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永訣の巻 第八章

  一
  
 透流が都を離れてから、燐は日向とともに庭に水撒きをするのを日課としていた。春が深まってくるにつれ芽を吹く草木に目を細めつつ、今は遠くにある友らを思う。何もできない自分への歯がゆさを押し殺すように、燐はゆっくりと手桶から柄杓で水を汲んだ。若葉の上ではじける水滴がまばゆい。顔を上げると、日向もまた柄杓を手にしていた。細い腕が翻ると、ぱっと光が散る。無色透明な水のきらめきに虹色の輝きが宿って、綺麗だった。
「ひな――」
 彼女の名前を呼ぼうとして、不意に燐は言葉を切った。周囲に何か気配を感じる。敵意に満ちたものではない。むしろ、ひどく懐かしく、慣れ親しだもののような気がした。何だろうかと辺りを見回すが、何も見当たらない。
「燐?」
 日向も気付いたのか、彼を見て小首を傾げた。燐は彼女の側に駆け寄り、空を仰ぐ。
 ――父さん。
「…………!!」
 降り注いできた声に、燐は目を見開いた。
「先生!」
 思わず日向がかつての呼び方で燐を呼ぶ。
「これ、朔くんの」
「しっ」
 ――父さん。日向さん。
 確かにそれは朔の声だった。燐は声を降らせる空を見上げたまま、一歩二歩と歩み出る。
「朔……朔だね? どこにいるの? 君は――皆は無事なのかい?!」
 ――帰ってきたよ。約束だったから。
 その声はどこか頼りなく、強い風が吹けば掻き消えてしまうのではないかと思われてしまうほどだった。燐は拳を握り締める。
「どこに、」
 ――だけど、ごめん。
 朔の声が、揺らめいた。
 ――僕、もう行かなくちゃ。
「行くって……」
 ――ごめん……僕、もう体がないから。
「え……?」
 一瞬、朔の言っている意味がわからなかった。体が、ない……? 思わず立ち尽くす燐の傍らから、日向が叫ぶ。
「朔! 帰ってくるって、約束しただろっ?!」
 ――うん。……だから、帰ってきたんだよ。日向さん。
「駄目だ……行っちゃ駄目だ、朔!」
 陽射しの中に、日向の涙が散る。燐はただ茫然と上を見上げるだけだった。
 ――日向さん。父さんの側にいてくれて……ありがとう。
「お前も側にいてくれよ……お前がいなきゃ、意味ないよ!」
 ――ごめん……。
「朔……」
 燐はつぶやいた。
「もう、一緒にはいられないの……?」
 ――ごめんなさい、父さん……。
 燐の頬を涙が伝った。
「なんで……、なんでだよ……朔……」
 初めて朔と出会って、彼が自分の息子だと名乗った時――奇跡が起こったと思った。失ったはずの愛を、絆を取り戻した。そう思ったのに。再び、しあわせはあっけなく失われようとしている。燐は何度も繰り返した。何故。何故。何故。
 ――奇跡を、
 朔の声が少し、遠ざかったような気がした。燐はまた一歩、前へと踏み出す。
 ――もう一度、奇跡が起こるかもしれない……だから……それを……待って……。
「信じるよ!」
 燐は答えた。朔が消えてしまう、その前に届けたかった。自分が朔をどれほど思っていたかを――これからも思い続けるかを。
「君を待っている……いつまでも、待っている!」
 ――父さん……。
 涙で曇った視界の中に、さくら色の微笑みがかすんで見えた。
「朔!!」
 日向が手を伸ばしたその指先に、何かがそっと、触れたような気がする。だがそれを握りしめることはできなかった。まるで雲をつかんだかのように、感触すらあやふやになって消え去ってしまう。それでも日向は手を伸ばし続けた。朔が跡形も消えてしまうなど、耐えられない。せめて、この身に何かを遺して欲しい。
「…………」
 気配が完全に消え去ってからも、燐はその場を動けなかった。やがて日向が手を下ろし、燐を見上げる。
「燐……」
「朔が消えたってことは……」
 絞り出すように、燐は呻く。
「きっと、あちらで何かがあったってことだ。――大きな何かが」
「何か……?」
 白虎に与えられた朔の体が、消滅した。余程のことがあったとしか思えない。
「朔……紫苑……」
 燐はつぶやいた。
「みんな……」
 ――それでも自分は待つだろう。約束を、奇跡を信じて待ち続けるだろう。
「燐」
 彼の手を、日向が握った。それを強く、握り返す。――日向とともに、待ち続ける。

