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CANDY MOON

「あれ、なあに?」
 また始まった、と轢は苦笑した。Azureはいつだって好奇心旺盛で、轢に質問ばかりしている。まるで小さな弟ができたようだ。Azureの指差す先の空には、白くうっすらと輪郭の溶けかかった円弧が輝いている。
「月だな」
「ツキ?」
「そう。太陽の弟分みたいなもんだろ。……たぶん」
 曖昧に言葉を濁す轢には気付かなかったかのように、Azureはにっこりと微笑んだ。
「じゃあ轢がタイヨウだったら、僕はツキだね」
「……え、何で?」
 Azureは答えずに笑顔のまま空を振り仰いでいた。轢もつられて立ち止まる。
 どうせ今日の仕事はもう終わりだ。マオの店で取り扱っている雑貨のひとつの買い付けを頼まれたのだが、すぐに終わった。偽造身分証明書の受け渡しとか、脱法ドラッグの売人との交渉よりはよほど楽な仕事である。……その分報酬は少ないのだけれど。マオもそういうところは甘くない。
 今日の空の色は少し薄い。いつも灰色に澱んでいる空は、月も星も、時には太陽さえ、隠してしまっている。夜ならばぼんやりと月の光が見えることもあるが、こんな真昼に月を見たことなどなかった。……もしかすると見逃していただけかもしれない。こうして空を見上げるなど久しぶりだ。今日もAzureが教えてくれなかったら、きっと轢は気付かなかっただろう。
「今日はラッキイなのかな?」
 Azureは轢の顔を覗き込んでにっこり笑った。
「ラッキイ、ねえ……」
 轢はつぶやく。確かに、ラッキイなのかもしれない。今こうして自分が生きていることも。まだ、Azureが追っ手に見つかっていないことも。
 ――いつまでこの日々が続くのだろう。続けていられるのだろう。
 雑貨の仕入れ、闇ルートでのドラッグ売買、偽身分証明書の受け渡し。そんな仕事をマオに回してもらいながら、轢たちは生きている。数日で宿替えするのが多少面倒ではあるけれど、まあ、悪くない生活だった。Azureは素直でいい男だと思う。少し子供っぽいけれど、もしかしたらそれは記憶の影響かもしれない。仕事の相方としてもやりやすいし、基本的に相性がいいのかもしれない。
 ――こんな日々がずっと続いてもいい。轢は、そう思っていた。
 
 廃墟のような街に人影は少ない。夜になれば姿を現す者たちもいるがその大半は薬物中毒者(ジャンキー)や職にあぶれたストリートチルドレンたちで、治安は最悪といっていい。
 Azureはサングラスの下から、辺りをきょろきょろと見回している。やがて邪魔になったのか、Azureはサングラスに手を掛けた。こっそりと取り去ろうとする。
「あ、こら。サングラスを外すな」
 轢は慌ててAzureの手を抑えた。Azureは唇をとがらせる。
「だって、見えにくい……」
「下町の鉄則はな、目立たないことだ」
「目立つ? 僕が?」
「お前、目立たないとでも思ってんのか? そんな髪とか目のやつ、この辺にはいねえだろ?」
「……僕、変?」
 元気をなくしたAzureに、轢は静かに言葉をかけた。
「変じゃない。ただ目立つんだ。俺は――いいと思うぜ」
「ほんとう?」
「ああ」
「良かった」
 Azureはにっこりと笑った。その表情に曇りはなく、轢はほっとする。確かに、Azureの瞳はいい色だった。綺麗で、曇りのない、澄んだ青。この街にはふさわしくないくらい、きらきらと輝いている。そんな色は見たことがないはずのに、懐かしいのは何故だろう……。
「そういや、この辺も久しぶりだな」
 轢は辺りを見回し、苦笑した。あまりよくは覚えていないが、轢がもっと幼かった頃、この路上で生活していた。盗みもしたし、騙しもした。それでも人を傷つけたり殺したりしたことはない。それは彼のようなストリートチルドレン出身の者には珍しいことで、それがマオにも信用されている原因なのかもしれない。
 ――人を殺せないのは、親の死に顔を思い出したくないからかもしれないな……。
 街路に溢れている犬猫の死骸、そういったものですら轢は避けている。体の内側から何かがぞわぞわと這い上がってくるような、何ともいえない不快感がせりあがってくるのだ。――死は、嫌いだった。
「あ!」
 ぼんやりとしていた轢は、Azureの上げた声に驚いた。
「どうした、いきなり……」
「あそこで何か売ってる。待ってて、僕見てくるね」
「おい」
 轢が止める暇もなく、Azureは後も見ずに駆けて行った。ふだんは轢の服の裾をつかんで離さないというのに。轢は苦笑する。
 Azureは、どうやら露店を見つけたらしかった。こんなところで露店とは珍しいな、と轢は驚く。路上に品物などを広げていれば、必ず腹を減らしたストリートチルドレンたちの襲撃に遭うからだ。店舗を構えている者すら、皆厳重な警戒をしているというのに。だが轢は逆に、警備に金を払える余裕のあるような店からしか盗まなかった。それは轢の、ちっぽけな矜持だったのかもしれない。
「転ぶなよ!」
 轢は慌ててAzureの後を追った。

