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永訣の巻 第四章

  一

 夜明け前。城内につめかけたあやかしたちは松明を灯し、夜雲を待っていた。彼が号令をかけさえすれば、土壁を壊してひとの軍に攻撃をかけるつもりでいる。いや、むしろ何故早くそう命じないのかと不満がくすぶっていた。痺れを切らした彼らが部屋にこもりきりの夜雲に直談判しようかと考え始めたとき――夜雲がふらりと姿をみせた。
「夜雲さま!」
 さざなみのように広がる声、声、声。
「今こそ真雪さまの仇を」
「憎き人間どもを滅ぼすとき」
「さあ!」
「いざ!」
 夜雲がさっと右手を上げると、辺りは水を打ったように静まり返った。皆が手に持つ松明に照らされ、夜雲の巨大な影がゆらゆらと壁に映っている。
「まだ、その時ではない」
 夜雲の声は落ち着いてはいたが、夜闇を良く通った。
「早まって命を無駄にするな」
 静寂は、すぐに怒号に取って替わられた。
「真雪さまの死を無駄になさるおつもりか!」
「怖気づかれたのか、情けない」
「今すぐ仇を!」
「仇を!!」
 高まる声を、夜雲は一喝した。
「黙れ!!」
 再び、沈黙。夜雲は大きく肩で息をついた。
「真雪の仇……か」
 その唇が、まるで泣き笑いのように奇妙に歪んだ。
「真雪の死に立ち会ったものなら知っているだろう。彼女が望んでいたのは、決して戦ではない。俺が引き込んだから、あいつは戦に巻き込まれたのだ」
「…………」
 夜雲は黙り込んだ群集を睨む。その目は赤く血走っていた。
「それなら、あいつの仇は俺だ。真雪の仇を討ちたいのなら、俺を討て!!」
「……夜雲さまが直接手を下したわけでもありますまいに」
 反論する声に、夜雲は向き直る。
「では、何故俺たちはひとを滅ぼそうとしている? ひと全員が直接俺たちに害を為したわけではない。ほんのひとにぎりの陰陽師たち――しかも命じてきたのは代々の帝で、ほとんどがもう亡くなっているではないか。どこまで遡る? 仇など、どこにいるのだ。俺たちは今まで一体、誰を殺してきたのだ」
 彼の気迫に飲まれてしまったかのように、もはや誰も答えることはなかった。
「俺たちが殺した幼子に何の罪があったか。ひとり残らず殺すことに、どれほどの意味があったのだ。俺たちはただ、憎しみをぶつけていただけ――いわれなきものに鬱憤を晴らしてきただけだ」
 一息に言った夜雲は、やがて肩を落とす。
「こんなことに、今更気付くとはな……」
 ――遅すぎた。何もかもが、遅かった。真雪はもう、いない。あり得たかもしれない平和な未来は、もうどこにもない……。
「……それでは」
 誰かが恐る恐るといった調子で夜雲に呼びかけた。
「夜雲さまは、これからどうなさるおつもりなのか。私たちをここまで導いてきたのは、貴方であろう」
「……わかっている」
 夜雲は夜の向こうに聳える土壁と、それを作り出した術者を想った。
「私はもう、お前たちのうちひとりの命も失わせない。そのためだけに、私は生きよう」
 これ以上誰の涙も流れぬように、微笑みが失われぬように。そのためだけに、生きていこう。――真雪のいない世界を、生きていこう。それがもし、癸への……壬への償いになるのなら。数え切れぬほど殺めた人間たちへの、せめてもの償いになるのなら。
「夜明けを待て。必ず、使者が来る」
 その夜雲の言葉に、もはや表立って異議を唱えるものはいなかった。もちろん、皆が夜雲の言葉に納得したわけではないだろう。特に白蛇族は、真雪の死に強く悲憤しているに違いない。それでも、どれほど夜雲が憔悴していたとしても、今ここにいる四天王の族長の直系はもはや彼のみ。その威厳は、決して失われてはいなかった。

  二

 桔梗ははっと目を覚まし、飛び起きた。辺りは明るく、夜通し降り続いた雨は上がったらしい。頭がひどく重かった。彼女の隣にはまだ温もりが残っているが、紫苑の姿はどこにもない。桔梗は寝床を這い出し、身支度を整えた。──昨晩のことは全部夢だったようにも思える。しあわせで、切なくて、愛しくて、悲しい夢……。
「桔梗」
 紫苑の声に、桔梗は振り返った。
「おはよう」
 そう言う紫苑はいつも通りで、桔梗はほっと息をつく。
「……おはようございます」
「支度はすんだか?」
「はい」
 彼女の手を取って立たせると、紫苑は彼女の額にそっと唇をあてた。
「なら、行こうか」
「行く……って、どこにですか?」
 目を瞬かせる桔梗に、紫苑は告げる。
「皆のところさ」

 桔梗が彼に連れられて向かった先には、確かに皆がいた。昴、透流、朔、蓮、そして──。
「壬……」
 桔梗が小さな声で名をつぶやくと、彼は軽く手を挙げて答えてみせた。やつれてはいるし、表情は固い。それでも壬は壬だ。桔梗は涙がこみ上げるのを感じ、慌ててまばたきを繰り返した。
「ようやく起きたのね、寝ぼすけさん」
 昴を軽くひとにらみして、それでも彼女の言葉に桔梗は救われた。壬が少しだけ笑ったことにも、桔梗は気付いていた。
「さて、話を始めようか」
 紫苑が口を切り、辺りに緊張が走った。
「何の話?」
 尋ねる昴とて、想像はついているのだろう。先ほどまでとは違う、険しい顔をしていた。
 紫苑はゆっくりと辺りを見回す。その視線はひどく優しく──まるで全員の顔を記憶に焼き付けようとでも言うような、そんな眼差しだった。
「誰もが願っていることだ──戦は、終わらせねばならない」
「そりゃあそうだ」
 壬がつぶやく。
「でも、どうやって……」
 続けたのは蓮。ふたりそれぞれに、紫苑はうなずいた。
「方法は、ある」
 桔梗は胸騒ぎをおぼえ、紫苑の袖を強く掴んだ。そうしなければ紫苑が離れていってしまうようで、怖かった。
 紫苑の指先が、桔梗の手に触れた。

