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永訣の巻 第六章

  一

「そ、それはまことか」
 ひととあやかしとの世界を分かつことができると聞き、正年は驚いた。それと同時に、言い知れぬ安堵が彼を包む。両者が交わることがなければ、戦は起きない。誰も、死ぬことはない……。
 その話をもたらした蓮は、重々しく頷いた。
「御門どのがおっしゃったのです。確かなことでしょう」
 思えば、彼が己の言葉を違えたことはない。彼が調伏すると言ったもののけは確実に調伏されたし、祓うと約束した霊は必ず姿を消した。多くを語らず、淡々と、彼は都を守り続けてきた。矛盾するようではあるが、都びとの内には半妖である彼に対する反感とは別に、無言の信頼もまた同時にあったように思われる。
「世界を分かつ――か。それは良い解決策だ」
 正年は微笑んだ。
「それが可能なら、戦は必要ないな」
「……はい」
 蓮が浮かぬ顔をしているのが少し気に掛かったが、正年は敢えてその理由を尋ねようとはしなかった。こころが浮き足立って、それどころではない。戦が終われば、都に帰ることができるのだ。それが何より待ち遠しい。
「皆がそれを受け入れるのなら、狼煙(のろし)をあげて欲しいとのことでした」
「わかった」
 正年は頷き、辺りの者を呼んで用意をさせる。
「皆の意見を聞かなくても良いのですか?」
 尋ねる蓮を、正年は不思議そうに見つめた。
「その話に、誰が反対するというのだ?」
「…………」
 蓮は口ごもり、目を伏せる。――確かにその通りだ。何度も戦を交えてきた両者の道を分かつことができれば、これ以上誰も命を落とすことなく平和が訪れる。客観的に見て、最も理想的な解決方法だ。それならば何故、蓮のこころは重いのか……。
「そうか」
 蓮はぽつりとつぶやいた。正年には聞こえていない。
「僕はまた、兄を喪ってしまうから……」
 最初は雅哉を。次に癸を。そして、今度は壬を。都で待つ加乃に、何と言えばいいのだろう。家族を失って、彼女がどれほど悲しむだろう。
「狼煙を上げろ!」
 正年の掛け声と同時に、煙が空へと舞い上がる。蓮はそれを見上げ、目を細めた。そうしなければ、涙が零れ落ちてしまいそうだった。
「……兄さん」
 自分が誰を呼んだのか、蓮には良くわからない。ただどうしようもなく、悲しかった。

  二

 ひと側からも、あやかし側からも、狼煙が上がった。それを見上げた紫苑は、ふう、と息をつく。――これで戦は終わる。もう誰も死なずに済む。自分がもう少し早く提案していたら、真雪も癸も命を落とさなかったかもしれない……。
「紫苑さん」
 隣に歩み寄った朔が、小声で囁いた。
「本当に、いいのですか」
「……それはこちらの台詞だ」
 紫苑もまた、声を低める。それはこの場にいない桔梗にも、また近くにいる昴や透流らにも、決して聞かれてはならない話だった。
「お前は燐に約束しただろう。必ず、帰ると。本当に果たせるのか?」
「…………」
 朔は少し口ごもり、やがて弱々しく微笑んだ。
「ええ、そのつもりです。でも……この体では、帰れない」
 この体も生命も、白虎によって与えられたかりそめのものだ。役目が終われば、自分は元の死の世界に帰らなければならない。そんなことは、最初から分かっていた。そもそも、母と共に死んだ自分は父に会うことなどできないはずだったのだ。それなのに一年以上もの間、父と共に過ごせた。これ以上を望むなど、許されることではない。
「僕はもう、十分にしあわせですから」
「…………」
 紫苑は顔を歪め、朔の肩を強く抱き寄せた。こんなにも小さな体で、彼は自分の運命を受け入れようとしている。そのけなげなさまが痛ましく、かなしくてならなかった。
「必ず、帰れよ」
「はい」
 朔は頷き、そして紫苑を見上げた。その表情は、険しい。
「貴方は、どうするんですか」
「……私?」
「そうです。あのとき、嘘をついたでしょう」
 紫苑は目を逸らした。しかし、朔は追求の手を緩めない。
「ひととあやかしの世界を分かてば、その狭間にある貴方の存在は一体どうなるのか――僕にはわからないし、白虎もその答えは返してくれませんでした。貴方が無事で済む保証は、どこにもないのですよ」
「わかっている」
「もし無事でも、貴方がひとの世界に留められれば……桔梗さんとは二度と会えない」
「それも、わかっている」
 紫苑はつぶやいた。
「それでも――このままではいけないと、そう思ったのだ」
「……癸さんのことがあったからですか」
「家族だったからな」
 不意に強い風が吹き、紫苑の髪を乱した。
「あいつだけじゃない。桔梗も、壬も、昴も、透流も――もちろんお前も、都にいる燐たちも、みんな。私の家族だ。私には決して得られないと思っていた、かけがえのない存在……」
 朔は黙って、その大きな琥珀の瞳に彼を映している。
「だから、守りたい。どんな手段を使っても、たとえ自分の身を犠牲にすることになっても、それでも――守りたいんだ。もう、誰も失いたくはない」
「でも、僕たちはそんなこと望んでいません。僕たちだって貴方を失いたくはない」
「ああ。私の勝手な望みだからな」
 紫苑が微笑む。その透き通るような純粋な表情に、朔は小さく息を飲んだ。
「わかっている。本当のことを知ったらきっと桔梗は怒るだろうし、私を止めるだろう。後で悲しませるかもしれないということもな。それでも――私は望まずにはいられないのだ。争いのない、ひととあやかしとが殺し合うことのない世界を」
「…………」
「それにな、朔」
 紫苑はそらを見上げた。立ち上っていた煙は、既に溶け込んで跡形もない。
「私は何も諦めているわけではない。私だって死にたくはないし、桔梗と離れたくもない。どうにかするさ」
「どうにかって……」
「お前の『約束』だって、似たようなものではないのか?」
 言い返され、朔は言葉に詰まった。紫苑はただ、穏やかに笑っている。
「私は、お前の約束が叶うと信じているよ。運命など、信じはしないがな」
「紫苑さん……」
「私はいつだって、己の望むように生きてきた」
 運命など、関係ない。どれほど苛酷な運命が彼を翻弄しようとも、それにただ流されるような生き方は選ばなかった。悩み、苦しみながらも、彼はいつだって己を貫いて生きてきたつもりだ。己の信じるものに従い、守りたいものを守り、願いを叶えるべく力を尽くしてきた。
「だから、最後まで――私はそれを貫くよ」
「…………」
 ――どうしてこのひとはこんなに優しく、強く微笑めるのだろう。朔は強く拳を握った。このひとの願いに、応えたい。
「わかりました」
 紫苑には聞こえぬように、口の中でつぶやく。
「僕は決して――貴方を死なせはしない」
 どんなことがあっても、必ず彼を生かしてみせる。――どんなことがあっても。

