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BIRD

 轢の傷は順調に癒えた。追っ手の姿はまだ見えていない。
 もう何も悪いことなどおきないのではないか。轢は漠然とそう思っていた。このまま二人で助け合って生きていけるのではないかと……友達として、もしかしたら家族としても、手を差し伸べあっていければいい。
 ある日、マオから連絡があった。義理の兄がここから随分離れた場所で農場を経営していて、人手が足りないので手伝ってもらえないかと頼まれたのだという。
 マオはこの街を離れる気がないというが、轢はその話に心を動かした。この街から遠く離れられるというのなら、願ったりかなったりではないか。Azureを探している者たちも、まさか追いかけては来ないだろう。ようやく安息の地を手に入れられる。
 ――マオの代わりに、自分たちが手伝わせてもらえないだろうか。
 マオも元々そう提案するつもりだったのだろう、轢の頼みを快く引き受けてくれた。記憶喪失の青年と、マオと違って兄弟すらいない孤児。あまり望ましい人材ではないだろうが、好意的な彼の言葉が功を奏したのか、義兄は彼らを雇うことを承諾してくれたらしい。先日の手紙には農場のある街までの切符が二枚同封されていた。
 そこは列車で二日ほどかかる場所で、轢はすぐに行くことを決めた。
「もう少し、頑張れよ」
 マオの言葉が嬉しい。
 ――灰色のこの街に、俺たちの居場所はなかったけれど。

「遠くに行くの?」
 Azureは相変わらずの無邪気な様子で轢に尋ねた。ホットドッグを食べながら、手についたケチャップを丁寧に舐め落とす。その赤に別の色を重ねて悪寒が走り、轢は慌てて目を逸らした。まさかAzureのその手が人を殺したなどと……轢にはまだ信じられない。
「ああ、そうだよ」
 彼らが今腰を下ろしているのは広場のベンチで、その金属のパイプ部分には赤黒い錆が浮いていた。街の他の部分と同じように、このまま朽ちていくのだろう。
「いつ出発?」
「明後日かな」
 Azureはその黒いサングラスの向こう側から青い瞳を覗かせて微笑んだ。
「僕たち、一緒に行くんだよね?」
「ああ、もちろん」
「うん」
 嬉しそうにAzureは足をぶらぶらさせる。
「ねえ、どんなところ?」
「農場。果樹園って言ってたかな……」
「カジュエン?」
「ぶどう畑をやってるって聞いた気がする」
「僕、ぶどう好き」
 轢は小さく噴き出した。
「食ったら話にならねえだろ。売りものなんだから」
「あ、そっか」
 Azureは広場の中央、壊れた噴水の方へとその視線を投げた。コンクリートの破砕された欠片だけが転がるそこには、白や灰色のハトが群がっている。破裂した水道管から今もまだ湧き続けている、僅かな水を飲んでいるのだろう。
 何故、この街にいつまでもとどまっているのだろう。彼らの背中には翼があるのに。どこにでも好きな場所に飛んでいけるはずなのに。
 それとも、彼らにはここを離れられない理由でもあるのだろうか。
「ごめんね、轢」
 Azureがぽつりとつぶやき、轢は驚いて彼を見つめた。その表情に色はなく、青い瞳には暗い影が落ちている。
「何がだ?」
「僕のせいで、そんな遠いところに行かなくちゃいけなくなった」
「…………」
「僕がいなければ、轢はこのままずっとここに居られて」
「…………」
「誰にも追われることなんてなくって」
 次第に俯いていくAzure。肩が細かく震えていた。
「怪我もしないで済んだのに……」
「Azure」
 轢は強い調子で彼の名を呼んだ。
「俺は」
 拳をぎゅっと握り締め、轢は言う。
「俺は……」
 
 ――バサバサ……!!

