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COLORS

 部屋には香ばしい匂いが充満していた。
「もうちょっとで飯できるからな。待ってろよ」
 轢は慣れた手つきでフライパンを扱っている。その横をAzureがうろうろと落ち着かない様子で歩き回っていた。
「うん。……でも僕、何もしなくていいの?」
 轢は不機嫌そうに振り向く。
「砂糖と塩を間違えて気付かないようなやつに、料理の手伝いなんてさせられるか」
「むう」
「ふつう味見したらわかるだろ。なんでお前気付かないんだ。味覚オンチか」
「オンチ?」
 轢はため息をついた。ついで、古びたコンロの電源を切る。
「……まあいい。とりあえず飯食おう。冷めたらまずくなるし」
「はーい」
 先ほど綺麗に洗っておいた皿を使って、テーブルに料理を並べる。Azureと出会ってから言うようになった「いただきます」にも、随分慣れてきた。
 轢は行儀悪くフォークをくるくると回す。
「それにしても、宿を点々とする生活ってのは、案外きついもんなんだな。限界が来る前に、マオが部屋を見つけてくれて助かったぜ」
「ん」
 Azureは食事に夢中のようだった。苦笑する。
「お前、そんなにがっつくと喉つめるぞ」
「平気だよ。……これ、美味しいね」
 轢は苦笑交じりに頬を緩めた。
「お前、味わかってんのか?」
「うん、美味しいよ?」
 Azureの食の進みっぷりを見ると、それは本心らしい。
「……まあ、まずくないんならいいけどな」
 自分の料理を他人が食べているなど、何だか変な感じだった。Azureと出会う前では考えられないことだ。ずっと独りだったし、極端な話、腹が膨れれば何でも良かったのだ。しかし他人に美味しいと言ってもらえるのは、思っていたよりも気分のいいものだった。
 ふと思いつき、轢はAzureに尋ねる。
「お前、何か好きな物ってあるのか?」
「好きな物?」
 Azureはきょとんと首をかしげた。
「そう。作ってやろうと思って」
「うーん」
 記憶のないAzureには、少々難しい質問だったかもしれない。
「ないのか?」
「轢の作るものは何でも美味しいもん。あ、おかわりしていい?」
 Azureは空になった皿を残念そうに見つめた。
「ああ。俺、もう腹いっぱいだから、好きなだけ食っていいぞ」
「やったあ!」
 Azureは嬉しそうにフライパンを引き寄せる。
「……有り合わせを適当に炒めただけで、そこまで喜ばれるのも何だかなー……」
 轢は面映くなって頬をかいた。Azureはぴたりと手を止め、顔を上げる。
「轢、次は僕も手伝っていい?」
「……手伝いたいのか?」
「うん」
 轢はよし、とうなずいた。
「じゃあ教えてやる。ただし、もう砂糖と塩は間違うなよ」
「わかった。粒が小さくてさらさらしてる方が砂糖で、固まってじゃりじゃりするのが塩だよね」
「……いや、その覚え方はどうかと思うが……ま、料理してるうちには味覚オンチも治るだろ。っていうか治ってくれ」
 Azureは屈託なく笑う。
「治るといいね」
「他人事みたいにいいやがって……」
 轢のぼやきを聞いているのかいないのか、Azureは椅子から立ち上がった。
「ごちそうさま! お皿は僕が洗うから、置いておいてね」
「おう、ありがとな」
 キッチンから水音と、そしてAzureの適当な鼻歌が聞こえてくる。轢はぽつりとつぶやいた。
「……俺が作ったからって、気を遣って後片付け担当しなくてもいいのに。頭の中すっからかんに見えるけど、案外そうでもないんだよな、Azureは」
 洗い物が終わるまでにはまだ時間がかかるだろう。轢は立ち上がった。
「Azure、先にシャワー浴びてくるぞ」
「うん!」
 数分が経ち、Azureが濡れた手をシャツの裾で拭いながら戻ってきた。部屋を見回すが、轢の姿はない。彼の顔から表情が消え、青い瞳が空虚な孤独のいろを映し出した。ぼうっとつぶやく。
「この部屋の壁、そらのいろと同じだ。灰色。でも、たしか……どこかで白い壁を見たことある気がする。どこだっけ……」
 壁に背中をつけて座り込み、小さくなって膝を抱える。
「どこだっけ……」