  三

 その夜、燐は妙な胸騒ぎを感じて眠ることができなかった。隣で眠る日向を起こさぬように気を遣いながら、何度となく寝返りを打つ。いい加減眠るのを諦めようかと思い始めた頃、日向がもぞもぞと動いた。
「りん……?」
 ぼんやりとした声で名を呼ばれ、燐は慌てた。
「ごめん、起こした? 寝ていていいよ」
「ん……、りんは……?」
「すぐに寝るよ」
「……眠れないんですか?」
 相変わらず、妙なところで鋭い。燐は苦笑した。
「何となく、寝苦しくてね」
「朔くんのことが、心配だから?」
 もう寝ぼけてはいないのか、彼女の声ははっきりとしている。燐は体を起こした。今宵は満月。帳の隙間からもれさす光で、日向の顔が良く見える。燐は指の腹でそっと彼女の頬をなでた。
「ううん――朔のことだけじゃないよ」
 紫苑のことも、桔梗のことも、壬のことも、癸のことも、昴のことも、透流のことも――そして蓮のことも、心配だ。皆は無事だろうか、辛い想いをしていないだろうか。
「何もできない自分が、歯がゆくなるんだ」
 ぽつり、とつぶやく。
「いつだって僕は、手をこまねいて見ているだけで――みんな、戦っているのに」
「…………」
「待っていることしかできないんだ……」
 月の光に、手を伸ばす。もちろん捕まえられるはずもない。
「僕にも、何か力があればいいのに」
 力なく下ろそうとした手を、体を起こした日向の手が捉えた。指を絡め、強く握り締める。
「燐は、無力なんかじゃない」
「ひなた……?」
「燐は、守っている」
 彼女は微笑んでいる。ほのかな光の中で、きらきらと輝く瞳――燐はぼうっと彼女に見とれていた。
「皆の帰って来る場所を、守っている」
 御門邸と橘邸は、共に楽しい日々を過ごした在りし日の象徴。皆はここを目指して、帰って来るのだ。
「確かにおれ――わたしも、何もできない。戦えない。それでも」
 日向は燐を抱きしめた。
「待つことしかできなくても――もし誰も待っていてくれなかったら、帰って来ても寂しいじゃないですか。わたしたちが待っていなかったら、誰が皆におかえりって言うんですか」
 彼女の言葉を聞きながら、燐は泣いていた。声を殺し、歯を食いしばって泣いていた。日向の手が、彼の背中を優しくなでる。
「だから、待っていましょう。一緒に、信じて――待っていましょう」
「……ひなた」
 燐は彼女に取りすがり、泣いた。怖かった。朔は本当に帰ってくるのか、紫苑は無事なのか――待ち続けるのは、辛い。それでも日向は待つという。彼らの帰るべき場所を守るために。「おかえり」と、その一言を告げるために。その強さを、燐は愛した。
「……紫苑」
 無愛想で、不器用で、それでいて誰よりも優しくて情の深い旧友を想い、燐はつぶやいた。
「僕は……待っているよ」
 君が帰ってくるまで――この命が尽きるまで――待っている。