「世界を、ふたつに分かつ」

 その場にいる全員が、思わず息をのんだ。いや、ただひとり朔だけは落ち着いて紫苑を見つめている。そのことに桔梗は気付き、あっと思った。昨日紫苑が朔と話した内容は、これだったのかと――。
「どういうこと?!」
 最初に声をあげたのは、昴だった。
「世界を分けるって、一体……」
「昴さんはご存知でしょう。神々が世界を渡る力を持っていること」
 答えたのは、朔だった。
「世界は本来ひとつではない。まるで薄紙を重ねたように、たくさんの世界が存在している――我々がいるのはそのうちのひとつに過ぎなくて、たとえば神々はそこを行き渡ることができる」
 死者の棲む世界、精霊の眠る世界、そういった世界が幾重にも連なっているのだと、朔はそう言った。
 その後を引き取り、紫苑は言う。
「本来ひととあやかしが住まう世界は、別になるはずだったのではないか――同じ世界にいるから、争いが絶えなくなる。私は、そう思った」
「そんな……」
 桔梗は唇を噛んだ。そう考えるということは、ひととあやかしの交わりを否定するのと同じ――紫苑の存在を、朔の存在を否定することと同じだ。それはひどく辛い。いや、本当は本人たちが一番辛いのだろう。だが、ふたりは静かな表情を崩さない。
「『封印』を解けば、神々の力が流れ込む。それを使って、この世界をふたつに裂く。ひとの世と、あやかしの世と。そうすればもはや戦は起きまい」
 どこか疲れたような声で、紫苑は淡々と言う。
「じゃあ……もしそうなったら」
 透流がぽつりと言った。
「おれはもう、桔梗さんや壬さんには逢えなくなるんですね……」
「そういうことになるな」
「……紫苑は?」
 桔梗ははっと顔をあげた。
「紫苑は、どうなるんですか? それに朔くんも」
「私たちのことは案ずるな。大丈夫だ」
「そんなっ……」
 紫苑は桔梗と目を合わせない。桔梗は焦った。こういうときは大抵紫苑は嘘をついている。彼は嘘が下手なのだ、彼女はそれを良く知っている……。桔梗がさらに追求しようとしたとき、別の者が声をあげた。
「俺は、賛成だ」
 ――壬。桔梗は思わず口を閉ざす。壬は壁に背中を預け、腕を組んで床に目を落としていた。
「歴史が重過ぎる。流された血が多過ぎるんだ。誰もが何か、相手に恨みを抱えている。このままじゃ永遠に殺しあうしかない――それこそどちらかが滅びるまで、な」
「……ああ」
 紫苑はうなずく。
「私もそう思う。ここで一度、やり直さなければならない。ひととあやかしは、やり直すべきなんだ」
「やり直す……?」
 尋ねる昴に、紫苑はうなずいた。
「そうだ。世界が分かたれても、永遠の別れにはならない。ふたつの世界は寄り添っているのだから、何かの拍子に交わることもあるだろう。神無月に神々が社を離れ、神有月の出雲に集うように――世界は決して固定されているものではない」
 憎しみが薄らぎ、悲しみを忘れた頃――それがいつになるかはわからないが、いつか再び両者があいまみえたとき、その時こそわかりあえるかもしれない。ともに生きることができるかもしれない。その望みを決して捨ててはいないのだと、紫苑は言う。
「私は思うのだ。神々はこの決断のために、四聖獣を遺していったのだろうと」
 いつか、ひととあやかしがこれ以上前に進めなくなったときのために。神々のいないこの世界を、変革するために――それは昴を通して玄武が残した言葉。
「大丈夫。上手くいきますよ」
 重く沈む空気の中、朔は明るく微笑んだ。それは何もかもを超越して未来だけを見つめているような、そんな微笑だった。
「案外早くに再会できるかもしれないし……。お互いに、少し頭を冷やすだけですから」
「でも!」
 桔梗は声をあげた。相変わらず視線を逸らしたままでいる紫苑を見上げ、叫ぶ。
「紫苑は?! 紫苑はひとでもあるしあやかしでもある。世界をふたつに分けるのなら、どちらに入るんですか。ちゃんと、どちらかに入れるんですか。朔くんも、本当に大丈夫なんですか?!」
「……桔梗」
「ねえ、本当はどうなんですか。本当は、もしかして……!」
「――桔梗」
 紫苑の強い声に、彼女ははと口をつぐんだ。紫苑の強い眼差しが、彼女を真っ直ぐに見つめている。その暖かな紫の中に、自分の泣き顔が映っていた。
「私は、必ず約束を果たす。どんなことがあっても、必ずお前の元に戻る」
「……しおん、」
「僕もです」
 朔も言う。
「僕も、父さんに戻るって言ったから――その約束は守ります」
「…………」
「約束だ」
 紫苑は桔梗の手をとり、小指を結んだ。
「必ず、お前の元に――」
 透流の胸で、昴が泣いている。壬の表情はうつむているせいで見えない――だが、桔梗にももうわかっていた。これしかないのだ。たとえ家族が離れ離れになるとしても、この方法しかない。真雪のような、癸のような、そんな悲しい別れをこれ以上増やさないために――今、別れが必要なのだと。