 それは、白い夢。白い建物、白い部屋――彼の世界はどこも白く彩られていた。そこがどこかは知らない。生まれたのも育ったのもその場所だった。
「Azure」
 呼ばれて彼は振り向く。彼を呼んだその人のまとう服もm白かった。ハクイというものらしい。ここにいる人は皆着ている。
「スワン? 何?」
 長い黒髪を項でまとめたその女性は、彼に一番優しくしてくれる人だった。駆け寄ると、彼の短い金髪を撫でてくれる。そんな風に彼に触れてくれるのは、彼女だけだった。
「検査よ。いらっしゃい」
「……はーい」
 大嫌いなケンサの時間だと聞いた彼は眉を顰めたが、それでもスワンに逆らうことはしなかった。それはただ、彼女を困らせるだけだと知っていたから。
 スワンに手を引かれて長い廊下を歩く。すれ違う大人たちは皆彼を見ない。目が合ってもどこか慌てたように逸らしていく。まるで、Azureなどどこにも存在しないように。
 Azureは立ち止まり、彼の頭よりも随分高い位置にある窓を見上げた。薄暗い灰色が見える。
「きたない色……」
「立ち止まっちゃ駄目よ、Azure」
 スワンの手が彼を引っ張り、再び彼は歩き出した。

 長い長い検査の後、彼は自室にかえされた。この部屋の窓には金属製の格子が嵌まっていた。
 Azureは白い机を窓の下まで引き摺り、その上に乗った。覗きこむと、かろうじて外が見える。
 彼の鮮やかな青い眼が灰色の空を映して瞬いた。
「やっぱりきたないよなあ……」
 彼のいる建物は、ぐるりを高い壁で囲まれている。だから、窓から覗いても見えるのは壁と空だけだった。コンクリートの壁と空の色がとても良く似ていて、Azureの唇からため息がこぼれた。
 物心付いた頃から一人でここにいる。スワンが教えてくれることだけが、彼の持つ知識の全てだった。字もほとんど読めない。
 ――ぼくは何故、ここにいるんだろう。
 この問いに答えてくれる人はいない。彼の周りにいるのはほとんど大人たちばかりだ。時折彼と同じ年頃の子供を見かけることもあるのだが、話したことはない。話し掛けようとしてもスワンに怒られて止められてしまう。そして――何故か、彼らはいつの間にかいなくなってしまうのだった。
 部屋の扉がノックされ、Azureは気だるげに返事をした。
「食事の時間よ」
 スワンがお盆を持って入ってくる。クリームシチューとパンを見て、彼の顔が綻んだ。
「好物なの?」
「うん。僕シチュー大好き」
「そう……」
 スワンはAzureの向かいに腰掛け、独り言のように小さく呟いた。
「あの子と同じね……」
 Azureはスプーンを口にくわえたまま眼を上げる。
「あのこ? 誰?」
「何でもないわ」
 スワンは首を横に振った。長い髪が左右に揺れる。
「さあ、食べてしまって」
「……うん」
 Azureは不服顔ながらも大人しく食事を続けた。
 ――つまらない。
 自然とため息がこぼれる。
 ――生きているってどうしてこんなにつまらないんだろう。
「ねえ」
 彼が俯いてしまったのを気にしたのか、スワンはとりなすように言った。
「いいものをあげるわ」
「いいもの?」
「そうよ」
 スワンは悪戯っぽく微笑む。
「貴方にぴったりなもの」
 彼女は白衣のポケットから小さな本を取り出した。
「ぼく、本読むの苦手」
「大丈夫よ、これは読むものじゃないから」
 スワンは彼の膝の上にそっと乗せる。
「題名のところ、ほら」
「何て書いてあるの?」
「『Azure』」
「それ、ぼくの名前だ!」
 Azureは顔を上げて眼を瞬いた。
「どういうこと?」
 スワンは笑ってページをめくる。
「Azureってどういう意味か知ってる?」
「知らない」
 彼は吸いつけられたように本を見つめた。鮮やかな青にいくつもの白い塊が浮いている写真が、ページを埋めつくしている。その白はひどく柔らかそうで、青はどこまでもまぶしく澄み切っていた。
「Azureはね……『青空』っていう意味なの」
「あおぞら?」
 Azureはあっと叫んだ。
「もしかして、これって全部空の写真?」
「そうよ。こっちが本当の空なの」
「すごいね……きれいだ」
 Azureは茫然とつぶやいた。彼は灰色の空しか知らない。こんなに綺麗な色の空があるなんて……。
 濃淡のある青や紫で彩られた空はそれぞれ違った表情を持っている。いつも不機嫌に黙りこくっている薄汚れた空しか知らない彼には、空がこんなに沢山の表情を持っているということが信じられなかった。
 スワンは一つの写真を指差して彼の眼を覗き込んだ。
「ほら、貴方の眼の色よ、Azure」
「ぼくの……?」
「そうよ」
 何故か泣きそうな顔で微笑む。
「綺麗な青い色だわ」
「……どうしたの?」
 彼女の顔色があまりに悪いのに気付き、Azureは眉をしかめた。
「何かあった?」
「何もない。何もないわ。でも」
 スワンはAzureを抱きしめる。
「許して……許してね、Azure」
「何を? 何を許すの?」
「貴方はここから出ることはできない」
 苦しそうな彼女の声。
「どうして?」
「…………」
 Azureは食い下がる。
「ぼくは何? どうしてここにいるの? どうして?」
「それは」
 スワンは顔を背けた。
「言えないの……言えないの、Azure」
「だから、どうしてなのさ」
「私たちがやっていることは、禁じられたことなの」
「え?」
 スワンは表情を消して立ち上がった。
「もう行くわ。お皿を下げるわよ」
「どういうこと? 僕、全然わかんないよ!」
 Azureも立ち上がり、スワンの白衣の袖を引いた。
「何が禁じられているの? ぼく、どうして」
 スワンはもう何も言わずに彼の皿をひったくるようにしてとり、足早に部屋を出て行く。重い音と共に、扉が閉まった。
 Azureは誰もいなくなった部屋で足を踏み鳴らし、泣いた。――こんなに泣いたことはなかった。
 ぼくは誰?
 どうしてここにいるの?
 ここはどこ?

