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 かなりの距離を走った後、彼らはとある廃ビルの軒先で足を止めた。雨はいっそう強く降り続いている。轢は辺りを注意深く見回すが、誰かがあとを尾けて来ているような気配はない。ほっと息をつき、髪をぬぐった。
「びしょびしょに濡れちまったな」
 轢は眉をひそめる。既に体の芯まで冷え切っていた。
「どうしようかな。さすがに服は持ち出せなかったし……着替え買わねえと」
 同じくひどく濡れているAzureを見遣り、付け加える。
「それから、お前用の変装道具もな」
 Azureの眼は人目につきすぎる。そう思った。彼を探す追っ手から逃げるのなら、それくらいの準備は必要だろう。その鮮やかな瞳を曇らせて、Azureはうつむく。
「……ごめんね」
「あ?」
「僕、轢に迷惑かけて……」
「何言ってんだよ」
 軽く受け流すが、Azureの顔は冴えない。
「…………」
 言葉に困った轢は、体を硬くして立ち尽くすAzureの手を無理やり引っ張り、再び雨の中を歩き始めた。
「轢?」
「困ったときは下町の有名人に頼るのが一番なんだよ」
「ユウメイ……?」
「この辺のやつらに仕事の斡旋してるやつでさ。顔も広いし、あそこだったら服だけじゃなくていろんなものが調達できるし……住む場所も探さなきゃなんねーし、足の着かない仕事も欲しいし。いろいろ便利な奴なんだ」
「ふうん?」
 怪訝な顔をしながらも素直についてくるAzureを連れ、路地を何度も曲がる。周りを用心深く確認してから滑り込んだのは、一見下町にはよくある普通の雑貨店だった。
「いらっしゃい」
 二人を出迎えたのはこの店の主人、マオ。詰襟の服を着て丸い眼鏡をかけた、年齢不詳の男だ。長い黒髪を三つ編みにして背中に垂らしている。轢の顔を見ると、親しげに声を掛けてきた。
「久々だな、轢。例の仕事はうまく片付けたか?」
「それどころじゃねえんだよ」
 轢はドアを後ろ手に閉め、
「タオルタオル、あととにかく着替えくれ」
 くしゃみを堪えて早口にそう言った。
「雨の中を走ってきたのか? 馬鹿だなあ」
 ため息と共に投げられたタオルで体を拭きながら、轢は言い訳がましく口を開く。
「変なのに追われてんだよ」
「変なの?」
 マオは轢の言葉を繰り返してから、ふと気付いたようにAzureに視線を固定した。その瞳の色に、マオは轢と同様の衝撃を受けたらしい。軽く咳払いをして、轢に尋ねた。
「その……男は?」
「あー、道端に倒れていたのを俺が拾ったんだけどさ」
 轢は曖昧に答える。
「うん」
「名前以外の記憶がないんだって」
「……追われているのは彼なのか?」
「まあ、どうやらそうらしい」
「で、お前まで逃げてきたのは何故だ?」
「いや、なんかほっとけなかったし……」
 タオルに髪を包み、天井を仰ぐ轢。その答えを聞き、マオは苦笑した。
「轢はお人好しだからなあ……」
「ところで、さ」
 轢は顔をひきしめ、居住まいを正す。
「ちょっと今の家には戻れそうにないんだ。どこか紹介してくれないか?」
「ストックなら何部屋かあるが、金はあるのか? 貸してやってもいいぞ。もちろん後で取り立てるが」
「金は持ち出してきた……っていうか、こいつが持ってる」
 実際のところ、ひとまずはAzureの持っていた金をあてにするしかない。マオは軽く顎をつまんだ。
「あまり一ヶ所にとどまっていない方が良いと思う。どうせなら安宿を点々としたほうが安全かもな」
「そうだなあ。しつこくない奴らだといいんだけど」