  二
  
 青龍、白虎、玄武、朱雀。四聖獣が声ならぬ声で空高く吠える。桔梗の内に眠っていた青龍もまたその力を全て解放し、桔梗はその衝撃に耐えるだけで精いっぱいだった。それでも朔の体が虚空に溶け消えるのを見た時、桔梗は思わず悲鳴を上げていた。
「紫苑! 朔くんが……朔くんが!!」
 視線を紫苑に向け、はっと息を飲む。
「紫苑……?」
 紫苑は自分を見つめていた。朱雀のまとう炎に照らされて、暖かな紫の瞳がじんわりと潤んでいる。世界を覆い尽くしている激しさの中で、彼の表情だけが静謐だった。ゆるい円弧を描いて微笑む唇が、小さく開く。
「必ず、戻る。だから――待っていてくれ」
 轟々と逆巻く風の中でも何故かはっきりと聞こえたその言葉に、桔梗は目を見開いた。
「紫苑……それは、どういう……」
「あっ!!」
 桔梗の問いに紫苑が答えるより早く、昴が声をあげた。
 天高い場所から、一条の光が真っ直ぐに差し込んでいた。彼らを照らし出したそれは、徐々に範囲を広げながら世界を覆い尽くしていく。そのまぶしさに耐え切れず、桔梗は目を閉じた。
 ――「封印」は、開かれた。
 それは不思議な声だった。老若も男女の別もつかず、声の主がひとりなのか大勢なのかさえもわからなかったが、静かな威厳を兼ね備えていることだけは確かだった。
 ――汝らは「封印」を託されし者。道を、選んだか。
「ああ」
 答えたのは、紫苑だった。その声に、桔梗は泣きたくなる。ああ、自分はこのひとを愛したのだと、桔梗は改めて強く思った。紫苑は彼女のしあわせであり、誇りであり、かけがえのないただひとりの夫。
 紫苑はただ淡々と、落ち着いた様子で語った。
「世界は幾重にも重なり合ってできているという。それでは」
 まっさらな光に包まれた体はあたたかく、いつしか力の放出は止まっていた。桔梗はほっと力を抜く。
「この世を、ふたつの層に。ひとと、あやかしを異なる世界に」
 きっぱりと言い切った紫苑は、まるで独り言のように後を続けた。
「……いつか、両者はまた出会うかもしれない。いつか、どこかでふたつの世界が通じることがあるかもしれない。その時はどうか、争うことのないように。憎しみ合い、殺し合うことのないように――」
 桔梗の閉ざした瞼の下から、涙が滴り落ちた。ひととあやかしの狭間で命を落とした、数知れぬ者たち――さくら。蘭妃。藤原雅哉。癸。真雪。そして、朔。再びこのような悲劇が繰り返されることのないように。
「それが、我らの願い。我らの祈り。我らの選択だ」
 暫しの、無音。やがて声は応えた。

 ――汝らの選択を、受け入れよう。世界を、ふたつに。ひととあやかしを異なる世界に。

 その声を最後に、感覚の全てが消えた。桔梗は驚いて目を開ける。何も見えない。聞こえない。口を開けても声が出ない。紫苑を探したかった。紫苑を呼びたかった。紫苑に触れたかった。
 本当に紫苑は大丈夫なのか。ひとであり、あやかしであり、ひとではなく、あやかしでもない。彼の存在はどうなってしまうのか。紫苑を信じていても、どうしようもなく不安でたまらない。新しい世界に平穏が訪れても、紫苑がそこにいなければ意味がない。誰かを犠牲にして得られるしあわせなど、存在しないのだから。少なくとも自分は決してしあわせになどなれない。紫苑のいない世界など、意味がない。
 千々に乱れたこころを抱いてうずくまった桔梗は、ふと顔を上げた。
 ――忘れないでくれ。
 突然響き渡ったのは、紫苑の声。はっとした桔梗の目の前に、まるで霞にかかったようなぼんやりとした姿の紫苑が現れる。彼は微笑んでいた。最後に見たのと同じ笑顔で、微笑んでいた。
 ――必ず、私はお前の側に……。
 桔梗は紫苑に手を伸ばす。紫苑もまた、手を伸ばした。
 ――かならず……。
「…………!!」
 指先が触れ合う直前で、紫苑の姿が引き千切れる。その光景に、全身がすくんだ。切り裂かれた靄のように散り散りになっていく残滓に手を伸ばし、桔梗は声にならない絶叫を上げる。――紫苑が消えてしまう。どこにもいなくなってしまう。引き裂かれる世界の狭間で、迷い子になってしまう……!!
 深い闇に落ちていく。落ちて、落ちて、落ちて――やがて、光が差し込む。全身を貫き通すような強い光にやかれ、桔梗は絶望を抱いたまま意識を失った。