 ハトが羽ばたいた。一斉に空を目指して飛び立ち、灰色の中に見る見る溶け込んでいく。
「俺は……」
 轢は茫然とその群れを見つめていた。
 ハトは、飛んだ。彼らは翼を持っているのだから――どこへだって行ける。
 Azureの青い眼は涙を湛えている。手を伸ばして彼の金髪に触れると、びくりと体を震わせた。柔らかな髪をそのままくしゃくしゃにかき乱す。
「俺は、ぶどう園が見たい」
「え?」
 Azureがきょとんと彼を見返す。その拍子に、涙がひとつぶ――零れ落ちた。
 轢は空を仰ぎ、ハトの群れを見つめる。
「こんな廃墟みたいな街より……、緑に囲まれた農園に行きたい」
 マオが言っていた。向こうには「空」があるのだと。ここのような灰色の空ではなくて、ちゃんと「空色」の空があるのだと。
 
 きっとその場所こそ――俺たちが生きるにふさわしい場所だろう。

「俺たちは、どこへだって行ける」
 轢はつぶやいた。
「どこでだって生きていける」
 轢はAzureを見つめた。
「一緒に来るだろう?」
「……いいの?」
「来たくないのか?」
 Azureは首を左右に振った。
「……いきたい」

 行きたい。

 生きたい。

 轢は微笑んだ。
「じゃあ、いこう」

 信じていた。
 この灰色の空の向こうに、未来(あす)があることを。
 まるで祈るような心地で、
 信じていた。
 

 この街で過ごす最後の夜。轢は部屋中のものを集め、鞄に詰めていた。大きな家具はマオに処分を頼んでいる。もっと大きくなるかと思った荷物だが、大きなボストンバッグふたつで十分だった。
「荷物……こんだけか? 少ないなあ」
 轢はつぶやくが、やがて思い直してうなずく。
「まあ、元々Azureなんて何にも持ってなかったんだもんな。俺も身軽な方が好きなたちだから、私物ってあんまり持ってないし……」
 轢はふと気付いて辺りを見回した。Azureがいない。
「あいつ、俺にばっかり荷造りさせて……何やってんだ?」
 首をひねりながら――ふと気付く。部屋に漂う食欲を刺激する匂い。これはまさか……。
「おい、Azure!」
 壁の向こうから返事が届いた。
「なに?」
「……お前、何やってんだ?」
 返答の予測はついているが、敢えて尋ねてみる。
「何って……夕飯作ってるんだよ。轢、片づけで忙しそうだったし」
 ――やはり。轢はごくりと唾を飲んだ。
「気持ちは嬉しいが……味に、自信はあるんだろうな……?」
「大丈夫、轢に教えてもらったとおりにやったから」
 自信満々な様子のAzure。轢はテーブルの置かれた部屋へと向かった。既にAzureが皿を並べている。皿に盛られているのはポトフとガーリックトースト。とりあえず、匂いに特に問題はなく、見た目も悪くはなかった。轢は注意深く観察し、ひとまずほっと安堵する。
「今のところは合格だな」
「荷物の片付けは終わった?」
「ああ、ほとんどな。とりあえず、メシにしようぜ」
 この席に着くのも今夜が最後だ。轢は感慨深げに部屋を見回す。
「いただきまーす」
 Azureにわずかに遅れ、轢もまた手をあわせた。
「いただきます」
 湯気を立てるポトフを、おそるおそる一口。ほっこりとじゃがいもがくずれた。
「あ。うまい」
「ほんと?」
 轢はトーストをかじった。さっくりとした食感、ガーリックが香ばしい。
「お前、これはすごい進歩だぞ。犬が二本足で立ってバク宙するくらいすごい」
「バクチュウ……?」
 不思議がるAzureを、轢は口いっぱいに頬張ったまま促した。
「ほら、Azureも見てないで食えよ。あったかいうちの方がうまいぞ」
「うん!」
 轢に褒められたのがよほど嬉しかったのか、満面の笑みを浮かべて食事をするAzure。ふと、轢の胸がざわついた。そういえば、Azureがひとりで料理をしたのは初めてのことだ。何故突然そんなことをしようと思ったのだろう……。

 ――Azureは予感していたのかもしれない。
 
 自分の身に振りかかる、運命を。