 Azureは二人の会話を聞いているのか聞いていないのか、店の中をきょろきょろと見まわしている。店に積み上げられているのはごく普通の雑貨類だった。一般の客に見られてまずいようなものは表に出していないのだ。
「時々様子見に来させてくれよな。やつらの情報も欲しいし」
 轢の言葉に、マオは頷く。
「俺も気にしておくよ。何か金になる事件が裏にあるのかもしれないからな」
 轢はそのマオらしい言葉に苦笑した。
「で、服をくれよ」
「分かった。彼の分もだな?」
「頼むよ。サイズは適当でいい」
「そうだな。ちょっと待ってろ」
 マオは頷き、その辺りからシャツとジーンズ、上着を取り出して台の上に置く。その横に、傘。
「あと、これも」
 何か言おうと口を開けた轢の目の前にマオが並べたのは、濃い色のサングラスと厚いニット帽だった。
「…………」
 轢が視線で問うと、マオは頷いてみせる。
「目立つだろう?」
 と丸眼鏡の奥の自分の眼と髪を指差し、続いてAzureに視線を投げた。
「彼の名前は?」
 答えたのは轢ではなかった。
「Azure」
 名乗って微笑むAzureに、マオは頷く。
「Azure、か。……いい名前だ」
「いくら払えばいい?」
「そうだな……」
 マオの言う金額を聞き、轢はAzureに声を掛ける。
「悪いけど、お前のアレ。ちょっとだけ使っていいかな」
「アレ?」
「ほら、さっき見せてくれたやつだよ」
「ああ……タイキン?」
「そう。それ」
「いいよ。あげる」
「いや、そんな全部要らないから」
 Azureが無造作に取り出した札束の中から、轢は一枚抜き出した。
「釣りはちゃんとくれよな?」
「おい、何だそれは?!」
 マオは轢の差し出す紙幣には見向きもせず、Azureの手の中の札束を眼を見張って見つめている。
「Azureが持ってたんだよ。……あ、別に盗んできたわけじゃないって。誤解すんなよ」
「お前はともかく、Azureは記憶がないんだろう?」
「まあ、そうなんだけどさ……」
 マオが横目で窺うと、Azureは澄んだ眼で轢を見ていた。親に頼りきる子供のように寄る辺なく、それでいて安心しきった瞳。轢に対する信頼の現われだろうか。この分なら、Azureが轢に害をなすことはきっとないだろう。それでも、マオは警告せずにはいられなかった。
「人を信じるのも大概にして置けよ。……今更かもしれんが」
「そうだな」
 轢は軽く頷いて紙袋に服を詰め、Azureの肩を叩いた。
「行くぞ、Azure」
「うん」
 Azureは轢に従って歩き出す。
「おい」
 その背後から、マオは声を掛けた。
「もし俺が追っ手にお前らの居場所を売ったら、どうするんだ?」
「…………」
 轢は黙って振り返る。そして、穏やかな微笑を浮かべた。
「うん。仕方ないよな。お前も生きていかなきゃならないんだし」
「…………」
 絶句したマオをよそに、轢は淡々と続ける。
「そんなことになったら多分恨むと思うけど……でも、それはどうしようもないことだから。俺は今のところお前を信じてる。もしお前が裏切ったとしても、それはお前を信じた俺の責任だよ」
 朗らかな轢の表情をじっと見ていたマオは、やがて苦笑いを浮かべた。
「そうか。……せいぜい、お前の信頼を裏切らないようにするよ」
「おう、頼りにしてるぜ」
 マオはゆるく腕を組み、彼の背中を見送った。ため息とともにつぶやく。
「轢には勝てないな」
 古い顔馴染みの中でも、一番気を許せる相手。彼はこの下町に生きながら、決して汚れきってしまうことのない魂の持ち主だ。
 しかし、あの青年は一体何なんだろう……? 胸騒ぎがする。長くこの下町をそれなりに仕切ってきて培われた、勘。今度ばかりはそれも外れて欲しい。マオはそう願った。