  
  三

 その時、不思議な現象が起きた――それは、後になって誰ともなく語られたことである。辺りが光に満ち、その強過ぎる輝きに視力が失われ……やがて、幻影が現れた。失われたいのち、死別した思いびと、家族。何を語るわけでもなく、ただ優しくかなしく微笑んでいたと。
 藤原家のものは、雅哉を見た。都にいた橘燐は、さくらを見た。日向は霧雨を見た。父を見た。加乃は癸を見た。母を見た。壬もまた、癸を見た。遥を見た。かつて失われた、水龍の一族を見た。夜雲は真雪を見た。夜月を見た。母を見た。しずを見た。
 それが世界が分かれていく瞬間だと、彼らは気付くこともなく。懐かしい幻は、やがて静かに去っていった……。

  四
  
 闇と、そこから生まれた光と。いつの間にか昴は気を失っていたらしい。確か、うっすらと両親の影が見えたような気がしたのだが、あれは幻だろうか。父の顔など知らぬはずなのに……。
「う……」
 呻いて、体を捩る。掻いた指は土を浅く掘った。
「昴さん!」
 何者かに助け起こされ、昴は目を瞬く。ぼやけていた視界が徐々に焦点を取り戻し、やがて昴は大きく目を見開いた。
「透流……!」
 その顔も体も泥だらけになってはいたが、彼は何も変わっていなかった。昴は彼の肩に腕を回し、ほっと息をつく。
「良かった……無事で……」
「はい!」
 透流もまたしっかりと彼女を抱いた。昴はその腕の中で首をひねり、辺りを見回す。森に囲まれたその場所は、何事もなかったかのように静まり返っていた。ただ彼ら四人の立っていた場所の土だけが、円く抉り取られている。
「……いない」
 昴はつぶやいた。桔梗も、紫苑も、朔も。誰もいない。壬の姿も、見当たらなかった。
「壬さんに、伝言を頼まれたんです」
 透流は彼女の肩に顎をうずめ、くぐもった声で言った。
「燐さんに、謝っておいてくれと……昔のこと、悪かったって。それから」
 昴は顔を伏せた。頬を伝い落ちる涙を、隠したかった。だが透流はそれを許さない。彼女の頬を両手で包み、顔を上げさせる。――彼自身もまた、泣いていた。
「それから――みんなのこと、結構気に入ってたって……。おれたちに、うまくやれよって」
 嗚咽まじりのその言葉を聞きながら、昴は目を閉じる。
「馬鹿ね……そんなの、私だって同じだったわよ」
 ひともあやかしもなく、彼らみんなを昴は気に入っていた。大好きだった。――大切な、家族だった。誰ひとりとして欠けて欲しくはない、失われてはいけない、家族だった。それなのに……いや、だからこそ。大切な家族のひとりである癸が失われてしまったからこそ、彼らは決断せざるを得なかった。
「燐に、ちゃんと伝えなきゃ。あと加乃ちゃんにも」
 昴は目を開け、透流を見つめた。もう泣かない。泣いてはいけないのだと思った。離れ離れになっても、生きてさえいれば――しあわせでいてくれさえすれば、それでいい。
「癸さんのこと……朔のこと。紫苑の――私たちの、決断のこと……」
「ええ、そうですね……」
 透流はぐいと腕で涙を拭った。目を赤くしたまま、それでも微笑んでみせる。
「帰りましょう、昴さん」
 彼女の手を取り、透流は立ち上がった。
「おれたちの家に――帰りましょう」
「…………」
 昴は黙ってうなずく。
 ひとの陣のあった方角から、遠く馬のいななきが聞こえていた。