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終章

 秋の夜空に虫の音が響いている。燐は縁に腰掛け、ゆったりと足を組んだ。風が、彼の髪を揺らしている。
「こんな夜は……良く、紫苑と酒を呑んだものだったけど」
 少し寂しげに微笑み、空を見上げた。
「ちゃんと、桔梗ちゃんと一緒にいるのかな……」
 都に戻った昴らから顛末を聞いた燐は驚愕し、憤り、悲しんだ。今でも癸の死が信じられない。それでも、紫苑らの決断は尊重しようと思ったし、受け入れなければならないと思った。彼らを失った寂しさは、きっと癒されることなどないだろうけれど。
 どうか、わかって欲しい。紫苑は自分のかけがえのない友人だったのだということ。大切に想っていたということ。そして――今もこんなに、彼のしあわせを祈っているということ。
「会いたいな」
 それはふと、燐の口から零れ落ちた本音。紫苑に会いたい。会って、近況を語り合いたい。桔梗や壬は元気なのか、聞きたい。そして伝えたい。自分は健やかに過ごしているということ。日向は彼の弟子ではなく、今や妻だということ。昴と透流は、相変わらず橘邸の離れで過ごしているということ。加乃は蓮の屋敷に身を寄せ、癸を弔っているということ。
「元気そうだな」
 こんな夕べには、そんなことを言いながら今にもふらりと紫苑が訪れて来そうな――。
「えっ?」
 燐ははっと顔を上げた。そこで微笑んでいるのは、見覚えのある紫の瞳。
「し、紫苑?!」
「やあ、久しぶりだな」
「久しぶりだな、じゃないよ! どうしてこんなところに君が」
 詰め寄る燐に、紫苑は憎たらしいほど悠然と相対した。
「今日から神有月になっただろう? 世界の距離が少し近付いたのでな」
「え?」
 燐は呆気に取られて目を瞬かせた。
「神有月?」
「以前昴が言っていたではないか。神有月――神無月には『封印』が緩むと。つまり、ふだんは離れている世界同士の距離が近付く……ということだろう?」
「ああ、そんなことも……」
 燐はつぶやき掛けて、はっと息を呑む。
「ちょっと待って。ひともあやかしも、世界を渡ることなんてできないだろ? そんなことができるのは神だけ……」
「……神、というのもどうかとは思うがな」
 紫苑は少しはにかむように微笑んだ。
「陰陽道を使えるものには、ひとと交わった神の血が色濃く現れている。そしてあやかしとは神々の子孫。私はその両者の血を引く存在――つまり神に近いといえる、らしい」
 夢の世界で父が最後に告げたのは、多分このことだったのだろう。紫苑はそう思った。
「じゃ、じゃあ」
 燐が目を見開く。
「君は神々に列するということなのかい?」
「というよりも、やはり私はひととあやかしの狭間の存在なのだ。神有月に差しかかった途端、私はあやかしの世界を離れ、こちらに飛ばされてしまった」
「そうなの?」
「ああ。とりあえず、お前を探してここに来たのだが……」
 頬を掻く紫苑に、燐は相好を崩した。
「来てくれて嬉しいよ」
「私もお前に再び会えて嬉しい。それから……」
 紫苑はふと真顔に戻り、燐を見つめた。
「勝手なことをして、すまなかったな」
 紫苑が何のことを言っているのかを察し、燐は首を横に振った。
「……いいんだよ。確かに、これ以上の命が失われないために必要な決断だったんだ。君こそ、つらかっただろう?」
「しかし、朔が……」
「…………」
 燐は寂しげに視線を落とした。
「それは……仕方がない。死んだものを生き返らせることは、誰にもできないんだ」
「…………」
「でもね――今、日向のお腹の中には僕の子供がいるんだ」
「え?!」
 紫苑は目を剥いた。
「お、お前らいつの間に」
「まあ、いろいろあったんだよ」
 燐はあやふやに言葉を濁し、微笑む。
「……日向が言うんだ。きっと、この子供は朔の生まれ変わりなんだって。そんな気がするって」
「……そうか」
 紫苑もまた、微笑んだ。日向がそう思い、燐が信じるのなら、きっとその通りなのだろう。――朔は約束を守ったのだ。奇跡は、きっと起こる。
「ところで、紫苑」
「何だ?」
「今頃、あっちにいる桔梗ちゃんは驚いているんじゃないかい?」
「ああ、そうだな。一応予想はしていたから、それとなく話はしておいたのだが……。多分、私は向こうの世界から突然消えてしまったのだろうし」
 紫苑は困ったように頭を掻いた。
「帰ったら謝っておこう」
「……それで済むのかなあ」
「大丈夫だ」
 紫苑は頷いた。
「約束したからな。ともに生きようと」
「そう……」
 燐は微笑みを浮かべる。ともに生きる――短いその言葉に込められた強い願いを、深い祈りを、彼は知っている。
「それならいいけれど……。とりあえず、ひとつきはここにいるんだね?」
「ああ。それで、すまないのだが……」
「うちにいればいいよ」
 燐は紫苑が最後まで言うよりも先に言った。
「日向も――それに昴さんや透流くんもきっと喜ぶ。加乃ちゃんと蓮くんも、会いに来るかもしれないし」
「そうか」
 懐かしい名前を聞いて、紫苑は目を細める。
「桔梗らへのいい土産話になるな」
「僕も、桔梗ちゃんたちの話が聞きたいよ」
 燐は立ち上がり、紫苑を伴って歩き始めた。
「みんな、元気にしているの?」
「ああ、元気にしている。壬も良く遊びに来るし――夜雲も頑張っている」
 紫苑はふと足を止め、宙を見上げた。高く澄み切った天と、闇に煌く星々。しらじらとした月の光が、都を照らしていた。
 紫苑はつぶやく。
「空は、どちらも同じなのだな……」
 その紫の瞳に映る世界は、ともに美しい。
 
 
 ――寄りそうふたつの世界は、今日も歴史を刻んでいる。