「ねえ、それお菓子?」
「ああ、そうだよ」
 Azureの声に、店の奥に居た老婆が顔を上げる。
「キャンデーもガムも、クッキーだってあるよ」
「うーん……何にしようかな……」
 Azureが悩んでいる間に追いついた轢が、老婆に声をかけた。
「こんなところで露店やってて、ワルガキどもに荒らされたりしねえか?」
「しないよ」
 老婆はゆっくりと首を振った。その片目は白く濁っていて、ほとんど見えていないらしい。
「うちのお客は戦争で親を亡くしたり、捨てられたりした孤児ばかりさ。この店はね、そういう子供たちに面倒見てもらってるんだよ。商品は必ず金を払って買う。新入りの悪ガキがうちから万引きしようとしたらコテンパンにしてくれる。時々やりすぎるから止めるのが大変だよ。……昔はあんたのいうように、苦労したけどね」
「そうか……」
 轢の脳裏にふとかすめたセピア色の何かは、形にならないままに消えた。老婆は言葉を継ぐ。
「そう、子供たちが変わったのは、一人の男の子がきっかけだったんだ。その子も戦争で両親を失った孤児だったけどねえ」
「……うん」
 Azureが頷く。その顔は見たことがないほど穏やかで、優しくて、轢ははっとした。子供っぽいとばかり思っていたAzureにこんな表情ができるとは思わなかった。
 老婆は懐かしむように目を細めた。
「その子は変わってたよ。一日中小銭を稼ぐために走り回って、そのお金をやりくりして余らせてね、私のキャンデーを買いに来るんだよ。『一つ頂戴、ちょっとおまけしてよ』って……」
「…………」
「その子も孤児で、一日中小銭を稼ぐために走り回ってた。そのお金をやりくりして、余裕のある日には必ずうちに買いに来るんだよ。『ちょっとおまけしてよ』って……」
「オマケ、した?」
 目を輝かせて尋ねるAzureに、老婆は笑ってうなずいた。
「それはもちろんさ。だけどその子、うちのものを盗んでる他の子のことなんて、てんで無視してるんだ。注意してくれるわけですらないんだよ。ただ、自分は盗まずに買いに来る。それだけ」
「……それだけ?」
「そう。不思議なもんだねえ、その子を見ていた周りの子供たちが、少しずつ盗みを止めていった……代わりに、ちゃんと買っていくようになったんだよ。ちょっとお金が足りない子もいたけどね、でも私は売ってやったよ。元々子供は好きだったからね。私の子供は、戦争で全員死んじまったけど……」
「……その子、今でもこの辺りにいるの?」
「いつの間にか見なくなっていたねえ。どこでどうしてるのやら……きっと、もういい大人だ」
 老婆は嘆息した。
「ブラウンの眼の綺麗な子だったよ。気性が真っ直ぐで、人を傷つけることは絶対にしない子で……」
「婆さん」
 轢は呟いた。
「そいつは……相変わらずだよ」
「え?」
 老婆が顔を上げた。轢は微笑む。彼女の目に自分の表情は見えないのかもしれない、と思いながら。
「金がなくていつも苦労してるのに、露店で品物広げてちょこんと座ってるばあさんを見ると思わず金を出したくなっちまう。……そんなお人好しだよ」
「……あんた」
「だからそいつは、きっと元気にしているさ」
「……そうかい」
 老婆は皺だらけの顔をくしゃくしゃにした。
「そうかい……」
「轢……?」
 Azureが不思議そうに轢を覗き込む。そのブラウンの眼に溜まった液体を、彼は物珍しそうに眺めていた。
 そう――俺は相変わらずだ。だけど決して、悪くない。
 轢は軽く手の甲で顔を拭った。
「とりあえず婆さん、キャンデー二つもらおうか」
「はいはい」
 老婆は差し出した轢の手の平に、キャンデーを四つ置いた。
「多いぜ?」
「いいんだよ。おまけしてあげる」
 老婆は顔を上げた。
「盗むよりも買ったものの方が美味いって、昔あんたは言ったけどね。もっと美味いのは誰かと一緒に食うものだよ」
 轢は思わずAzureを見た。一足先にキャンデーを舐め始めたAzureは、その甘さが気に入ったらしく嬉しそうに笑っている。
「轢も、ほら」
 彼の視線に気付き、Azureは轢を促した。
「食べなよ」
「……そうだな」
 紙を剥き、口に含む。途端に広がる甘い味。ひどく懐かった。
「あんたはもう、一人じゃないんだねえ」
 しみじみと語る老婆の声を聞きながら、轢は真昼の月を見上げた。うっすらと滲む白い光。掻き消えそうな危うさを抱えながら、それでもそこにある。今の自分の状態もそうかもしれない。不確定な状況に身を任せながら、それでも死なずにここに居る。
「轢……」
 Azureの髪をくしゃくしゃと撫で、轢は言った。
「行くぞ」
「うん」
 尻尾を振る子犬のように、Azureは轢の横に並ぶ。
「ねえ、どこに行くの?」
 轢は小さくなったキャンデーをガリッと噛んだ。
「……さあな」

 真昼の月が見えなくなるまで、
 口の中のキャンデーが溶けてなくなるまで、
 俺たちがこうして生きていられる限り、
 どこへでも歩いていこう。
 そう、
 どこへだって行けるはずだから……。