれねえよ!」
「そ、そうなんだ……」
 残念そうに眉を下げるAzureの頭を軽くはたき、轢は話を続けた。
「で、子供がふたり以上生まれるとする。そうしたらそいつらは兄弟だ。で、子供の立場から見るとその男と女が両親にあたるわけ。男が父親で、女が母親な。そいつら全員ひっくるめて、家族って言うんだよ」
 Azureはしばらく考え、やがて顔を上げた。
「……じゃあ、僕と轢は兄弟じゃない、よね?」
「そうだな。俺たちは同じ親から生まれたわけじゃないし」
「家族でもない、ね……」
 肩を落とすAzureに、轢は声を掛けた。
「そうかたっ苦しく考えるなよ」
「え?」
「そうだな」
 マオは笑みを含んで同意した。
「家族にもいろんな形がある。場合によっては他人同士だって家族になることはあるさ」
「そうなの?」
「ああ」
 ぴょこりと頭を上げたAzureに、マオはうなずいてやる。
「慕う相手のことを親父さんとか、兄貴とか呼ぶこともあるしな」
「オヤジサン……アニキ……」
「言っとくけど」
 轢が声をあげた。
「俺のことを親父とか呼ぶなよ」
「じゃあアニキ……」
「そっちも駄目だ」
「……ちぇ」
 拳を振り回す轢と、すねたように唇をとがらせるAzureを交互に見て、マオは唇をほころばせた。――彼らのかもし出す空気には、どこか馴染みがある。自分に兄弟がいるせいだろうか。しばらく連絡を取っていないが……。
「……元気にやってるのかねえ」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、別に」
 曖昧に誤魔化しながら、マオは微笑を浮かべた。案外自分が轢らを放っておけないのは、そんなところに理由があるのかもしれないな、と思いながら。
 血のつながりも、互いを呼ぶ方法も、それそのものは本質的なものではない。マオの目の前にいるふたりは、これ以上はないというほどに兄弟であり、家族だった。――たとえその絆が煙のように儚く、脆いものだとしても。
 傍らの空き缶からは、未だ細く白い煙が立ち昇っていた。