 ――本当の空は、どこ?

「Azure、おい、Azureったら」
「…………!」
 Azureははっと眼を覚ました。視界いっぱいに広がる轢の顔。
「眼が覚めたか? うなされてたぞ」
「……うん。大丈夫」
 何か良くない夢を見ていた。胸にもやもやとわだかまる何か……夢はその暗い輪郭だけを滲ませながら、夜に溶けていく。
 Azureは丸めていた体を伸ばした。がちがちに強張っている。
「何の夢だ?」
「……思い出せない」
 体を起こし、顔を軽く左右に振る。金髪がぱさぱさと揺れた。
「何も……思い出せない」

 ――逃げなさい、Azure。

 あれは誰だったんだろう。

 ――やっぱり間違ってる。

 長い黒髪、涙に濡れた黒い瞳。

 ――人間を人間の代わりにするなんて、間違ってる……!

「思い出せない……」
 Azureはもう一度つぶやいた。遠い記憶、近い記憶。それらが交じり合った渦が彼を巻き込み、惑わせる。
「Azure、熱いシャワー浴びて来いよ。さっぱりするぜ」
 轢は少しわざとらしいくらいに明るい口調で、Azureを促した。
「うん……」
 ぼうっとした様子に、轢は不安そうな眼差しを投げる。どこか、Azureの様子がおかしかった。どうしようもなく嫌な予感がしていたが、それでも聞けなかった。もしかしたらAzureの消えた記憶に関することかもしれない。
 轢は、怖かったのだ。
 忘れていたかった。Azureの記憶がないことも、よくわからない奴らに追われていることも。いつか、このままではいられなくなる日が来るのかもしれない。それが、怖かった。
 
 ――この平和な生活が終わってしまうのが、轢はどうしようもなく怖かった……。